真宗大谷派 浄円寺
76
浄円寺コラム<76> 2023,3,4重共聡
伝説の秘技 大和魂(その二)
テツオ君は、鉄棒の上に腰掛け、前を向いたまま両手を離して、上体を後ろに倒していった。もちろん背中を支えるものは何もない。
「アッ!」
真っ逆さまに地上に転落したと思った刹那(せつな)、彼はクルッと回転して足から着地していた。
そして何事もなかったかのように戻って来て、学ランに袖(そで)を通した。
「うーん…大和魂というだけのことはあるな。」
動作がシンプルな分、命の危険と隣り合わせの大技だ。
ただ、そのことは自分を諦(あきら)めさせる理由にはならなかった。
かえって、チャレンジしたいという意欲が湧(わ)いてきた。中一当時、帰宅部でなんの取得(とりえ)もない自分だったが、これが出来ると自分に自信が持てるようになるかもしれないと思った。
その後、鉄棒の前でテツオ君に会うことはなかった。
翌日から放課後になるとグラウンドの鉄棒にぶら下がっている自分の姿があった。
目に焼き付いているテツオ君の「大和魂」がどうすれば出来るようになるのか試行錯誤していた。
ただ、危険が大きすぎるため、冬になって雪が積もるのを待つことにした。頭から落下しても雪がクッションになってくれるからだ。
そして、待ちに待った雪のシーズンが到来した。
当時の冬は、現在と違ってチャレンジするには十分な積雪量があった。
まず低い方の鉄棒に腰かけ、両手でしっかり握ったまま徐々に上体を後ろへ倒すことから始めた。
鉄棒を握った手が命綱なので、おのずと力がこもった。
手で持って出来るようになるまで、そんなに日数はかからなかったと思う。次に高い鉄棒に移り、手を少しずつ離していった。
そして、ついに成功する瞬間をむかえることになる。
その日もまず逆上がりを使って鉄棒に腰掛けた。そして両手を離し、そのまま上体を後ろへ傾けていった。次の瞬間、踏み固めた雪の上に着地していた。
「出来た!」
誰もいない冬のグラウンドで、一人うれしさをかみしめている自分がいた。
ただ、それはテツオ君のようなきれいな着地ではなかった。何とか足から大地に踏みとどまったという感じだ。
偶然うまくいった。それが本当のところだ。
たまたま出来たからといって、「大和魂」が出来たよと胸を張って言えないと思った。
「大和魂」がいつでも出来るようになるのが次の目標だ。
放課後になると鉄棒まで足を運び、うまくいった時の感覚を思い出しながら、失敗と成功を繰り返した。
そして、ついにコツを明らかにすることができた。
口伝(くでん)というと大袈裟(おおげさ)になるが、以下に公開したい。
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鉄棒に腰掛ける。
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両手を離す。
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前を向いたままの姿勢でゆっくり上体を後ろへ倒していく。
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ある角度まできた瞬間、思い切り背中を反らせる。
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着地する。
ある角度とは、自分なりにつかんだ感覚的なものだが、45度から60度の間の一点で、それより早くても遅くても失敗してしまう。
ちょうどスキージャンプで上から滑り降りて台を踏み切る瞬間に似ているだろうか。
春になり、雪が融(と)けてからもうまくいった。
ただ、あれだけ熱中していたのが、出来てしまうと徐々に関心が薄れていった。
最後にやったのは高一の時だった。
高校でも帰宅部だった僕は、その日たまたま福野高校グラウンド端にある鉄棒の近く
にいた。ふと、やってみようと思い、逆上がりを使って鉄棒に腰掛けた。
そして両手を離し、体を徐々に後ろへ倒していった。
次に上体を反らそうとした瞬間、予想外のことが起った。
