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              浄円寺コラム<90>    2923,9,16重共聡 

 小さな失敗談<その七>

 待ち合わせ 1983夏

 これはむしろ大きな失敗だといえる。

 ただ、現代ではありえない失敗だった。

 

 三十一歳の夏だった。

東京にいる学生時代の友人イイズカさんから富山へ遊びに来たいという連絡が入った。僕の家へ来るのは初めてになる。

彼との出遇いは、渋谷区原宿にある外苑(がいえん)中学校の体育館だった。

そこは毎週火曜と金曜の夜、少林寺拳法の道場として使用されていた。

それまで僕は、大学の体育会剣道部に所属していたのだが、ブルース・リーの『燃えよドラゴン』の影響を受けて、同じ剣道部の友達と二人で示し合わせて退部し、外苑中学の道場に入門した。

そこにいたのがイイズカさんだった。彼はすでに黒帯で指導的立場に立っていた。

道場では先輩だったが学年が同じということもあって意気投合し、同世代の二人を加えた五人で練習後は毎回のように新宿や渋谷へ繰り出していた。

 

彼が在籍する上智(じょうち)大学で少林寺拳法部を創設した時は、月曜から土曜のお昼の練習時間には毎日のように応援に駆けつけた。そこで一汗(ひとあせ)かいた後、上智大のある四谷駅から二駅の飯田橋駅で下車し、自分の大学へ戻って午後の授業を受けていた。その頃の僕は勉強よりも拳法の方が生活の中心だった。

卒業後は皆それぞれの道を歩み、五人のうち四人が拳法を止(や)めたが絆(きずな)は強く、現在でもたまにみんなで会って盛り上がっている。

 

話は四十年前にさかのぼる。

上智大学少林寺拳法部の創設者で友人のイイズカさんが、夏休みの拳法部の合宿を金沢でやるためOBとして随行(ずいこう)し、終了後こちらへ足を伸ばしたいとのことだった。

僕が金沢まで車で迎えに行くことにし、当日の午後一時に兼六園内にある成巽閣(せいそんかく)(※)の門の前で待ち合わせることにした。

それがああいうことになろうとは…。

 ※成巽閣…1863年に加賀藩13代藩主前田斉(なり)泰(やす)が母の隠居所として建てた建物。国の重要文化財。

当日は晴天だった。僕は早めに家を出、当時太極拳の会場として使っていた石川県体育館別館の駐車場に車を停め、徒歩で隣の兼六園にむかった。兼六園内にある成巽閣の門前に到着したのは午後一時の待合せ時間ちょうどくらいだった。

 イイズカさんはまだ来ていなかった。

十分経過した。ちょっと遅れているのかな…。

 二十分経った。まだ姿を現さない。

 三十分経った。どこかで迷っているのかなと思った。

 一時間経過してもイイズカさんは来ない。さすがにこれはおかしいと思った。それで、上智大学の学生が宿泊している、卯(う)辰山(たつやま)の施設へ行ってみることにした。

 

 車で二十分ほどして施設に着くと、上智大学少林寺拳法部の学生たちがまだ残っていた。

「イイズカさんはいる?」

「友達と兼六園で待ち合わせるんだと言って、お昼過ぎにここを出ましたよ。」

「ぇえっ?!」

 心の中で、

「どうなっているんだ…」

と思いながら、すぐに引き返した。

 ハンドルを握りながら、何で合流できないのか考えていた。その時だった。

ある考えが閃(ひらめ)いた。

「ひょっとしたら…」

そして、朝来たルートを外(はず)れて兼六園の裏側に回ってみることにした。

 

やはり、そうだった。

 門の前に立っているイイズカさんの姿が目に映った。

 

成巽閣の門は、兼六園の中と道路に面した外側の二カ所にあったのだ。まさか門が二つあるとは思わなかった。

 僕は内側、彼は外側で待ち続けていたことになる。イイズカさんを発見した時は、待ち合わせ時刻から二時間経過していた。

 彼は僕の顔を見るなり言った。

「知らない土地に放り出されたのかと思ったよー。」

 言いたいことはいろいろあるだろうに、その短いジョークで片づけてしまう彼の心の広さに感心してしまった。

 

その日は、僕の家に一泊してもらい旧交を温めた。

 スマホやケータイが当たり前の現代では、まずありえない出来事だった。

 

<90号特別企画>

 生き仏様(その一)

