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​              浄円寺コラム<80>    2023,4,29重共聡

小さな失敗談<その六>

「箸(はし)くださーい!」

 二年後の2025年に大阪関西万博が開催されるが、昭和45年に開かれた最初の大阪万博の時は高校三年生で、家族四人で見に行った。

展示物よりもソ連館に入るのに行列の中を三時間待ったり、初めて見る青い目のコンパニオン嬢に見とれていたことの方が記憶に残っている。

同じくらい印象に焼き付いた光景がある。

「大阪ってアベック(カップル)が多いなあ。」

やっぱ都会は進んどるなと初めての大阪の街並みを歩きながら思った。

その一年後、大学入学のため上京したときの第一印象は、

「妊婦(にんぷ)が多いな。」

だった。喧噪(けんそう)の中を大きなお腹を抱えて歩いている女性がやたら目についた。

 

 僕は割(わり)と都会生活が長かった方だが、都会にあこがれたわけではなく、きっかけは東京圏の大学しか受からなかったというのが正直なところだ。

 だから方言を標準語に直そうという気持ちはさらさらなかった。

水に「お」をつけて「お水」と言ったり、「…しちゃった」という言葉は、田舎から出てきたばかりの自分には、どうにも生理的になじめなかった。

 

そういう訳(わけ)だから、こちらの意思が通じないことも時々あった。

 十八歳で大学へ通い始めた頃だった。好物(こうぶつ)の柿山(かきやま)が食べたくなり、下宿近くの店へ足を運び、そこのおばさんに言った。

「かきやま下さい!」

「えっ?」

「かきやま下さい。」

「カキヤマって何のこと?」

驚いたのはこっちの方だ。

「かきやまが通じない…。」

それは自分にとって衝撃だった。

 いつも食べている「かきやま」についてあの手この手で説明する羽目(はめ)になるとは思わなかったが、

「ああ、アラレのことね。」

とようやく解ってくれた時は、自分の存在が肯定(こうてい)されたようで胸をなでおろした。

 都会では「かきやま」は通じないことが身に染みたので、以後は、

「アラレ下さい。」

で通している。

 

 こんなこともあった。

当時はコンビニがまだなかったので、スーパーのような店だったと思う。

 レジで弁当の代金を払う時に言った。

「箸(はし)もお願いします。」

「えっ?」

「箸です。」

「??…」

 レジのおねえさんとの会話が噛(か)み合っていないのを肌で感じながら、身振り手振りで説明すると、

「ああ、お箸のことね。」

と解ってくれた。

 その時、気がついた。

 関西系と関東系つまり標準語は同じ言葉でもアクセントの位置が違うのだ。

 例えば、「雪」を関西系では「ゆ↘き」と「ゆ」にアクセントを置く。つまり「ゆ」を強く高く発音する。ところが標準語では「ゆ↗き」と「き」にアクセントがくる。

 箸の場合は、関西に近い富山弁では「は→し」とフラットに発音するか、やや「し」が強くなる。それに対して標準語では「は↘し」と「は」にアクセントがきて、富山弁とはむしろ逆になる。

 ちなみに富山弁の「は→し」は標準語では「橋」の意味になる。

 ただ、たかが「は→し」と言っていたのを「は↘し」に変えるだけなのだが、自分の信念を曲げるようで受け入れられなかった。

 今でも、首都圏のコンビニなどで箸が要るときは、レジの店員に両手で箸の形を作ってみせながら、

「は→しもお願いします。」

と言うことにしている。これは百発百中だ。

 もっとも、向こうから、

「箸いりますか?」

と言われることの方が多くなったが。

 

 うんちを拝(おが)む念仏者(その二)

 そのとし子さんの義母である河村ふでさんは、毎朝目覚(めざ)めると、

「ああ、今日も手が上がってくださる。

目が見えてくださる。

足が動いてくださる。

有難いことじゃのー、お蔭様じゃのー。」

と、毎日感慨(かんがい)深くおっしゃっていたそうです。

 また、大便小便を済(す)ますと、よく合掌してその大小便に対して拝まれていました。

ある人が、何でそんなことをするのか尋ねたところ、

「いただきますと、口からお迎えしたお命が、血となり肉となって大きなお仕事をしてお帰りになるときは、手を合わせて拝むのは当たり前じゃのー。」

と、答えられたそうです。

 なんと豊かなお心でしょうか。すべてにご恩を深く感じておられたのですね。

 また、農家でしたので、田畑で作物の生育のために雑草を引き抜かなければなりませんが、ふでさんは、

「すまんことよのー、人間の浅ましさやのー。」                          

と独(ひと)り言(ごと)を言いながら、一本一本押し頂き拝むようにして抜いていたそうです。

 