お尻が滑って鉄棒から外れ、真っ逆さまに落下してしまったのだ。かろうじて足から着地できたが、ヒヤリとした。そして思った。
「もう止めた方がいいな。」
その日以来、伝説の大技「大和魂」をやることはなかった。
テツオ君はというと、T工業高校に進学し、体操部へ入ったという噂(うわさ)を耳にした。
彼にピッタリの部活動だなと思った。
真宗門徒の新聞の読み方
ワシは一日一時間、新聞を読みます。
読んでどういうことを思うかと言うたら、まこと大臣も、知事も、市長も、県会議員も、村会議員も、医者も、教員も、あらゆる世界によいことは一つもないということ。
「情けないのう。」と感ずることしか出とらん。
そういう点からみて、毎日、新聞に出ていることを見て、まこと罪悪(ざいあく)深重(じんじゅう)、煩悩(ぼんのう)熾(し)盛(じょう)の衆生とはウソじゃない。学問もあり、優れた技術のある人でも腹の中に何を持っとるか解らんということですよ。
信心に生きるか、我執(がしゅう)に生きるか、ここのけじめですよ。
まことの道を歩むか、よこさまな道を行くか、分かれ道はここにあると知らしてもろうとる。
だから、新聞読んで御仏(みほとけ)さまの言われることに寸分の違いのないことを確かめるのや。
毎日読んでおります。
ワシが見て喜ぶような記事は滅多(めった)に見つからんです。
まことよくもよくも、悪性さらに止め難し(※)。凡夫の姿だけが新聞に出ておるじゃないですか。 (藤解照海師 1987夏 広島法林寺にて)
※悪性さらにやめがたし、心は蛇蝎のごとくなり…私の悪い本性はなかなか変えることはできないし、
心は蛇やサソリの毒のようなものである。(親鸞聖人)
<新連載>
太極の世界に足を踏み入れて
第一部 青春編
「熱しやすく冷めやすい。」言い方を変えると、「飽きっぽい。」これが小さい頃からの僕の性格だった。
何をやっても長続きしなかった。
日記もなかなか続かなかった。
「今度は続けるぞ!」
と意を決して大学ノートを買ってきてつけ始めるのだが、三日坊主とはよく言ったもので、三日ほどで忍耐が尽きてしまう。
二、三ページあるいは三、四ページ書いただけで、あとはきれいな白紙のままになっているノートは四、五冊は下(くだ)らない。
趣味に関しても同様だった。
大学へ入学して一年か二年目の夏休みのこと。それまで将棋をやっていた自分だが、囲碁を始めたいと思い立ち、父に手ほどきしてもらった。
碁石の置き方を教わり対局を始めたばかりの頃、幼馴染(おさななじ)みで金沢大生のイサオが遊びに来た。
碁を教えてほしいというので、父に教わったばかりの基本的な打ち方をまず覚えてもらい、早速対局した。そして僕があっさり勝った。
翌日、再びイサオがうちへきた。
今日ももちろん僕が勝ちを収める…と余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)で碁盤に向かったのだが、信じられないことに負けてしまった。
そのショックが大きかったのか、みるみる囲碁への興味が醒(さ)めていった。その日以来現在まで碁石を握ったことはない。
この話には後日談がある。
四十代に入った頃だったろうか、休みを利用して埼玉から帰省した時、父が言った。
「イサオ君の子供が囲碁が強くて、北陸でも有名になっとるよ。」
「えっ?!」
研究熱心だったイサオのことだから、その後腕を上げ、息子にも囲碁を仕込んだのだろうことは容易に想像できた。
大学では自分を変えようと、体育会剣道部に入部した。
これは年を取っても出来る武道だと、下宿の近くの公園でも竹刀の素振りを繰り返していた。
ところが、一年余(あま)りして映画「燃えよドラゴン」が公開され、ブルース・リーのブームが訪れると事態は一変(いっぺん)した。
半年後には、二年近く続いた剣道部を退部して原宿にある拳法の道場に通っている自分の姿があった。
結局、拳法は七年間続いた…七年で止(や)めた。
拳法以外にも、フォークギター、尺八、仏像彫刻、早稲田速記、中国語などに首を突っ込んでみたが、拳法ほどには続かなかった。
拳法を始めて一年ほどして出遇ったのが太極拳だった。
(つづく)
[次号 3月18日]