真宗大谷派 浄円寺
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浄円寺コラム<82> 2023,5,27重共聡
地震の記憶「お坊さんにつかまっていると安心だわ!」
新潟地震 1964初夏
子供の頃、親によく言われた。
「地震が起きたら、竹(たけ)藪(やぶ)へ逃げろ。」
当時、庭の隅に小さな竹藪があったのでイザという時の心の準備はしていたが、大きな地震があったという記憶はない。
小学六年の時だった。
自分の通っていた蓑谷小学校が全焼した関係で町の城端小学校に併合され、木造校舎の二階が六年二組の僕の教室になった。
その日、正確には昭和三十九年六月十六日午後一時過ぎ。急に全校児童が校庭に集合させられた。
何のことかと並んでいると、前に立った先生が言った。
「ただ今、新潟県で地震がありました。」
それが、あの新潟地震だった。テレビでは団地の建物が、大きく傾いている映像が映し出されていた。
ただ、木造校舎二階にいた自分たちは揺れを全く感じなかった。
十八歳で進学して、千葉県野田市運河(うんが)に下宿し始めた頃だった。
時々建物がガタガタ揺れるので、電車が近くを走っているのだろうと思っていた。でも、当時のその辺りは僕の実家のある西明地区よりものどかで、早朝には、
「コケコッコー!」
と、あちこちから鶏(にわとり)の鳴き声が聞こえてくるほどだった。
線路など見当たらないことに気づくまでそんなに時間はかからなかった。
電車の揺れは地震だったのだ。地震がこんなにしょっちゅう起きるのは、僕の富山県ではありえないことだった。
その後紆余(うよ)曲折(きょくせつ)を経て、秋には新宿区東大久保に下宿している自分がいた。
最寄りの駅は新大久保駅で、当時は今のように多国籍の人たちの住むイメージはまったくなかった。
大家(おおや)さんは新米(しんまい)で、自分たちは下宿人第一号だった。朝夕の二食付きで月二万円。埼玉、静岡、長野、新潟、山形などから来た僕と同年代の六~七名が下宿していた。
山形出身のコウ君は、農協職員を辞めて先生を目指すべく、大学受験のために上京していた。山形弁のコウ君とは結構打ち解けて話すようになった。
ただ、一度だけ山形弁と富山弁が噛み合わないことがあった。意思の疎通がうまくいかず、ためしに英語を使ってみた。すると、意外にもコウ君に通じてしまった。共通語に英語を使ったのは後にも先にもその時一回きりだった。
みんなでテーブルを囲んで夕食をとっている時だった。
急に建物が揺れ始めた。地震は時々あったが、その時はそれまでよりも大きかった。
身の危険を感じた時、コウ君と二人立ち上がるや玄関にダッシュした。靴を履(は)こうとして後ろを振り向いて初めて気がついた。
大きな揺れに反射的に玄関まで走ったのは、僕と山形から出てきたコウ君の二人だけだったのだ。
他の埼玉、静岡、長野、新潟出身の連中は食堂の席に着いたまま悠然(ゆうぜん)としていた。
自分たち二人はバツの悪い思いを抱えながらテーブルに戻った。そして、埼玉や静岡の連中に対して、
「腹が据(す)わっているな。」
と心の中で感心していた。
新潟県中越地震 2004秋
お寺を継ぐため富山へ戻る二年前、詳しくいえば平成十六年十月二十三日、その日僕は、東京都練馬区のデイサービスの仕事を終えての帰途、東武練馬駅近くの行きつけの喫茶店の二階でアイスコーヒーを飲んでいた。
と、不意に建物がグラグラ揺れ出した。それは初めて経験する大きな揺れだった。
僕は、外へ飛び出したい衝動を抑(おさ)えながら椅子でじっと耐えていた。ようやく収まってまもなく、震源地が新潟県だと店の人が話しているのが耳に入ってきた。
それが新潟県中越地震だった。その時思った。
「新潟から遠く離れた東京でさえこんなに揺れたのだから、隣りの富山県の僕の実家は大変なことになっているんじゃないか…。」
早速PHSを取り出し実家の番号をコールした。
「地震どうやった?」
と聞くと、受話器の向こうの母が言った。
「えっ、何のこと?」
「……。」