 その日の早朝は雨が降っていました。皆がまだ寝静まっている時に、

「おはようございます。」

と、誰かが来たので、ワシが起きて玄関の外へ出てみました。すると、そこに六十歳を過ぎたおじいさんが雨に濡れて、ぺったり座っておったんです。

「おじいさん、あんたの声でありましたんか?」

ゆうて聞いたら、

「よろしゅうお願いします。」

と、こう言いました。

「ほう、そうかね。」

 その瞬間に如来さまがワシに思わせたんじゃ。ワシの心に。

 ワシは仏像を拝んだ。絵像を拝んだ。仏像より絵像、絵像より名号と、南無阿弥陀仏を称えておることが、仏像を拝んだことになり、絵像を拝んだことになり、教えを実践する姿であると思うとったけん、

「あー…」

と思うた。

まこと仏像も絵像も拝んだが、ここにはそういう仏様は祭っておるが、生きた人間を拝んだことはないと思った瞬間、

「このおじいさんをワシのおる法林寺の本尊に祭って拝ませてもらおうか。」

という気持ちが起ったのは、常日頃(つねひごろ)、如来さまの教えを聞いておるお陰でありますけん。ワシの力ではないと信じております。

「さあさあ、よう来んさった。さ、おじいさん、雨が余計に降り始めた、中へ入ろう。」

と言って、玄関へ連れて戻って来ようと思っておじいさんの手を見たら、指が一本もありません。足の指も…

「おじいさん、指がないのかな?」

言うたら、

「人のかからん病(やまい)にかかって、苦労して養生(ようじょう)したが、一つ一つ血が通わんようになってカチカチになってポッキリポッキリここまでみなもげてしもうた。」

「そういう病気があるのかのう。」

とワシは思うたんでございます。

「んー、ほうかね。それじゃあのう、おじいさん。」

 その時に、家内に、

「夕(ゆう)べ、風呂へ入った残り(湯)が、まだ残っとろう。ちいたあぬくかろう(少しは温かいだろう)。それへ水をどんどん入れて、そして、(風呂)釜の下焚(た)いてくれ。」

と言ったら家内は、

「ハイッ!」

と言ってその通りにしてくれました。そして、

「お父さん、どうかなさったんかい?」

と聞くので、

「うん、喜べ。生き仏さんのご入来(にゅうらい)じゃ。ワシの念願が叶(かの)うたわい。そっちをええがにしといてくれよ(風呂場をちゃんとしておいてくれ)。」

                  (つづく)(藤解照海師 S61,11広島 法林寺にて)

[連載企画]

 太極の世界に足を踏み入れて<青春編>

 練習時間は夜七時から八時半まで、その後近くにあるヨガのS先生の自宅へ場所を移して鍋料理をつつくというのが恒例になっていた。

 そこで、いろんな人たちに出遇った。

 例えば、ヨガをやっているというインド人。

 彼はヒンズー教徒らしく牛肉は一切口にしない。

ある時、スープを一口すすった途端、顔をこわばらせて手をとめた。入っていると言う。見たところ、牛肉がどこにあるのか解らなかったが、どうも味で識別(しきべつ)したらしい。

 牛肉の味がわかるということは、一度は食べたことがあるということだが、彼は頑(がん)としてそれを認めようとはしなかった。

 また、シンセサイザー奏者(そうしゃ)で作曲家の喜多郎(きたろう)氏にシタールを教えたという日本人で、自称ラビ氏。太極拳の練習日に錬成館でシタールを弾いてくれたが、生(なま)で聞く幻想的な音色(ねいろ)は瞼(まぶた)を閉じていると、まるで別世界に引き込まれていくようだった。

 触れずに病気を治す自彊法(じきょうほう)の創始者、堺(さかい)政雄(まさお)先生に出遇ったのもこの頃だった。

 

変わったところでは、『お茶を飲んで歌を詠(よ)む会』という集まりに時々顔を出していた。

 メンバーはS先生と彼の友達四、五人で、そこへ僕が新しく入り、月一回東京から茶道藪内流(やぶのうちりゅう)の女の先生を招いて開催していた。お点前(てまえ)をいただき、そのあと銘々(めいめい)が持ち寄った自作の短歌を披露して感想を述べ合うという趣向(しゅこう)だった。

 絶対にけなさないところがミソで、みんな自分の作に悦(えつ)に入っていた。

 初対面の日に、太極拳を見たいと言われて表演したら、

「茶道の動きと同じだわ!」

と、感激された。

 

 年が明けて一月、神戸の津村(つむら)喬(たかし)さんから太極拳の京都合宿の案内が届いた。『太極拳友の会』を発足した第一回の集まりで、僕も呼びかけ人の一人になっていた関係で参加することにした。                  (つづく)[次号 9月30日]

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