真宗大谷派 浄円寺
89
浄円寺コラム<89> 2023,9,2重共聡
〖歴史ロマン〗
西明神社の石碑 2023初夏
「お宮様の石碑にかいてある『西明神社』の字は、小間(こま)井(い)さんの親戚の人に頼んで書いてもらったものだよ。」
記憶の底にあった母の一言が、僕を歴史タイムスリップの旅に誘(いざな)ってくれた。
小間井さんというのは、母が二十歳の頃洋裁学校へ通うのに下宿していた、金沢市の老舗(しにせ)の靴屋さんだ。
今年四月の月忌参りの際に前田さんから、
「徳田さんの出した本(蓑谷地区の石碑)にもとづいて地元の石碑を見てまわる企画があり、蓑谷地区、細野地区とやって、今年は西明の番なんだけど、浄円寺の石碑の説明をやってもらえる?」
という話があった。
とりあえず引き受けることにしたが、まだ二カ月あるので楽な気でいた。
そして、頼まれてはいないが西明神社の石碑についても調べてみようと思った。
以前、母がふと漏らした言葉を思い出したからだ。
この一言がなかったら、西明神社の石碑にまつわるストーリーは永遠に闇に埋もれて表に出ることはなかっただろう。
そして、石碑巡りという企画がなければ、僕も調べていなかったと思う。
前田さんから話があってしばらくは、まだ日があるとのんびり構えていたが、本番が十日後にせまってきたところで、尻に火がついてきた。
それで、お宮さんの近くを通った際に、石碑へ足を運んで確認してみることにした。すると、正面の『村社 西明神社』と書いてある右側面に『正三位 子爵 木下俊哲 謹書』となっていた。それを見て、
「あれっ?」
と思った。小間井さんの親戚だから小間井という名前だと思っていたからだ。
それで、ムダだとは思ったがネットで検索してみることにした。
「木下俊哲」と打ち込んみて驚いた。
載っていたのだ。
そのこと自体驚きだったが、記事を読んでいくうち、さらに驚くべき事実に突き当たった。
「木下(きのした)俊(とし)哲(あき)、明治6年~昭和11年。旧日出(ひじ)藩主(最後の藩主)木下俊愿(としまさ)の三男として生まれる。」
日出藩は明治の廃藩(はいはん)置県(ちけん)により日出県となり、その後大分県に編入されている。
そして、藩祖をたどってみるととんでもない歴史上の人物につながっていた。
豊臣秀吉の正室である北政所(きたのまんどころ)、通称ねねの兄の三男、木下延俊(のぶとし)となっていたのだ。
もともと杉原姓(せい)だったのが、義弟の木下藤(とう)吉郎(きちろう)(のちの秀吉)が出世するに従ってその姓である木下を名乗るようになったとあった。
そして、もう一つ、石碑を書いた木下俊哲氏の正(しょう)三位(さんみ)という位(くらい)を持っている人物を調べてみたら、なんと平清盛、織田信長、徳川家光、西郷隆盛、山本五十六など誰でも知っている歴史上の人物が出てきた。
ここで、ある疑問が湧いてきた。
なぜ、この片田舎の名もないお宮様の石碑に、こんな立派な人物の書が刻まれているんだろう?