キツネにつままれるとは、こういう時のことをいうのだろう。
揺れは感じなかったというのだ。
度肝(どぎも)を抜(ぬ)く揺れに見舞われた自分としては、どう考えても納得のいかない地震だった。
能登半島地震 2007春
富山に帰って半年後、お寺の仕事に慣れつつあった頃だった。
その日、平成十九年三月二十五日は午前十時からの法事のため、同じ西明地区のⅯさん宅の客間にいた。お手(て)次(つぎ)の住職はまだ来ていなかった。
と、九時四十分過ぎ、不意に建物がグラグラきた。
富山県にしては今までにない大きな揺れだった。即座に思った。
「うちは大丈夫だろうか?」
「昔の造(つく)りで建物が石の上に乗っかっているだけなので、倒壊(とうかい)するかもしれない。」
そう思うと居(い)ても立っても居られなくなり、揺れている最中(さいちゅう)だったが廊下に出て玄関めがけて急いだ。
その時だった。
急に体の一部が自由を失い、それ以上前に進めなくなった。
直後に、
「お坊さんにつかまっていると安心だわ!」
という声がした。
思わずその方(ほう)を振り向くと、そこには紋付(もんつ)き姿の中年女性がいて、隣りの部屋から僕の間(かん)衣(え)の左(ひだり)袂(たもと)を両手でしっかりとつかんでいた。
僕は進むに進めず、その場に釘付(くぎづ)けになってしまった。
早く外へ出たいとあせる気持ちの中で、
「お坊さんって、こういう存在なのか…」
と、デビュー半年の自分は思っていた。
何とか外へ出たけれど、手前の家にかくれて自分の家の状況が確認できなかった。携帯も混線していてつながらなかった。
結局、家は無事だった。地震のことを母に話すと、外にいてまったく気づかなかったようで、家の中にいればよかったと、揺れを体験できなかったことを悔(くや)しがっていた。
後年(こうねん)、あの袂(たもと)につかまった中年女性のことが気になって、法事のあったⅯさん宅へ月忌参りに行った際に尋ねてみたら、
「千葉県在住の親戚の奥さんでしょう。」
ということだった。
あのドライさは、やっぱり都会的な感覚なんだなと納得した。
手足のシビレ
四月に入って、両肩から上腕にかけてと、両下腿から足の甲にかけての原因不明のシビレに悩まされるようになった。
その頃聞いていた法話に、僕の気持ちをまさに言い当てた言葉があった。
お前様は、左の手が痺(しび)れとるが、それを縁としてロクなことを考えやすまいが、どうや。
手が動かんようになってしまわないかと、悪い方へ輪をかけてお前は悩んでいる。その心が痺れとるのよ!
こういう時になぜ、
「有難うございます。」
が出んのやろう。
仏さんの言われることがはっきりと映(うつ)らん様な心を知らしてやろうと思うて、お前のその手はシビレとるのじゃ。
そのシビレとるところをさすってのう、
「有難うございます。」
と心(しん)からお礼を言え。お前の痺れ切った性根をのう、はっきりさせて救いとってやろうちゅう如来さんのお慈悲じゃわい。
それをお前は忘れて、手が痺れたゆうてアレを思いコレを思うて患(わずら)っとる。悪い方へ悪い方へしか考えない。それを悪業(あくごう)というのよ。
いい方に考えるというのは、
「ありがとうございます。」
と受け取ることよ。これを善業という。
善業とは、手の痺れとることを通して、
「あぁ有難うございます。このようにして、私の真(まこと)のない痺れた根性をよくぞ知らして下さいました。」
と、仏様に感謝することよ。そうならんと、転ずるという意味が解りますまいが(悪業が転じて善業となるという意味が解らないでしょう)。
(藤解先生 S58,3,27)
原因不明のシビレは一カ月ほど続いたのち自然に治まった。
※訂正;コラム<80>小さな失敗談…先日お参り先で、たまたま里帰りしていた大阪在住のご家族に確認したところ、大阪弁での「箸」と「橋」の発音は標準語と同じで、箸は「は」にアクセントを置き「は↘し」と発音し、橋はフラットに「は→し」と発音するということでした。「雪」の発音については未確認です。
[次号 6月10日]