真宗大谷派 浄円寺
74
浄円寺コラム<74> 2023,2,4重共聡
未知との遭遇 1964夏
西明神社の境内。
公民館側の松の木陰(こかげ)に三人の少年が無言でたたずんでいた。
小学六年生の三人、つまり僕と城端町の同級生二人は、ある一点を神妙(しんみょう)な面持(おもも)ちで見つめていた。
視線の先には群(ぐん)青色(じょういろ)の小さなボトルがあった。正確にいうとボトルの中の黒い液体を穴のあくほど見つめていた。
誰かが言った。
「どうみても醤油(しょうゆ)やな。」
それを受けて、もう一人が言った。
「そうやな。」
少しの沈黙ののち、誰が最初に口にするかに話題が移った。
順番は思い出せないが、恐る恐る三人で回し飲みした。
そして、異口同音(いくどうおん)につぶやいた。
「やっぱ、醤油みたいな味やな…」
コカ・コーラが町の田代(たしろ)商店に並んだのは、日本で販売されるようになって三年後だった。
それは田舎に住む自分たち子供にとっては小さな事件だった。
四本の大木
ワシの屋敷にな、こういうような大木(たいぼく)が四本あった。
うちの隣に茂(も)平(へい)さんという船乗りがおった。
うちが南側で茂平さん方が北側にあるけん、(大木の陰(かげ)になって)どうしても茂平さんの家にお日様がよう当たらんのじゃ。
そうすると、茂平さんが敷居へ腰を掛けて、煙管(きせる)に煙草を詰めて飲みよる。そいで煙をフーっと吹きよるのを、うちの屋敷の四本の木が見下ろしているように、ワシには見えたんじゃ。
あれ(大木)があがいに伸びて、うちの庭まで陰(かげ)るんで、(茂平さんが)はよ切ってつかさい思とるんじゃろうかのう。
こう思いましてな。
「よしきた。お父さんは切りゃせんぞ。お父さんが学校へ行っとる間に俺が切っちゃろ。隣の庭の方まで影が行くような迷惑至極(しごく)なことしといて、のほほんとおれるもんかい。」
親にゃ言わんのや。はよ日が暮れてはよ夜が明けて、お父さんがまた学校へ行きゃあいいがやと、学校へ行くの待っちょるの。ワシが学校へ行くの忘れて。
そいで、お父さんが行ったけん。でもちょっとものを忘れたゆうて帰るかも解らんけん。まだかかっちゃいけんぞ思うてね。
一時間経ったが帰らんけん。切っちゃれ思うてそれからアンタ、切ったよー。
皆よう切らんよ。まだそれほど力がないけん。
じゃが、上の方を切りゃ、よその庭まで影がかからんゆうぐらいなことは知っとるけんのう。
まあ、それぐらいの智慧や。
それで、上の方のまだ、これぐらいから上をのう、切っちゃった!
