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                          浄円寺コラム<79>      2023,4,15重共聡

 航空外科?

 高校時代、地元の城端町には二軒の歯医者さんがあった。

 一軒は、優しく腕がいい及川歯科医院。もう一軒は寡黙(かもく)だが腕のいい川口歯科医院。

 当時の僕は金歯に憧(あこが)れていた。大人の口からキラリと金歯が光るのを見ると、かっこいいなと思った。自分も金歯にしたいという願望が強かった。

そして、高校時代に虫歯になったのを幸い、及川歯科で前歯二本を金歯にしてもらった。ただ、金の露出部分が他の大人の人に比べて少ないのが不満だった。

 この金歯は五十年間持ちこたえた。さすが及川さんだなと思った。

 

そして高校卒業の春、金歯の隣りの虫歯も治療することにした。そのときは、開業したばかりのバリバリの若手の川口歯科に通った。

 一部麻酔なしの治療はかなりこたえたが、虫歯がかなり進行していたので差し歯にしてもらった。

 その後差し歯は特に問題なく、二十五年が経過した。

 

千葉県流山市の整形に勤めている四十代の頃だった。

 何かの拍子(ひょうし)にポロッとその差し歯のかぶせてあった歯の部分が取れて、内側の金属の芯(しん)がむき出しになってしまった。食生活には特に問題なかったので、そのまま仕事を続けていた。

 でも、たかが一本白色から金属色に変わっただけなのだが、見た印象がガラリと変わったのでやっぱり治そうと思い、川口市で不動産をやっている学生時代の友人に評判のいい歯医者を紹介してもらうことにした。

 教えられた歯科医院を訪ねると、開口一番言われた。

「この差し歯はうちでは治せません。航空外科へ行ってください。」

 

その瞬間、素朴な疑問が湧いてきた。

「この差し歯は、飛行機とどんな関係があるんだろう…。」

 ともかく、頼りにして行った歯医者に匙(さじ)を投げられたので家に戻って今後の対策を練ることにした。

 

航空機と差し歯とは関係ないと解るまで、そんなにかからなかったと思う。

「航空」ではなく「口腔」だったのだ。

 川口市で評判のいい歯医者さんでさえ断られた治療をどこへ行けばいいんだろうと、考え込んでしまった。

 そして思いついたのが、歯科では最高峰の東京医科歯科大学附属病院だ。ここなら、いくらなんでも出来ないとは言われないだろう。

 早速、病院のある御茶ノ水へ足を運んだ。

 さすが天下の医科歯科大附属病院、出来ないとは言われなかった。ただ、担当の若い先生がさらりと言った。

「次回から治療に入りますが、予約は半年後になります。」

「……」

途方に暮れていると、その若手勤務歯科医は準備していたのか、助け舟を出してくれた。

「ここで修業して開業している先生を紹介しましょうか?」

「お願いします!」

 

 その歯科医院は京浜東北線の川口駅から三十分。田町駅(たまちえき)を下車して徒歩十分のビルの三階にあった。

 三十代の女医さんと歯科助手の二人でやっていた。

 補綴科(ほてつか)(※)が専門だけあって、差し歯の芯から付け替えてきれいに治してくれた。

 及川さんの金歯も一部修復してもらった。細かい作業は女性の方が向くのかなと思った。

 また、横向きに埋もれた親知らずが痛んだときは、補綴科専門の彼女では難しいというので、彼女の師匠の歯科医院がある大森駅で待ち合わせて同行してくれ、そこで抜いてもらった。

 そこまでやってくれる歯科医は、まずいないと思った。まさに才色兼備(さいしょくけんび)、心のこもった丁寧な治療と落ち着いた人柄に、すっかり彼女のファンになってしまった。

 富山へ戻る前に歯のクリーニングに行った際、お寺を継ぐことを話すと彼女が言った。

「私の新潟の実家に、親鸞さんが立ち寄ったとき置いていったといわれる、身に着けていた織物がありますよ。」

 意外な言葉に驚いたが、親鸞聖人が越後へ流された歴史的事実を思うとあり得るなと思った。

 

 話は横道にそれてしまったが、埼玉県川口市で評判の歯科医もお手上げの治療をその四半(しはん)世紀(せいき)前にやっていた川口歯科医の技術の高さを知らされる出来事だった。

※補綴科…歯の欠損を義歯、ブリッジなどの人工物を用いて修復する診療科。

 

 

 うんちを拝む念仏者

 今年、四月五日に長野市善光寺のびんずる尊者像が一時盗難に遭(あ)いました。

 そのニュースを見た時、おもしろい名前のお坊さんがいたもんだなと思いました。

 初めて耳にする名前だと思いましたが、そうではないことに翌日気がつきました。

 月忌参りのときにいつも読んでいる阿弥陀経に出ていたのです。毎回、

「…びんずーるーはーらーだー……」

と声を上げて読んでいたのをうっかり忘れていました。

 お経の最初にお釈迦様の弟子の名前が順番に出てきて、十二番目に賓頭盧(びんずる)頗羅墮(はらだ)として登場しています。釈尊の弟子の一人で、病気を治す能力に長(た)けていたということです。

