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            浄円寺コラム<58>        2022,6,25重共聡

 五十年目のホームルーム 2014春

平成26年4月29日夜 浄円寺本堂。

 細長いテーブル4個をロの字にくっつけ、一つのテーブルに二人ずつ、蓑谷小学校の同級生八人が向き合う形で座っていた。

 一つのテーマを巡って、各自が意見を出し合っていた。

「この雰囲気、懐かしい気がするな…。小学校の同級会とも違うし…。あっそうか!教室の雰囲気だ。」

 

 平成26年4月25日(金曜)午後3時近く。

 整骨院での施術中に南の窓の向こうの細野(ほその)地区の辺りに煙が上がっているのが目に入った。煙の勢いは焚火(たきび)とは明らかに違い次第に大きくなっていった。

 そこへ入って来た患者さんから、蓑(みの)谷(たに)地区の杉本電器店の隣の工場が燃えているという情報が入った。

 あまりに近く見え、てっきり隣の細野だと思っていたので、蓑谷なのが意外だった。煙の中に炎も確認できた。

 気になって杉本電器をやっている同級生のマモルの携帯に連絡をとってみた。

 4、5回着信音を聞いた後、マモルが出た。

「隣の工場燃えてるの?」

「俺の家だよ!」

「ええ?!」

 向こうからマモルの切羽(せっぱ)詰(つ)まった声が聞こえてきた。

 とんでもない時にかけてしまったなと後悔し、すぐに携帯を切った。

 

 こんな時はどうすればいいのかまったく解らなかったので、翌日母に聞いて町の石村酒店で立山二本入り一箱を調達し蓑谷へ向かった。

マモルの姿は見当たらなかったが、彼の家のそばにあるもと農協の倉庫が受付になっていたので、そこへ用意してきた火事見舞いの日本酒を差し出した。

 用を済ませて車に向かっていると、同級生のケイコと顔を合わせた。

「どうする?」

彼女が言った。

 その時は、ケイコの言っている意味がよく理解できなかったが、27日(日曜)にうちのお寺の行事に顔を出した寺役員で同級生のヨシアキが相談を持ち掛けてきた。

 マモルのために、小学校時代の同級生たちに連絡して見舞金を募(つの)った方がいいのではないかということだった。

 僕自身はそこまで気が回っていなかったが、すぐに同意した。

 近隣(きんりん)の蓑谷、細野、西明地区在住の同級生たちに集まってもらい話し合うことにし、二人で手分けして連絡を取った。

 日時は二日後の29日(火・祝)夜7時半、場所はうちの本堂にした。

 その間に、もう一度マモル宅跡へ足を運んだ。今度は会うことが出来た。マモルは気丈に振る舞っていたが、胸の内(うち)が痛いほど伝わってきた。何と声をかけたか思い出せないが、あの時ほどかける言葉に気を遣ったことはない。

 

 そして当日。

 五箇山からミキオ、富山市からヒロシ、そして地元のナオジ、トクエイ、ヨシアキ、チエコ、ケイコ、僕の八名が集まった。

 議題はマモルの火事見舞金について。金額を一律にするか、その場合いくらにするか、集金手段、連絡方法等。

 遠方にいる同級生に知らせる意味でも、一クラス37名中マモルを除いて住所の確認できる34名全員に連絡することになった。

 次に、金額を一律にするかその場合はいくらにするか、これが難航(なんこう)しそうだなと思ったが、意外にすんなり決まった。

 トクエイが先陣(せんじん)を切って意見を述べた。みんなそれに納得して、個人的なお見舞いは各自に任せ、同級会として一律一万円で見舞金を募ることにした。

 小中学校時代しか知らなかったので、トクエイがいつの間にこんなしっかりしたことを言うようになったのか、心の中で驚いていた。

 見舞金は、たまたまケイコが保管していた同窓会の通帳の口座に振込んでもらうことにした。

 最後に案内文の作成を誰がやるかについて、ヒロシが、

「サトシやってくれ。」

と僕に振ってきた。

一瞬、反論しようと思ったが、わざわざうちの本堂に集まってもらったこともあり、ヒロシにチェックしてもらうことで了承(りょうしょう)した。

 一時間余りの話し合いだったが、50年前の蓑谷小学校5年当時のクラスにタイムスリップした思いだった。

一日かけて文面を考え、それをパソコンからファイルでヒロシにメール送信した。

 ヒロシからの返信には、予想外に詳細にチェックが入っていた。

 まさかこんなに直されるとは思っていなかったのでちょっとショックだったが、ヒロシは仕事の関係で事務的な文章を作成するのに慣れているのだろうと気を取り直した。

 封筒の宛名(あてな)はトクエイが印刷して家まで持ってきてくれた。

 案内文の宛名書きと封筒詰(づ)めはケイコが来て手伝ってくれ、5月4日にポストへ投函(とうかん)した。  

 

 杉本衛門君の火事見舞いのお願い

蓑谷小学校同級生の皆様、いかがお過ごしでしょうか?