毎日毎日、茂平さんが隣のあの木がなけりゃ庭へものを干してもよう乾くのに思うて、うらんだろうが。
そうして三本目を切ったら、
「ドサーッ!」
いうて落ちたよ。
そしたらゴソゴソいうて母がやってきて、
「学校へ行ったんや思や、何をしよるんぞ。そこで!」
「切っちゃったー!切っちゃったー。やっちゃったー、やっちゃったー。」
「何をね。」
「このワシが切ったんが、これ(木)をね。」
「アンタが切ったんかい、それを。あの音かい。」
「へぇ。(はい)」
「うーん。そりゃまあ、切ったら継(つ)ぐわけにもいくまいけん、はよ束(たば)にして山のへりの方に持ってってこう。お父さんが戻った時にゃ、見えんようにしとけ。ワシも手伝うちゃる。」
「へい。」
そうやっといて、ワシャ学校へ行ったんじゃ。
お父さん、家に戻ってから何も言わん。
父は、家に帰ったら必ず庭を掃(は)く人でした。よその庭まで掃くんで、嫌われきらわれ、
「先生があがいにキレイに庭や道を掃きんさると、おちおち歩かれせんが。」
と、おタネさんが言うたの覚えとる。
ところが、やっぱり解りますえのう。
箒(ほうき)持って庭を掃くんじゃけん、こんところから上を三本切っとるけん、明るいのう。
それを父が黙って見よる。そしたら母が、
「ありゃアキラがの、茂平さんがあんまりグチをこぼした顔をしてアレを見よったけん、あれがノー天気に切ってあげたんです。」
言うたら、
「切るなあ構わんが、切るなら一応切る言うことを言わんにゃ、黙って切るちゅうことがあるかい!」
と、父が言うた。あとは言わない。
そしたら母が、
「ま、済んだことじゃけん、こらえておやんなさい。また、ワシがよう言ってもおきますけん。」
言うたら、その父が、
「あれも業(ごう)じゃ!」
これですよ。
「あれの業は、人に言われたぐらいなことで治(おさ)まるようなもんじゃないぞ!」
こうお母さんに言いよるんね。
過ちのあった時に怒らずに、
「あれも業じゃけん、あれが通らにゃなられんところは、どうしても通るんじゃ。」
これが今日まで、ワシの脊髄(せきずい)の真ん中を突き抜けとる。
「自分の宿業は逃れられやせんもんじゃ。この世の中で、必ずそれを受けて通らんにゃならんのじゃから。どーんなつらいことがあってものう、受けて通れ!」
(藤解照海師 1985夏 広島法林寺にて)
(つづく)
広美 1975夏(その二)
それから数か月間文通が続いたが、僕の方から出さなくなっていた。
実は入試が終わった途端、僕の心はバランスを失い葛藤(かっとう)を繰り返す日々を送っていたのだ。これは味わったものにしか解らない、まさに地獄の苦しみだった。もう社会復帰できないと絶望のどん底にいた。
そんな状態で広美に手紙など書けるわけがない。そんな自分をさらしたくないという思いが、自分を彼女から遠ざけた。
そして、彼女からの年賀状が最後になった。
いつか回復する日が来たなら、その時は会いに行きたいというかすかな望みは持っていた。
それから二年の歳月が経過した。
カウンセリングを受けながら、少しずつ、ほんのすこしずつだが、心に変化が現れ始めた。
そして三年後、ようやく元の自分を取り戻していた。
すると、文通が途絶えていた彼女に会いたいという思いが、日毎(ひごと)につのり始めた。
そんな夏休み、赤穂への一人旅を計画した。内緒(ないしょ)で行ってふいに顔を見せると、どんなに驚くだろうと胸躍(むねおど)らせながら…。
一日目は、山陽本線姫路(ひめじ)駅で姫(き)新(しん)線に乗り換え、おむすびのような山あいを縫(ぬ)うようにして一時間ばかり走ったところで下車。
樹齢何百年だろうか、杉の大木が両側にそびえる薄暗くなった参道を一人歩いていくと、ユースホステルをやっている真言宗の名刹(めいさつ)瑠璃寺(るりでら)は、歴史の流れから取り残されたようにひっそりとたたずんでいた。その日のお客は僕一人で、お寺の人たちと閑談(かんだん)しながら夕食をとった。
宮本武蔵ゆかりの地が近いので、その話題に花が咲いた。
夜八時を回った頃、彼女の家に電話を入れてみることにした。
受話器の向こうに母親らしき女性が出た。そして、その口から信じられない言葉を聞いた。
「広美は亡くなりました。」
折れそうになる気持ちを何とか立て直し、明日訪(たず)ねることを告(つ)げて受話器を置いた。俄(にわ)かに受け入れ難い事実に何も考えられず、その場に茫然(ぼうぜん)と立ち尽くしていた。
二十歳の成人式を迎えた年に亡くなったのだという。原因は肝(かん)硬変(こうへん)、その時初めて耳にする病名だった。
翌朝、親切なお寺の人たちに別れをつげ、僕は赤穂へと向かった。
(つづく)
[次号 2月18日]