 このご両親は、実はすでに四人の子供に先立たれており、さぞかし暗い顔をして暮ら

しておられるのではないかと、当初(とうしょ)、とし子さんは思っていました。が、実際はそんな暗さ

は微塵(みじん)もなく、むしろ安らかで朗(ほが)らかであり、そして静かにお念仏されていたそうです。

 それは、先立たれて仏様となられた子供たちと、一如(いちにょ)の仏様の世界の中、つまりお念

仏の中でいつも出遇われていたからなんですね。                                                                                           

 ふでさんは、よく独り言を言っていたそうです。

「人間ちゅうもんは、自分しか可愛(かわい)くないもんじゃけのー。そういうもんが一緒に暮らすというのは有難いことよのー。」

 また、

「ないもんを欲しがらんで、あるもんを喜ばしてもらおうよのー。」

 つまり、物事や他人が自分の思い通りにならずに苦しむ我が身に対して、すでに頂いているものの有難さに目覚めて、

「自分が今こうしてある御恩、お蔭を喜んでくれよー。」

と仏様の智慧と慈悲を味わいながら暮らしていかれたのでしょう。

 ちなみに、ふでさんは小学校も出ておらず、読み書きができなかったそうですが、お寺で聞いたお話は深く身に沁(し)み込(こ)んでおられたのですね。

 

 河村とし子さんは、義母ふでさんと暮らしている間に思わず知らず念仏者となられ、今年の一月に亡くなられました。

                          (2013年発行『親蓮坊通信』より)

太極の世界に足を踏み入れて<青春編>

 それから三年ほどした夏、秩父山中で津村(つむら)喬(たかし)(※)さん主催の太極拳合宿が行われた。

 協会系からは僕一人だけこっそりと参加した。四十人くらいの若者が集まり、みんな楊名時さんの系統の太極拳をやっていた。

 遅れていった自分が一人で二十四式をやっていると、いつの間にか大勢集まって来てキョトンとした顔で見ている。ちょうど僕が武道館での初日に経験したのと同じカルチャーショックを受けたようだ。

 気功法の星野(ほしの)稔(みのる)さんもまだ無名の頃で、この合宿に参加していた。が、それはまだ先のことになる。

      ※津村喬…評論家。NPO法人気功文化研究所代表。日本における気功法の草分け的存在。

 

 帰郷

 結局、武道館での稽古は、大学卒業後就職で田舎へUターンしたため、四カ月通っただけで終わった。

 田舎で太極拳の教室を探してみたが、どこにも見当たらず、しかたがないので一人で続けることにした。東京でさえ会場が数えるくらいの時代だったので、富山の散村(さんそん)地帯では太極拳といっても誰も知らなかった。

 おまけに、僕の夢遊病者(むゆうびょうしゃ)のような動きを見た両親は不審に思ったようだ。

 ある日、

「ちょっと福光(ふくみつ)(となり町)の体育館まで、太極拳しに行ってくるワ。」

と言うと、母が、

「親の顔に泥(どろ)ぬるようなことはするな!」

と、引き止めたくらいだ。

「ごぼ(お寺)の若(わか)はんが、幽霊(ゆうれい)みたいなことをしていた。」

といったような噂(うわさ)はあっという間にこの地域一帯に広まってしまうため、世間体(せけんてい)を気にした親が止めたのも無理はなかった。

「そんなもんばっかやっとらんと(そんなことばかりやっていないで)もっと会社の仕事まじめにやろ!」

というのが母の口ぐせとなった。

 その頃は戸外で練習していると、立ち止まってじっと見ていてこちらが一息ついた時、

「それ何ですか?」

と質問する人が一人はいた。

 ある日のこと、時々通っていたスポーツセンターが中学校の卓球大会のため使用出来ず、仕方がないので前の公園でやっていた。するといつの間に来たのか二、三人の女子中学生が立っていて、声をかけてきた。                          (つづく)               

                               [次号 5月13日

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