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            浄円寺コラム<55>      2022,5,14重共聡

 犯人は現場に二度現れる 1980頃

 会社勤めをしていた二十代後半の頃だった。

 その日の夕刻、会社を出て小矢部川近くにある福光(ふくみつ)町営駐車場に青の愛車スバル・レオーネを停めて街中(まちなか)へ繰り出した。

 一時間半ほどで用事を終えて駐車場に戻った。

 

車の近くまで来た時、一瞬目を疑いその場に立ち尽(つ)くしてしまった。

「なんで?!」

目の前には、前部が派手に凹(へこ)み、ボンネットが持ち上がった愛車の無残な姿があった。

 誰がやったのかは全くわからない。大事にしていた車をこんなにして黙って逃げ去った相手への怒りや憎しみで、心がはち切れそうになった。

しばらく茫然(ぼうぜん)としていたが、車はまだ動くようなので気を取り直し、キーを差し込んでその場を離れ、自動車修理工場から山菜料理の店(合掌かず良(ら))に転身した親戚の伸(しん)ちゃんのところへ行って相談することにした。

すると、開口(かいこう)一番(いちばん)聞かれた。

「車の周辺に他の車の破片が落ちていなかった?」

 

つまりこういうことだった。

 ぶつけた相手の車の破片が落ちていたら回収して、翌日もう一度駐車場へ行ってその破片が適合する車を一台一台調べてみるといい。相手の車はきっとその駐車場に車を停めにくるから。

 藁(わら)をもつかむ思いでもう一度十分余りの道のりを駐車場へ引き返した。

 自分の車のあった周辺を見回すと、すぐにテールランプ(※)カバーの赤い欠片(かけら)が目に入った。他にはそれらしきものは見当たらなかった。

 しかたがないので、取りあえずその欠片を拾(ひろ)って帰宅した。

 

 翌日の夕方。

再び同じ駐車場へ向かっている自分の姿があった。

そこには十数台の車が停まっていた。

僕は、破損している車がないか一台一台見て回った。するとすぐに車体後部のテールランプカバーが欠けている車を見つけた。

そこで、昨日持ち帰った赤い破片を当ててみた。するとジグソーパズルのようにピッタリ一致した。

それでこの車のものに間違いないという確信を得た。

ただ、大きな疑問が残った。というのは、テールランプのカバーが欠けている以外は無傷で、どうみてもぶつかったとは思われないのだ。

でも、他にそれらしき車はなかったので、伸ちゃんに言われた通り、その車の車種とナンバーをメモして福光警察署に向かった。

 

着くとすぐにお巡りさんにメモを渡して事情を説明した。

彼は車の持ち主を調べてくれ、福光町の住人だと解った。でもその人がぶつけた張本人かどうかはわからないので、

「それとなく、訪問してみます。」

と言われた。

 その日の夜、早速警察署から電話があった。車の持ち主宅を訪ねると、玄関先に本人が出てきてお巡りさんの姿をみるやすぐに察知して、

「私がやりました!」

と白状したという。

「明日、福光署に来てもらうことになっているので、午前11時まで来てください。」

とのことだった。

 それを聞いて、相手の動揺した様子が目に浮かんだ。

 僕自身、車を当て逃げされた腹立ちをぶつけずには収まらない気持ちだった。

 

 翌日、会社の外出許可を得て福光署へ向かった。

 ドアを開けて中へ入ると、ぶつけた本人らしき三十代と思われる男性が立っていた。

 彼は僕の顔を見るや、

「すみませんでした!」

と、頭が膝につくくらい下げて謝った。

 その瞬間、会ったら思いきりぶつけてやろうと思っていた怒りがスーッと消えていった。

「いいですよ。」

 思わず出たのがこの一言(ひとこと)だった。

 菓子箱を持ってお宅まであいさつに行きますというのにも、

「いいです。」

と断って署を後(あと)にした。

 

「重共は人が良すぎる。」

と学生時代、友人に言われたことがある。

でも、あんなふうに頭を下げている相手を目の前にして、さらに打ちのめすことは自分にはとても出来ない。

 帰り道、行きとはうって変わってハンドルを持つ手は軽かった。

 それにしても、自分の愛車があんなに破損したのに、相手の車はランプカバーが欠け

ただけであとは殆んど無傷だというのはどういうことなのだろう?

