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             浄円寺コラム<57>     2022,6,11重共聡

 人生は出遇い<その六>

21歳年下の同級生 2022春

 五月四日午前十一時四十五分。

 ゴールデンウィークも今日を入れてあと二日になった。

午前中、隣村(となりむら)の東西(ひがしにし)原(ばら)のため池まで往復一時間のウォーキングをしたりしていたら、朝食がお昼近くになってしまった。

台所で準備をしてこれから食べようとしていたその時、

「ピーンポーン!」

 玄関のチャイムが鳴った。

「はーい!いま行きまーす!」

 出てみると、屈強そうな見知らぬ男性が立っていた。地元西明(さいみょう)の人ではないとすぐに解った。

「アミです。」

と言われた。が、それでも思い出せない…。

「大東医専にいたアミです。」

「あーっ!」

 それは、柔道整復師の資格を取るために三年間通っていた東京都板橋区高島平にあった専門学校の同級生阿見(あみ)君だった。

 すぐに、ウラ側にある整骨院に回ってもらった。

 彼と会うのは大東医専を卒業して以来だから二十七年ぶりになる。何の連絡もなく突然目の前に現れたので、その分再会した感動も大きかった。

 

僕が三十九歳で大東医専に入学した時、阿見君は高卒の十八歳だったので二十一歳違いの同級生ということになる。

六十名のクラスで平均年令は二十三歳、それでも僕は上から三番目で、神奈川県茅ケ崎市役所を脱サラしたクラス委員長の弦(つる)弓(ゆみ)さんが最年長の四十六歳だった。

 僕の知っている阿見君は、黒ぶちのメガネをかけて小柄でカワイイというイメージだったのだが、ジムへ通っているようで体が一回り大きくなり筋骨(きんこつ)隆々(りゅうりゅう)としていた。

空腹が一遍(いっぺん)にどこかへ吹き飛んでしまった。

 

ホコリを払った卒業アルバムを開きながら、整骨院のソファーで専門学校時代の思い出話や、同級生の近況に花が咲いた。

 阿見君が言った。

「コロナで接骨院を辞める人も出ていて、KさんとNさんは接骨院を辞めて、専門学校の講師をやっています。」

「へー、そうなの。」

 長野県諏訪(すわ)市の木村君が柔整師として勤続表彰を受けたと聞いて、隣の席だった十九歳当時の木村君の面影が浮かぶと同時に、歳月の流れを身にしみて感じた。

「拓大柔道部出身の吉満(よしみつ)さんが亡くなったよ。」

と言うと、

「えーっ!知らなかった。」

と阿見君。

 ひと通りお互いに知る範囲での消息の確認作業を終えると、話題は自然に施術の方へ進んでいった。

 そこでベッドを使っての技術交流が始まった。こういうコミュニケーションは柔整専門学校の同級生ならではだ。 

 いろんな症例についての彼の体験談を聞きながら、外傷に対する技術レベルの高さに驚いていた。自分は彼にとても及ばないなと思った。

 

阿見君は、時々外の田園風景に目をやっては、

「いい所ですねー」

を連発していた。

 また、僕のどこを見たのか、

「重共さんの年までこの仕事が出来ると思うと、安心しました。」

と言ってくれたのが、ちょっとうれしかった。

 

 いつの間にか日が西に傾き始めていた。それを頃合いに阿見君は立ち上がった。

道へ出て別れ際、阿見君がスマホを取り出して、

「一緒に写真撮りましょう。」

と言った。

 僕はマスクを顎まで下げてスマホに向かった。するとそこに映っている自分の顔に愕然(がくぜん)となり、思わず自虐(じぎゃく)を込めていった。

「おじいちゃんになっちゃったなあ。」

 それを聞いて彼はVサインのポーズを取りながら、

「自分もですよー。」

と共感してくれた。

 次の目的地は高山(たかやま)ということだった。

 

 見送った後、整骨院へ戻って時計を見ると、夕方四時五十五分を指していた。

 コーヒー一杯であっという間の五時間だった。

 