 今回の事件がなかったら注目しなかったと思うので、びんずるさんの木像を運び出した森本容疑者はさしずめ森本尊者ということになるのでしょうか。

 

 今回は、キリスト教から浄土真宗に改宗(かいしゅう)した河村(かわむら)とし子さんと義理の両親の興味深い逸話(いつわ)を、友人で北米開教使の名倉幹さんに語ってもらおうと思います。

 

 最近、ずいぶん前から大事にしています「NHKラジオ深夜便こころの時代 如来と共に生きた人」というテープに収められている河村とし子さんのお話を久しぶりに聞きまして、改めて感銘を深くし思わず涙があふれた次第であります。

 そのお話を紹介したいと思います。

 河村とし子さんは、もともとキリスト教の信仰の非常に篤(あつ)い家庭で育てられたのですが、戦前、恋愛結婚したご主人の実家のある山口県の随分辺鄙(へんぴ)な田舎に疎開して住むことになり、義理の両親と一緒に暮らすことになりました。

 はじめ、このような田舎の大きな仏壇のある家に住むようになって、さぞかしここの人は皆、迷信深い、程度の低い宗教に親しんでいるのだろうと思い、彼女は義理の両親に毎日キリスト教を熱心に説いて聞かせていたそうです。

 そうしたところ、ご両親は厭(いや)な顔ひとつ見せず、

「そうか、そうか。」

と、毎日聞いてくれたそうです。

 

 そのうち、村の浄土真宗のお寺で法話会が開かれる日になると、ご両親は毎回それをとても楽しみにして、いそいそと嬉しそうにお寺へ参られたそうです。

 それも、法話の間にうとうとと眠くなってしまったら大事なお話がもったいないので、ちゃんと昼寝をして眠気を取ってから聴聞に出かけたということです。

 

 そのご両親は、

「人間として一番大事なことは仏法聴聞することで、仕事というものはお聴聞の余りがけ、つまりその仏法聴聞の余りの時間で仕事をしたらよい。」

ということを、よくおっしゃっていたそうです。

 つまり、日常生活の柱は仏様の御教(みおし)えを聞くことでありまして、これは現代に生きる私ども日本人の大多数の考えとはずいぶん異なりますね。

 私どもは通常、毎日食うために仕事をして、つまり生活問題に汲々(きゅうきゅう)としているのでありまして、仏教なんて聞こうが聞くまいが、そんなことどうでもいいと思っている方(かた)のほうがおそらく多いでしょう。

 しかし、そのご両親の日暮らしを見ていると、

「日の良し悪しだとか、方角だとか、まじないだとか占いとかは、我が家の御開山さま(親鸞聖人)は一切迷信だと断ち切っておられる。」

と、たくさんの現代人が迷っている事柄(ことがら)に対して、すべての現象は、無量無数の因と縁のお蔭様で生じていると、仏の教えに立って一切を如来、つまり仏にお任せして安心して暮らしておられたのであります。              『親蓮坊通信』より

                                   (つづく)

 

 太極の世界に足を踏み入れて<青春編>

 YMCAに通い始めて一年位たった頃、楊名時先生に、

「くわしくやりたいんだったら、日本武道館でやっているから行ってみなさい。」

と言われ、のぞいてみることにした。

 当時、古井(ふるい)喜(よし)実(み)氏を会長にした日本太極拳協会の会場は、日本武道館と神田にある千代田区立体育館の二カ所だけだったと思う。

 神田の方は水曜の午後、潮田(うしおだ)氏が中心となって少林拳の基本功をやっていた。

 武道館の地下柔道場では、木・金曜の夜二十四式簡化太極拳の初・中級と八十八式に分かれ、五、六十人くらいで練拳に励んでいた。

 僕が行ったのは武道館の方で、三浦英夫先生、中野春美さん、長谷川園子さんが中心になって活動していた。二十代が殆んどで活気に溢(あふ)れていた。

 田中角栄首相により日中国交が正常化され、中国との交流が始まったばかりで、現在と較べるとレベルは低いが、指導陣は太極拳運動を日本に普及させるんだという情熱に燃えていた。

 後でわかったことだが、まだ無名だったミュージシャン、もんたよしのり氏もこの頃通っていたようだ。

 

 ただ、一日目の印象は惨憺(さんたん)たるものだった。

 それまでやってきたのと違いカッコ悪いのだ。頭の中で新しい形(かた)に対する拒否反応が起ってしまい、本場直輸入の太極拳に慣れるまでしばらく時間がかかった。

                                  (つづく)

                              [次号 4月29日]

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