そこで、記憶に残っている母の言葉、
「お宮様の石碑の『西明神社』の字は小間井さんの親戚の人に書いてもらったものだよ。」
をつてに、金沢市の小間井さんに連絡をとってみることにした。
母がいた時は、毎年、夫妻でうちへ遊びに見えていたのだが、この五年間はお歳暮のやり取りだけになっている。
「お久しぶりです。以前、母が西明神社の石碑の字を書いたのは、小間井さんの親戚だよと言っていたんですが、どなたのことかご存じないですか?」
「いやー、解らないなあ。」
やっぱりそうかと思った。
そこで気を取り直して、名前を出してみることにした。
「木下俊哲という人なんですが…」
言い終わらないうちに、
「それは、私の父親の妹のお婿さんだよ。」
と、返ってきた。
ようやくつながったことに感動したが、頭の中が追いつかなかったので、もう一度聞き返した。
つまり、当主である小間井さんのおばさんのご主人が西明神社の石碑の字を書いた木下俊哲氏本人だということだった。
六月二十五日の石碑巡り当日は、二十五名の地元の人たちが集まった。西明神社の石碑のところで、僕が受けた感動を参加した皆さんとシェア(共有)できたと思う。
その週は一仕事をやり終えた開放感に浸っていた。が、一週間ほどしてある疑問が湧いてきた。
というのは、石碑が建てられたのは、昭和4年となっていて、母がまだ6歳のときで、小間井さんとはまだ下宿の縁がない頃だったからだ。
うちと小間井さんは、そもそもどういった縁で知り合いになったのか、その疑問が解消しないことには、頭の中にモヤモヤが残ったままになると思った。
それで、再び小間井さんに連絡を取ってみることにした。
その結果、ようやく腑(ふ)に落ちた。
こういうことだった。
布教使だった祖父が金沢へ行っ際には、小間井さんの家を宿にして、あちこち説法に回っていた。また、小間井さんのお祖母さんが熱心な念仏者で、自宅で法話会をやることもたびたびあった。そして、叔母さんつまり木下俊哲氏の奥さんがしょっちゅう手伝いに来ていた。僕の祖父はそこで俊哲氏の存在を知ったのだろう。
僕の想像も入れてまとめてみるとこうなる。寄進人の堀田孝太郎氏が石碑の字を浄円寺住職をしていた僕の祖父重共正念に依頼した。そこで正念は金沢で説法の宿にしている小間井さんの当主の妹のご主人が旧日出藩の藩主の子息であることを知って、石碑に入れる『西明神社』の字を書いてもらった。と、これでようやくつじつまが合った。
ちなみに、俊哲氏のご子息は小間井さんのいとこに当たり、現在小松市の市会議員をやっておられるとのことだった。
聞法の仕方<二>
ワシがそういう人間じゃったけん、よう解る。
三十一、二(歳)までは、このワシが聞きよったんです。
ワシは珍しいことを聞きたがる奴であります。
ところが、浄土真宗では、同(おんな)じことを聞くんでありますよ。
ワシはワシが聞いて助かろうというワシなんですよ。
結構なご縁に会うと、
「そうよ、そうよ。」
と頷(うなず)きおるけんどが、頷きおるのは誰がうなずきおるのかちゅうことです。
頷くのはワシじゃないんです。私らには、自力(じりき)虚仮(こけ)(※)の我々にはなかなか気がつかんが、我々は聴聞をさせてもらうその心へ向かって、
「ワシが聞くのではないぞ。」
「ワレに聞くような性根(しょうね)は微塵(みじん)もないぞ。」
こういうお言葉がある。
「如来より許されてお聞かせにあずかるんでよ。」
と、こう言うてある。
これが、御開山(ごかいさん)(親鸞聖人)が聴聞なさったご精神でありますよ。
私は大間違いしとったんですね。
ワシの力で、ワシの智慧で、ワシの分別で聞きよるんじゃけん、いくら聞いたってそこをただ行ったり来たりするだけです。
聴聞は如来から許されてお聞かせにあずかるのだという、このお心をもろうたんです。
まるで、真(ま)反対におったんですよワシは。
聴聞は如来より許されてお聞かせにあずかるのだと言われたお言葉が、今度は私になったんや。
そうならせてもろうてみたら、そうなる以前の、法を聞いていた性根は、「恐ろしや恐ろしや」と思いましたよ。
聴聞は、仏に許されてお聞かせにあずかるのでございましたとならないと、有難うございますの心で聞かりゃあしませんわい。
そうならせてもらわんとのう(そうならせてもらわないと)、長いこと(長い間)聞いても身につきません。 ※虚仮…噓いつわり。
藤解先生 S57,9,7広島法林寺
※太極の世界に足を踏み入れて<青春編>はお休みしました。
(つづく)
[次号 9月16日]