真宗大谷派 浄円寺
78
浄円寺コラム<78> 2023,4,1重共聡
<三周年企画>
時代を超えた出遇い 2017冬
高畠(たかばたけ)公民館
初めまして、南砺市西明から来ました浄円寺住職をしている重共といいます。
よろしくお願いします。
本来ならば、今回の法事(高畠地区物故者追悼法要)に僕は呼ばれていませんし、出る資格はないのですが、今月の初めに、たまたま井口光徳寺の住職から、高畠で法話をするという情報を耳にしまして、
「僕も行きたいなあ。」
と、つい口から漏(も)らしてしました。
そしたら、光徳寺の住職に、
「午後からお話してもいいよ。」
と言われまして、今日こうして顔を出させてもらった次第です。
ただ、僕は今まで十分以上の法話をしたことがないので、引き受けてしまったことを後になって後悔しましたが、それ以上に、高畠の皆様にお目にかかれるのが、最初で最後のチャンスだと思ったので、恥をかくのを覚悟で来ました。
実は僕と高畠とは深い縁がありまして、僕の祖父の祖父、つまり、4代前の先祖が高畠に生まれ育っています。
重共与三(よさ)左(ざ)衛門(えもん)といいまして、小作農だった与三左衛門さん(五十三歳)が明治政府が発令した小作に不利となる地租改正に反発して、明治十年に百姓一揆を起こしています。
ここからは、うちの母から聞いた話ですが、
それを鎮圧するために、金沢から軍隊が出動してきて、高畠にあった与三左衛門の家を取り囲みました。
ところが、あまりに静かなので、おそるおそる中へ入ってみると、与三左衛門が一人囲炉裏端(いろりばた)でキセルをふかしていました。
そう聞いています。
その後、与三左衛門は懲役七年の刑を受けて石川県の小松刑務所で服役していましたが、収監中の成績がよかったため、五年で釈放されたということです。
百姓一揆の話は、僕が二十代の頃から知っていて、福光図書館へいって福光町史で確認したこともありました。
高畠重共家は、重共与三左衛門の息子の代に没落(ぼつらく)して、与三左衛門の孫、つまり僕の祖父は、大窪にある母親の里に引き取られて子供時代を過ごしました。
そして僧侶を志(こころざ)し、当時空き寺になっていた城端町西明の浄円寺に呼ばれて、そこで住職となり、特に城端別院の声明(しょうみょう)と、青少年の教育に力を尽くして七十二年の生涯を終えています。
僕はその孫にあたりますが、十年前に埼玉県から西明に戻ってきて、お寺を継ぎました。
そして、お寺の仕事に慣れてきた三年前あたりから、まだ行ったことのない僕のルーツである、高畠の重共家跡を訪れてみたいという思いが強くなってきました。
でも、正確な場所を知っている人が現存しているのかどうかも解らず、そのままになっていました。
ところが、それが意外な形で実現しました。
昨年の八月十三日に、母校である福野高校の同級生の追悼法要をやってくれないかと、井波の山本武夫歯科の院長から頼まれました。
彼は高校の同級生なのですが、お盆に合わせて同級会をやる前に、うちのお寺で今までに亡くなった同級生達の追悼法要をやりたいとのことでした。
僕は同級会には一度も顔を出したことがなかったのですが、これはお寺の仕事なのですぐに引受(ひきう)けました。
そして当日、二十八人の同級生が本堂に集まりました。
法要が終わって、皆を見送っていると、一人の女性が歩み寄ってきて言いました。
「私、この間、高畠にある重共さんの祖先の家の跡地に行ってきました。」
その思いがけない言葉にビックリしました。
こういうことでした。
その同級生の加藤享子さんとは、高校卒業以来四十五年ぶりに再会しましたが、彼女は民俗学の研究家になっていて、一か月前に北山田(きたやまだ)の公民館に講演に行った際、民俗学的な興味から高畠のお墓を案内してもらいました。
すると、案内してくれた高畠の中島(昌治)さんが、お墓の向かいにあった畑地を指して、
