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             浄円寺コラム<71>     2022,12,24重共聡

行列のできるパン屋さんとの再会 2017春       

 四月四日夜七時半過ぎ、寿司店にて。

 第三組(城端、福光、五箇山地区の五十六ヶ寺)の会計を拝命(はいめい)して、前任者との事務引継ぎの後、近くの寿司屋へ新旧役員八名が繰り出し慰労会を行った。

 八畳の和室に長方形のテーブルと椅子が用意され、寺格(じかく)の低い僕はいつものように下座に着いた。

 卓上には、法事でよくみられる料理がすでに用意されていた。

 僕は最初車で帰るつもりでいたのだが、周りの雰囲気に流された形でコップにビールを注(そそ)いでもらった。

 そして、それぞれ近い席の連中同志で話が盛り上がった。

 

真向かいに座った、新庶務(しんしょむ)で別院三ヶ寺の一つ伝栄寺住職の大村さん(四十代男性)が言った。

「稲塚権次郎さんが作った農林十号を使ったパンで日本一になったパン屋さんが富山市岩瀬にあって、いつも行列になっていますよ。」

「東京から故郷の富山へ帰ってやっているそうです。」

 それを聞いた瞬間、

「ひょっとしたら…」

という思いが脳裏(のうり)をよぎった。

 あるパン屋のご主人の顔が頭に浮かんでいた。

 

帰宅して、早速パソコンを開け「富山市、パン屋、日本一」で検索してみた。

 調べているうちに、「宮腰(みやこし)」という名前を見つけた。それは見覚えのある名字(みょうじ)だった。あれから、すでに十年も経っているので自信が持てなかったが、さらに見ていくと、

「高田馬場で仕事をしていた。」

という記事が目に入った。

 これで、ほぼ間違いないと確信した。

 

 さかのぼること十年前、僕は新宿区高田馬場の団地にあるオレンジコート・ショッピングセンターの一角(いっかく)の接骨院で仕事をしていた。

 同じショッピング・センター内に「パンピーノ」というパン屋さんがあって、そこのご主人が時々患者さんで見え、僕がマッサージを担当していた。

自分自身も昼休みや帰宅時に、パンピーノへ寄っていた。

お互い富山県出身ということもあって、故郷の話で盛り上がった。売れ残ったパンをサービスしてもらうことも度々(たびたび)あった。

 

 早速、寿司店の四日後の土曜に訪ねてみることにした。

 家から車で一時間半かけて、パン屋の住所である富山市岩瀬まで行った。

 おしゃれな感じのお店が目に入った時は、すぐにそれだと解った。「ベーカリーみや」となっていた。店には駐車場がなかったため近くのコンビニに駐車し、パン屋まで七~八十メートルの道のりを歩いた。

 お店の前を走る小さな道路には、お客さんのものだと思われる車が三台停(と)まっていた。

 そっと中へ入ると右手にレジがあり、奥さんが忙しそうにお客さんを相手にしている。

 一目見た途端、あのオレンジコート・ショッピングセンターにあったパンピーノの奥さんだと解った。

 しばらく棚を眺(なが)めていて、お客さんが途切れたのを見計(みはか)らってレジへ歩み寄っていくと、

「予約された方ですか?」

と聞かれた。

「オレンジコートの接骨院にいました。」

と説明するとすぐに思い出してくれ、

「びっくりして冷汗が出た。」

と言われた。

 話の最中(さいちゅう)にもお客さんが二人三人と見えて応対に追われていたので、出来たばかりの自著と映画「NORINTEN稲塚権次郎物語」のDVDを渡した。すると奥の方からフランスパンを取り出してきて差し出されたので、有難く頂戴(ちょうだい)した。

 ご主人が不在だし長居(ながい)しても迷惑なので、

「よろしくお伝えください。」

と言って店を出た。

 帰り道、ハンドルを握りながら、やはりそうだったという嬉しさの半面、楽しみにしていたご主人との再会が実現しなかった消化不良感もあった。

 