突然ぶしつけなお願いの手紙を出すことをお許しください。

 

四月二十五日(金曜日)の午後二時五十五分ごろ、杉本衛門君の自宅が隣の織物工場からの類焼で全焼しました。

あっという間の出来事で、家財・家具・衣類を含め、すべて焼けてしまいました。

幸いご家族は、高齢のお母さん、奥さん、娘さん、本人の全員が怪我なく無事でした。

ただ、焼け落ちた家を目の前に途方に暮れて立ちつくす衛門に、慰める言葉が見つかりませんでした。

彼ら一家は、その晩から近所の親戚に身を寄せて避難生活を送っています。

 

一日二日経つうち、誰からともなく「火事で全てを無くし、着の身着のままで生活しなければならない衛門を同級生として何かしてやれないか。」という声に、取りあえず蓑谷地区在住者の同級生八人が集まって、衛門の支援について話し合いました。

その結果、皆同じで「見舞いをして、少しでも力になってやりたい。」との思いでした。

そこで勝手ながら、蓑谷小学校の同級生を対象に左記の要領で見舞金を募り、一括して「同級生一同」として衛門君に渡すことを決めさせて頂きました。

 

ご賛同、ご援助いただければ有難いです。

尚、緊急に集まりを持った為、蓑谷地区以外の皆さんに声掛け出来なかったことをお詫び申し上げます。        

           記

[金額] 一人…一万円                                                         

[納入方法] 口座振込  [納入期限] 五月二十五日 

[振込先]  

       平成二十六年四月三十日                世話人代表 重共聡       

                                 (携帯)090-6197-3297      

〇 〇 様

 

      

 良寛上人の長生きの法 

 老人はここまで聞かされて考えに沈んだ後、

「そうでしたら申しかねますが、どうかもう五年だけ延ばしていただきたいものです。私も九十五歳まで長らえさせていただければ、もう十分でございます。」

「いよいよ、それでよいか。そんなら長生きの法を教えてあげよう。

よく聞きなさい。その方法は何でもないことじゃ。誰でもやれることじゃ。

それはな、八十でも九十でも百でもよい、二百でも三百でもよいのじゃ。

それを初めに定めておいて、今日死んでも明日死んでも、俺は九十まで生きたー!と

思うのじゃ。百まで生きたー!と思うことじゃ。」

 良寛上人のこの長生の法を聞いて、聞いた人は皆失笑(しっしょう)せざるを得ないのですが、このお話は意味甚(じん)深(しん)なものであります。

お互いに人間というものは、毎日毎日同じことばかりしているものでありまして、立てては崩(くず)し積んでは散(さん)じ、年々(ねんねん)歳々(さいさい)変わったことをしておるように思っていますけれども、よく考え直してみると、廻(まわり)灯(とう)籠(ろう)の画(え)のようなものであります。

「思うこと一つかなえばまた一つ、三つ四つ五つ六つかしの世や。」

といわれているように、奮励(ふんれい)努力千辛万苦(せんしんばんく)というように、日夜苦心して働いておりますが、実は空ゆく雲のようなものであって、どれだけどうなったのかというと、真の意義あることをやっている人は少ないのであり、賽(さい)の河原(かわら)の鬼に笑われるようなことばかりして、一生は過ぎてしまうのであります。

 要は、心底から満足して、「俺は九十歳まで生きたー。」と思い「百歳まで生きたー。」と思って、いつでも死んでいける身になっておくことが大事であります。

 しかしいつでも死ねる身となることが難しいのであって、そのためには信の人となって救済されねばならぬのであります。

 良寛上人は、その境地を軽く平易に言い表して長生きの法を話されたのですが、これは親鸞聖人が信を指して「長生(ちょうせい)不死(ふし)の神方(しんぽう)(※)」と申しておられるのと同じ意であります。

     ※長生不死の神方…信心を獲(う)れば生死を超え、阿弥陀仏と同じ無量(むりょう)寿(じゅ)(量ることのできない命)を得(え)しめるから、信心を不死を獲る不可思議の方法(神方)という。

                                  (つづく)

                               [次号 7月9日]

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