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             浄円寺コラム<61>      2022,8,6重共聡

 僕の武道の師父(しふ)である早川宗(そう)甫(ほ)師は陸軍中野学校を出て、戦時下のマレー半島に軍事諜報員(ちょうほういん)として配属された。

 

終戦特集

リージェントホテル マレーシア・クアラルンプール 1985初夏

「あそこの刑務所にいたんだよ。」

 師父がマレーシアを訪れた時、ホテル15階から眼下に見える塀に囲まれた大きな建物を指して言った。

                                                                      

塀の中で 1945 

 終戦前、師父は密告者によるいわれのない罪で捉(とら)えられ、服役する身となっていた。

身に覚えのない理由に納得しないまま独房に入れられ、孤独の思いに沈み、食事が喉(のど)を通らない状態が続いていた。

朝になると、憲兵(けんぺい)の足音がする度(たび)に、

「自分のドアの前で止まるのではないか。」

とビクビクしていた。

足音がそのまま通過していった時は、

「今日も一日、命が伸びたな。」

と安堵(あんど)した。

 

そんな日々が続いたある日のこと。

独房のコンクリート床のひび割れから一本の野草が顔を出し、小さな花を咲かせているのが目に入った。

その時、子供の頃のある思い出が脳裏をよぎった。それは近所のお寺の和尚さんの言葉だった。

庭にひっそりと咲く一輪の野花を指して、

「この花は、誰に見てもらうためでもない。ただ、一生懸命に花を咲かせているのじゃよ。」

と言った。

ハッとして師父は、

「今の自分は、この花のように、与えられた命を懸命に生きているだろうか?」

と、自問自答した。

 そのうち、恥じ入る気持ちと、このままではダメだという思いが湧き起ってきた。

 その日を境に、寸暇を惜しんで稽古に没頭(ぼっとう)するようになった。平常心を保つため禅の修行もした。

 

 しかし、稽古に明け暮れる日々はいつまでも続かなかった。とうとう運命の日が来たのだ。

その日の朝。恐れていた憲兵の足音がついに自分の独房の前で止まった。

「いよいよこの世ともおさらばか…。」

師父は覚悟を決め、独房から連れ出された際に、刑務所で知り合った囚人仲間の面々と心置きなく別れの挨拶をすませた。

 そして、廊下を連行されていった。その先には処刑場が銃殺の時を待っていた。

 

足取りは重く、辿(たど)り着くまで千里(せんり)の道のりにも感じられたが、ついに刑場に到着した。

「??…」

ところが、そのまま通り過ぎていった。

 表へ出たと思ったらジープに乗せられ、刑務所を後にして一時間ほど走ったところで停車した。

 車を下りて顔を上げると、目の前にイギリス人らしき将校が四~五人立っていた。

 どこか見覚えがあると思ったら、なんと彼らは師父がジャングルで命を助けた連中だったのだ!

どちらからともなく駆(か)け寄(よ)り、抱き合って再会を喜んだ。

 実は彼らは、恩人である師父の行方を必死に追っていたのだった。

 

「今度は逆にこちらが命を救われることになったなぁ。」

師父は、心の中で手を合わせていた。

 

 一輪の花  

 一生懸命生きています、命ここにある限り。

 どんな物陰(ものかげ)や悪路(あくろ)に小さな芽を出そうとも、人や車輪に踏まれようとも、

 不平不満ひとつ言わず、ただ一心に咲いています。

 美しく見られたいとか、評価されたいとかは一切なく、

 誰に見られることもなく、ただ無心に咲いています。

 

不安に満ちた未来ではなく、

 後悔だらけの過去でもない。 

 まさに今、この瞬間を生きています。

 

挫(くじ)けたっていい、躓(つまず)いたっていい。

 今生きている。

 ただそれだけで、あなたは輝いています。

 この一輪の花のように。

 

<連載企画>

医療・介護の世界に足を踏み入れて

 第三部 リハビリ日誌

 歴史の証言者

「利用者のみなさんの話を聞いていると、とても教えられることが多いわ。」

 寮母の浅川さんが言った。

 僕もまったく同感だ。人生の大先輩の話から学ぶことは多い。とくに戦争体験は当人の生(なま)の声を、マッサージさせてもらいながら聞けるのは贅沢(ぜいたく)な立場だと思った。

 広島の被爆者の塩野さん(男性)は、前腕から手にかけてケロイドの跡が生々(なまなま)しく残っていた。

 にもかかわらず、とても気さくで、保護司などいろんな世話役を歴任されていて、分厚い名刺の束から知り合いの警察署長などの名刺を取り出して見せてもらうことが時々あった。

 九十歳を過ぎているのに、足腰が丈夫で元気なところは被爆者のイメージを変えさせてしまう。たまにチップを弾(はず)んでくれるきっぷのいいところもあった。

 

 安長さん(仮名、女性)も昭和二十年八月六日には広島にいた。

「急にピカッと周囲が明るくなったと思ったら、気がついた時は瓦礫(がれき)の下になっていて、必死にかきわけて外に出たんだわ。」

 安長さんは八十五歳だったろうか、誰とでも陽気に話す方(かた)で、左太ももを痛められた時、仰(あお)向(む)けになってもらいテーピングをした。すると、

「こんな恰好(かっこう)したのは、お産(さん)のとき以来だわ。」

と大きな声で言って笑っておられた。

 安長さんは残念なことに、お嫁さんとの折り合いが悪く、北海道にいる娘さんに引き取られていった。

 茂田野さん(仮名、男性)は激戦地のガダルカナル島のとなりの島(ブーゲンビル島?)にいたとのことだった。

 戦争の話をするだけで涙ぐまれた。

 職員の誰かが、あれは感情失禁だよと言ったが、それだけではないと思う。亡くなった戦友のことを思い、感きわまられたのだろう。

 新宿高野(たかの)フルーツパーラーでケーキ作りをやっておられただけあって、品のよさがにじみ出ていた。

 盗賊と馬賊の話をされたのが茂田野さんだったが、もう一度ちゃんと伺(うかが)おうと思っているうちに、残念なことに昨年亡くなられた。

 

 僕の最初の武道の先生がカラオケで決まって歌う曲があった。

「加藤隼(はやぶさ)戦闘隊(せんとうたい)」

 早川さんが正真正銘、特攻隊の生き残りでその加藤隼戦闘隊にいたと聞いた時は、本当に驚いた。

 でも、ちょっと意外な気もした。

 常識的で、あまりしゃべる方ではなく、落ち着いた紳士といった印象を受けるからだ。

それがかえって腹のすわった凄(すご)みとして伝わってくる。

 敵機グラマンの奇襲(きしゅう)を受け、早川さんの両隣りの二人は亡くなったが、早川さんは奇跡的に助かったのだという。その時片目を失った。と淡々と語っておられた。

 

 藤田さんは、言われないと戦争未亡人とは思えないほど明るく気品のある女性だ。

 小さな子供二人を抱え、女手(おんなで)一つで慣れない田舎で苦労した話をサラリと語る藤田さんを見ていると、平気で我が子を虐待(ぎゃくたい)したり殺したりする今どきの若い女性に、爪の垢(あか)を煎(せん)じて飲ませてやりたい気がする。

 藤田さんの御主人が僕の大学の同じ科の先輩だと知った時は、不思議な縁を感じた。

                                    (つづく)

                              [次号 8月20日]

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