 翌日曜の午後、一本の電話がかかってきた。

 受話器の向こうから聞こえてきたのは、十年ぶりに耳にする懐かしいパン屋パンピーノの宮腰さんの声だった。

「北陸新幹線の開通した年に、東京を引き払って故郷の富山に戻ってきました。

重共さんが砺波の辺のお寺に来ていることは知っていたのですが、どのお寺かわからないでいました。

西明はパンに使う小麦『農林十号』の関係で何回か来ているけれど、まさかここに、重共さんがいるとは思わなかったです。」

と、興奮気味に話された。

 そして、

「また西明へ行く用事があるので、その時に連絡します。」

と約束された。

 受話器を置いて、このピンポイントの出遇いの感動を分かち合えた充実感に浸っていた。

 

 四月二十六日(水曜)雨

 前夜七時過ぎ、固定電話が鳴った。

 母が、

「宮腰さんという人から。」

と言って受話器を渡してくれた。

「明日、そちらの方へ行こうと思っていますのが、その時に寄らせていただきたいと思います。」

「何時頃見えますか?」

「午後一時頃です。」

 

 翌日、電話の通り夫婦で西明まで訪ねてみえた。

 そして、農林十号を使ったパンを作るに至った経緯を聞かせてもらった。

「(東京から)富山へ帰るときに、同じパン業界の仲間から、『富山県には農林十号という国産の小麦があり、それを開発した稲塚権次郎という偉大な先人(せんじん)がいた。』という話を聞いていて、その小麦を使ってパンを作ってみたいと思っていました。

 それが、富山へ戻ってしばらくして、思いがけずお店に監督が訪ねて来て『農林十号を使ったパンを作ってくれませんか?』と頼まれました。」

 そう話された。

 

 お互い積もる話に花が咲き、アッという間に二時間近く経過した。話が一段落した頃、

「これから橋場(はしば)さんの家に寄っていきます。」

と言われたので、隣りの細野地区の橋場さん宅まで車で先導していった。

『農林十号を守る会』会長の橋場さんは、パン屋の宮腰さんと僕のつながりを知って、

「世の中、狭いねー。」

と、驚いていた。

 

 

 真宗の大学匠、曽我先生

 曽我量(りょう)深(じん)という先生がおられました。

 その曽我先生の本を読むと、ちょっと理解のできない難しいことを言っておられる。

私の母などは、

「曽我先生のお話は十八願、十九願、二十願といって難しい。しかし、その難しい話に、聴衆(ちょうしゅう)の田舎のおじいちゃん、おばあちゃんたちから一斉(いっせい)にどっと笑い声が上がる。

しかし、中には笑えない人もいる。笑えない人は学者さんやった。」

と言っていました。母は自分が子供だった頃の、曽我先生のお座があったときの様子を話してくれたのです。

 みんな一緒に、

「ワッハッハ」

と笑っているのに、インテリ然としている人は笑えないのです。

 それはおそらく、曽我先生のお話を必死で頭で整理して、教学の言葉に当てはめようとしているからで、頭で仏法をこね回すから、みんなが笑う場面から取り残されるのではないでしょうか?

                               (水島(みずしま)見一(けんいち)師 述)

                ※水島見一…富山県南砺市北野出身。大谷大学教授。

 

1995年に曽我先生が当時のロサンゼルス別院の伊東輪番の奥様から、真宗のかなめを自分にも解るような言葉にしてほしいと頼まれて、書かれたお言葉があります。

 そのお言葉と申しますのが、

[一]仏様とはどんなひとであるか。

   われは南無阿弥陀仏であると名のっておいでになります。

[二]仏様はどこにいなさるか。

   仏様を念ずる人の前においでになります。

 

 そして、その三番目のところが、

[三]仏様を念ずるにはどのような方法がありますか。

   南無阿弥陀仏と一念疑いなく、自力の計(はか)らいをすてて、静かな心をもって、仏

願わくばこの罪ふかき私を助けましませと念ずるのであります。

   これは誰でも、どこにいても、いつでも、悲しい場合でも、うれしい場合でも、

仏を念ずることができます。

   この念が現前するとき、いかなる煩悩(ぼんのう)妄念(もうねん)がおそい来たっても、内心の平和は絶

対に破れません。これを真の救済ともうします。

 

 こう書き与えられました。

                                 (櫟(いちい)暁(さとる)師 述)

                                [次号 1月7日]

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