専門学校卒業以来二十七年間没交渉(ぼつこうしょう)だった阿見君が、バイク・ツーリングではるばる茨城県土浦市から訪ねてきてくれたことに感動していた。

 今日はこの余韻に浸り、明日クラス委員長の弦弓さんに久しぶりに電話してみようと思った。

 

 

 良(りょう)寛(かん)上人の長生きの法

 ある金持ちの老人が病気になってから、死ぬことが恐ろしくなってきて、大変歎(なげ)いてどうか死なずに長生きしたいものだと悩んでいたのであります。

 金持ちというものは、死ぬことを普通の人より一層恐れるものであって、長生きしたいという願いの強いものであります。

 良寛上人がそれを聞かれて、それは可哀想なことである、わしは長生きの法を知っておるが教えてやろうかなあ、と申されたのでした。

 それを伝え聞いたこの老人は、早速、良寛上人に来ていただきたいと願ったのです。

 そこで一日、良寛上人は金持ちの老人の病床を訪問されました。

老人「あなたは長生きの法を知ってござるということですが、それは本当ですか?」

良寛「ああ知っとる。本当だ。」

「どうか教えていただきたいものですが、教えていただけるでしょうか?」

「うん、よしよし何ぼでも教えてあげる。」

「それはどうすればよろしいのですか?」

「それは何でもないことじゃ。」

「一体その方法によりますと、何歳ぐらいまで生きられますか?私のような老人でも、まだ長生きが出来ましょうか?」

「出来るともできるとも、いくらでも長生きができる。一体、あなたは何年ほど長生きがしたいのか。」

 老人はちょっと困って返事をためらったのであります。

「もう私も七十歳になりますから、そう長生きは出来ないと思いますが、せめて八十歳まで生かしていただくことができましたら結構だと思います。」

「何じゃ、たった八十か、わずか十年間じゃないか。」

「それでも、八十歳以上と申しましてはあまりに欲張り過ぎますから。」

「何のことじゃ、長生きがしたいしたいと言っておりながら、たった十年か。」

「エッ、そんならもっといけましょうか?」

「生きられるとも、まだまだいける。」

「そんなら、厚かましいようですが、九十歳まで生かしていただきたいものです。」

「九十か、いよいよそれでよいのか。もう後悔はないかな、ただし、わしの長生きの法は年齢を初めからちゃんと定めておかねばならぬのじゃ。そして言うておくが、この法を伝授した後からは、もう一年も延ばすことが出来ぬのじゃから、掛け値のないところを、とっくり考えて本当のところを思う存分に言いなさい。後で後悔をせぬように。」

                                (次号へつづく)

 

 医療・介護の世界に足を踏み入れて

 第三部 リハビリ日誌

 ナイチンゲール

 半年ほど過ぎた頃、あることに気がついた。

 寮母さんやパートのヘルパーさん達がみんなしっかりしているというか、気が強そうで、自分の描いていたイメージとはちょっと違うのだ。

 僕は、お年寄りの世話をする人たちは、ナイチンゲールのような優しい人ばかりかと思っていた。

 もっともナイチンゲールが優しかったかどうかは知らないし、テレビで見たマザーテレサは行動的な社会活動家という印象だった。

「認知症の応対や下(しも)の世話もやらないといけないので、優しいだけじゃ長続きしないのだろう。」

と自分を納得させた。

 

 金田一(きんだいち)京(きょう)助(すけ)の弟子

 最初の利用者で印象に残っているのが、陶山さんという夫婦で来ていた奥さんの方だ。

 車椅子に乗っておられ、片足の膝から下がなかった。糖尿病による合併症で切断したとのことだった。

 リハビリベッドで横向きになってもらい、マッサージをしながら会話するのが楽しみだった。

 あの国語学者の金田一京助のゼミに入って教えを受けていたと聞いたときは、二、三度聞き返したほど驚いた。

 僕が中学から使っている三省堂の国語辞典が金田一京助監修なので、名前だけはいやでも覚えている。

 陶山さんは物静かで思慮深く、言葉の端々に知性がにじみ出ていた。半年後に亡くなられた知らせを耳にした時は、本当にショックだった。

                                   (つづく)

                              [次号 6月25日]

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