真宗大谷派 浄円寺
92
浄円寺コラム<92> 2023,10,14重共聡
<スポーツの秋特集>
ささやかな人生のハイライト 1967秋
中学三年秋の体育祭だったと思う。
僕たち陸上の練習仲間五人は、城端中学校グラウンド百メートル走のスタートラインに立っていた。
目の前には、新品のハードル五人分四十台が並べられていた。
「位置について!」
両手をつきながら思った。
「エダ君に抜かれるとカッコ悪いな…」
中学で帰宅部の僕だったが、二年生になった頃から東砺波(ひがしとなみ)郡の中学校の陸上競技大会に駆(か)り出されるようになっていた。
母親が速かった関係で、僕も駆けっこは割と速い方だった。
「親が速ければ子も速い。」
僕の陸上に対する認識はただそれだけだ。それ以上でも以下でもない。
ただ、中学当時の自分は得意になっていた面があったかもしれない。
それはそれとして、話は中学二年に戻る。
当時の城端中学校に陸上競技部はまだなかった。
それで、サッカー部の顧問で体育教師の天池(あまいけ)先生が顧問的立場に立って、陸上の対外試合のたびに、足の速そうな生徒を招集していた。その中に僕も入っていたというわけだ。
最初の頃は、走り幅跳びや三段跳びをやった。成績はまあまあだった。
ところで、同学年のメンバー五、六人の中にずば抜けた才能をもっているのが一人いた。
それがエダ君だった。
彼は上背(うわぜい)もあり足の速さは校内で誰もかなう者がいなかった。郡の大会の短距離(100,200m)ではいつも優勝していた。
寄せ集めのメンバーで個人競技ということもあって、最初は殆んどぶっつけ本番で出場していたと思う。顔ぶれが決まってくると次第に練習日が増えていった。
そのうち、エダ君のお兄さんと、自分たちより二年先輩のオオニシさんが、時々顔を出してコーチをしてくれるようになった。
エダ君のお兄さんは大学生、オオニシさんは高校生で、オオニシさんは城端中学時代はハードルで鳴らしていた。
二年の秋頃だったと思う。オオニシさんが言った。
「重共、ハードルやってみないか?」
「はい!」
即答だった。
実はその頃、自分の実力に限界を感じ始めていて、まともに走るのは太刀打(たちう)ちできないが、たとえばハードルだったら伸びるかもしれないと思っていた矢先(やさき)だったのだ。
僕の気持ちを知ってか知らずか、いいタイミングでオオニシさんが声をかけてくれた。
おまけに、当時のハードルの距離は80mと短く、100mや200mより楽だと安易に考えていたところもあった。
オオニシさんにマンツーマンで指導を受けながら記録は次第に伸びていった。
東砺波郡の大会だったか、オオニシさんが応援に来ている人たちに向かって嬉(うれ)しそうに言った。
「彼は、俺の大会記録を破るよ。」
その一言(ひとこと)はちょっと意外だった。それは、自分最優先(さいゆうせん)の僕からはとても出てこない言葉だった。
それだけ期待してくれているんだなと思った。
そして三年になった。
最初の県レベルの大会が、NHK放送陸上だった。
四十七都道府県の中学生が同じ日に陸上の技を競い、その記録を集計して全国の順位を決めるというものだ。
富山市の県営陸上競技場で行われた大会で、エダ君が100mと200mを制した。
「やっぱりエダは速いな。」
と思った。
その勢いで、4×200mリレーも我が城端中学校のチームがトップでテープを切った。
エダ君のおかげで勝てたと思った。
ただ、全国の順位は40番台で他県のレベルの高さを痛感した。
次は県体だった。県体に備えて城端中、福野中、井波中、庄川中など東砺波郡の中学校陸上部の合同練習が、庄川中学校のグラウンドで行われた。
そこに衆議院議員W貫T輔氏の姪(めい)が参加していた。僕と同学年だったと思う。似てなくもないが、
「これがあのW議員の姪なのか?」
と意外に思ったくらい、美人だった。
すらりと伸びたカモシカのような足で、跳躍系の種目をやっていた。ただ、実力はさほどではなかったと思う。
県体のリレーは4×100mで、東砺波郡の中学校合同チームが編成(へんせい)されることになっていた。
ところが、発表されたメンバーは城端中学の4人で固められていた。
「井波中学に僕より速い生徒がいるのに…」
と、疑問に思って城端中学の引率の天池先生に尋ねると、
「彼はフォームが荒く、ラインをオーバーして失格になる怖(おそ)れがあるので。」
と選考の内幕(うちまく)を話してくれた。
それを聞いて天池先生は策士(さくし)だなと思った。これも城端中の生徒を一人でも出場させたいという親心ゆえだなと思った。
そして今回も、リレーはエダ君のおかげで一位になった。
(つづく)
[連載企画]
太極の世界に足を踏み入れて<青春編>
空前(くうぜん)のブーム
「あれっ、鏡のせいかな?」
人数が倍増して、二手(ふたて)に分かれて練習していたので、手前のグループが鏡の向こうにも映っていると錯覚(さっかく)したのだ。
それも一瞬のことで、鏡などが道場の真ん中を仕切っているわけがないと、すぐに気がついた。
会員は三十名を越えていて、二十代の若者が殆んどで男女半々くらいだった。
この年、昭和五十六年はバレリーナが太極拳を演じるテレビCMが話題となり、太極拳が日本中に空前のブームを呼んだ。
富山県も例外ではなかったのだ。
会場も錬成館の他に、富山市で一番人気のあるⅯジャズダンス・スタジオを借りて、日曜の午前に始めた。
皆(みな)同年代だったこともあり、練習よりもその後の喫茶店でのおしゃべりの方が楽しみだった。金曜の夜はワシントンホテル1Fのガスライト、日曜の昼は会員のK子が店長をやっている喫茶店にだいたい決まっていた。
ある日、K子が言った。
「太極拳に来ている男の人は、みんな重共さんに似てるわねぇ。」
そう言われるとそんな気がしないでもなかったが、男性群と女性群はまるでタイプが違っていた。常識的でおとなしい男性たちに対して、女の子の方はK子を始めとして気の強い個性派が多かった。
その年の夏、代々木のオリンピック記念青少年センターでの全国講習会に、初めて富山から十八名で参加した。
それを見て、学生の頃からお世話になっている事務の長谷川さんが、
「まあー!」
と言って喜んでくれた。
その時みんなで着ていった富山独自に製作したパジャマのようなユニフォームが目を引いたのか、三浦理事長をはじめ送って欲しいと申し出る人が何人かいた。
(つづく)[次号 10月28日]
忘年会で(青木さん;後列左より五人目。筆者;右より六人目)
松岡ジャズダンス・スタジオ発表会にて (富山市 県民会館)