 このことから自分が得た結論は、ぶつけた方よりもぶつけられた方が損傷が大きいということだった。

 そして、

「犯人は必ずまた現場に現れる。」

と言った伸ちゃんの慧眼(けいがん)(※)には感服(かんぷく)した。

            ※テールランプ…尾灯ともいい、車の後部のランプのこと。後続の車や自転車、歩行者に存在を知らせるためのもの。        

※慧眼…物事の本質を見抜く鋭い眼力(がんりき)。

 

 

 生死を超える道へ

いつだったか、僕の祖父がポツリとこんなことを言いました。

「死ぬがーおとろしないけど、特に死にたい思わん(死ぬのは怖くないけれど、特に死にたいとは思わない)。」

 この言葉が、『信仰とはこういうことをいうのかな。』という思いとともに、今でも耳の底に残っています。

 生と死を超えた世界、善悪を超えた世界があることを、その世界に生きている人や本を通してうすうす解りかけてきているのですが、それはまだ頭の中だけでの理解に過ぎず、自分が話しても説得力にかけるので、ここで、念仏で救われた方のお手紙を紹介させていただきたいと思います。

 

 在家仏教という月刊誌に載っていた『生死を超える道へ』と題した文の中に、死を目前にした、ある師弟(師匠と弟子)の往復書簡があり、その内容が強くこころに響いてきました。

 福岡教育大学の細川巌(いわお)という先生とその教え子の関(せき)真和さんの往復書簡です。

関さんは、細川先生から仏教の教えを受けていましたが、56才でガンで亡くなります。

 亡くなる一ケ月前に、師匠の細川先生に手紙を書いておられます。

 

先生、長い間ありがとうございました。

この言葉は、何度言っても言い尽くすことができません。

福岡学芸大学時代、本校で先生にお遇いし、仏法にあわせていただき、大きな世界のあることを

知らせていただきました。

 あの当時、二年制を選ばず四年制課程で本校に行けたことがいかに大きなことであったか、今に

してつくづく思います。先生にお遇いできたことが、最大の収穫でした。

その後、卒業以来も久留米(くるめ)を中心に仏法を語っていただき、時に父のごとく、ときに教育者ともなり、私を育(はぐく)んでくださいました。

大学四年の時父が亡くなり、その時先生にいただいた、

『“日輪(にちりん)没(ぼっ)する処(ところ)、明星(みょうじょう)輝き出(い)ずる如く、人生の終焉(しゅうえん)は永遠の生(せい)の出発である”

(日輪つまり太陽が沈む時、明けの明星つまり金星が輝き出すように、人生の終わりは永遠の生

の出発である)』

このことばは、その当時の私の大きな救いとなりました。

そして今、病床でこの言葉をかみしめています。

 

以来三十数年、先生のみ教えを通し、夜(や)晃(こう)先生、親鸞聖人、七高僧、釈尊と連綿(れんめん)とつらなる深い歴史観をいただきました。

このことは、私の人生をいかに豊かにしてくださったことでしょうか。

 

お念仏『南無阿弥陀仏』をいただいたゆえに、生きることが出来、お念仏いただいたゆえに死んで

いけます。もし、お念仏にお遇いしていなかったら、今ごろこのベッドの上でのたうち回っていると思います。

肉体的には大変きついです。座るのもちょっとの間しか出来ないくらいです。

でも、心は平安です。

先生を通して、たくさんのお同朋(どうぼう)をいただき、にぎやかです。

先生、本当に素晴らしい人生を賜(たまわ)りまして有難うございました。

 

最後の一呼吸までは、生きるための努力を続けます。

先生は、病気回復期ゆえ、どうかお体を大事になさって、お同朋の大きな光となってください。

ことばは尽(つ)くせません。ありがとうございました。

 

   平成五年六月二十四日

                                                関真和

 細川巌先生

 

これが、関さんが亡くなる一ケ月前に細川先生に書かれたお手紙です。

 これに対して、二日後に細川先生が返事を書いておられます。

                                   (つづく)

[次号5月28日]

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