「ここが重共家の跡です。」
と言って、歴史的な経緯を説明してくれました。
そういうことでした。
追悼法要の二週間後、同級生の加藤さんに中島さんを引合(ひきあわ)せてもらい、念願だった高畠の重共家の跡地に案内してもらいました。
その場所に立った時、僕がいつも見慣れている山々が目に入ってきて、
「祖先も同じ景色を眺めて暮らしていたんだな。」
と、しみじみと思いました。
その際に、中島さんから重共家に関する貴重な写真や資料をいただいて、いくつか新たな発見もありました。
ところが、この話には、もう一つ別の事実が重なっていました。
民俗研究家の加藤享子さんと同級生の追悼法要で再会した数日後、電話で高畠へ行く打合せをしている時に重共家のルーツの話になり、何十年ぶりかである記憶がよみがえってきました。
それは僕が二十代だった頃のことです。福光図書館で調べ物をしていた時、何かの資料に『西国(さいごく)から来た重共と渡辺の二名が、俱利伽羅峠の戦いに参戦した。』という記述があるのを見つけました。
そのことを電話口(ぐち)で話しながら、
「そういえば、加藤さんは高校の時は、旧姓の渡辺さんだったな。」
ということに気がつきました。
すると、即座に彼女の口から、
「私の実家は渡辺の本家で、祖先が俱利伽羅峠の戦いに参戦したという古文書(こもんじょ)が残っています。」
という言葉が返ってきました。
その言葉に鳥肌が立つほど驚きました。
平安時代末期にあった、源氏と平家の俱(く)利(り)伽羅(から)峠(とうげ)の戦い(※)に、はるばる西国から参戦した重共と渡辺の末裔(まつえい)が、八百年の時を経て再会したことになるのかなと、不思議な縁を感じました。
そういうことがあって半年も経たないうちに、光徳寺の住職から高畠で法話をやるという話を聞いたので、あまりのタイミングのよさに思わず、
「僕も行ってみたいなあ。」
と口走(くちばし)った訳(わけ)です。
光徳寺の住職とは十年来(らい)の付き合いがありますが、その間彼の口から「高畠」という言葉は一度も聞いたことがありません。
そして、奇(く)しくも五十三年前の今日、高畠に生まれた僕の祖父が亡くなっています。余計に思いを超えた縁を感じます。
※俱利伽羅峠の戦い…平安時代末期の1183年に平維(これ)盛(もり)率いる平氏軍と木曾(きそ)義(よし)仲(なか)率いる源氏軍が、北陸の越中と加賀の国境(くにざかい)にある俱利伽羅峠で激突した戦(いくさ)のこと。源氏軍が数的不利を覆(くつがえ)して夜襲に成功し圧勝した。
<連載企画>
太極の世界に足を踏み入れて
青春編
YMCAでのレッスンが終わった後、飯田橋にある大学へ駆けつけて午後の講義を受けるのだが、階段教室の後方に座って聞いていると瞼(まぶた)がだんだん重くなってきて、気がついたら机にうつぶしていることがしょっちゅうだった。
最初は講義がつまらないせいかなと思っていたが、そうではなかった。太極拳で体全体の筋肉が緩(ゆる)んだためだったのだ。
とにかく腰を治したい一心で朝晩毎日形(かた)をやった。インドへ旅行した時も、ホテルの一室で練習した。
そうこうするうちに一年がたち、気がつくと腰痛で悩んでいたことを殆んど忘れかけていた。
その後、腰痛で太極拳を始めた仲間を二人知っているが、どちらもほぼ一年でよくなっている。だから、太極拳は腰痛に効果があると自信を持って言うことにしている。
ただ、瘦(や)せたくて太極拳に来る女性に対しては、効果のほどは首をかしげざるを得ない。なぜなら、楊式太極拳を完成した楊(よう)澄(ちょう)甫(ほ)とその高弟で僕が習った傅(ふ)鐘(しょう)文(ぶん)は、そろって太めなのだ。
でも、この事実を明(あ)かしてしまうと女の子は入って来なくなるだろうし…。
「やせますか?」
という質問には本当に苦労する。
(つづく)
[次号 4月15日]