真宗大谷派 浄円寺
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浄円寺コラム<53> 2022,4,16重共聡
私の宗教遍歴<3>
エ〇バのショー人
平成18年(2006年)に富山の実家へ帰って一年後、整骨院を開業したばかりの頃だった。
二人連れの中年女性が整骨院入口に立っていた。
僕は、
「こんにちは!」
と言おうとして、患者さんではないことに気がついた。
入口の戸を開けると、見覚えのある小冊子を手にしているのが目に入った。それは、キリスト教の一派、エ〇バのショー人が教化活動に使っている絵本だった。
その時、
「こんな田舎の、しかもこの真宗王国にまで入(はい)り込(こ)んでいるのか!」
という驚きと同時に、
「あんなことがあったのに、まだやってるの?」
という疑問が湧(わ)きあがってきた。
エ〇バのショー人でまず思い浮かぶのは輸血をしないということだ。
親が輸血を拒否したため、患者だった子供を死なせてしまったというニュースが世間に衝撃的を与えた過去があった。
なぜ輸血をしないのか?それは教えを聞くと理解できる。
聖(せい)なる血しか体内に入れることが出来ないとされているのだ。聖なる血とは、イエスキリストの血のことだ。それ以外はダメなので、当然輸血は拒否することになる。
2000年が近づく頃、首都圏ではエ〇バのショー人の入信者たちが、二人一組になって、駅前や各家庭を訪問して必死に教化活動をしていた。
というのは、日清戦争の年に生きていた最後の一人が亡くなる前、つまり西暦2000年に入る前にハルマゲドン(世界の終末(しゅうまつ))が訪れるということを信じていて、その前にバプテスマ(洗礼(せんれい))を受けた人だけが救われる。つまり、地上の楽園へ行くことが出来ると、本気で思い込んでいたからだ。
当時川口市にいた僕のアパートにもよく訪れた。
ショー人たちは教化活動に時間を割(さ)かれるため定職にはつけず、アルバイトをしながら活動に励んでいた。
その頃、キリスト教を勉強したかった僕は、研究員という形でエ〇バのショー人の男性から、毎週日曜の朝、僕のアパートまで足を運んでもらい30分ほど聖書のレクチャーを受けていた。
川口市の支部に顔を出したことも二度ほどあった。
初めて訪れた時、
「よくいらっしゃいました!」
と、みんなが入口で歓迎してくれた。
これじゃ、新興宗教に若い人達が入るわけだと思った。
研究員となってちょうど一年経(た)ち、いよいよ選択の時が来た。
つまり、バプテスマ(洗礼)を受けるかどうかということ。
その頃の自分は、まだ真宗には気持ちが向いていなかったが、
「受けません。」
と答えた。
すると、その日を境にパタッと姿を現さなくなった。
ただ、バイトで家計を支えている彼は新聞代も節約しているため、新聞折込(おりこみ)の求人チラシが欲しいとのことで、日曜毎(ごと)に僕がチラシをアパートの郵便受けに入れて置き、それを持って行ってもらうことにした。
結局2000年になっても、ハルマゲドンは来なかった。
それでもショー人たちは相変わらず街頭で活動していた。理由を尋ねてみたら、
「聖書の解釈が変わったから。」
と、あっさり言われてしまった。
富山へ戻って、エ〇バのショー人の信者に同じ質問をしてみると、その事実自体を知らない人達がいるのには驚いた。
人生の意味
加藤諦三氏の刑務所でのインタビューについて、インターネットにも出ていないか検索(けんさく)してみると、興味深い記事が目に止まった。
松浦悟郎(まつうらごろう)というカトリック教会の神父(しんぷ)さんの文で、考えさせられる内容だった。
学生時代「ぼくの中の朝と夜」というドキュメンタリー映画がありました。
それは筋ジストロフィーの子供たちのベッドスクール(院内学級)を扱(あつか)った映画でした。
そこの子供たちにとっては、ベッドの上が学校になったり遊び場になったりしているんですね。
この病気は二十歳から三十歳の間に亡くなるケースが多いという解説がありました。先輩たちがだんだんなくなっていくことを、彼らは知っています。
そういう状況の中で、彼らは一つのことを恐れているというのです。
死を恐れているのではありません。
「自分はなぜ不自由な身体に生まれてきたのか?」「自分にどんな生きる意味があるのか?」を知らないまま死ぬのが怖(こわ)いというのです。
だから彼らは生きる意味を必死になって探していました。「友達としゃべる」「遊ぶ」「勉強する」一つ一つのことすべてに彼らの人生がかかっているような真剣な生き方でした。
薄れていく意識の中で、最期(さいご)まで難(むずか)しい物理の本を開(あ)けようとしている子供。鉛筆をポトリと落とす最期の時まで詩を書き続けていた子供…人間は、生きる意味を知らなかったら死ぬことも出来ない。
言い換(か)えるなら、生きる意味を知った時、人間は真に死を受け入れることが出来る。そのことを強烈(きょうれつ)に示してくれました。
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
第三部 リハビリ日誌
一本の電話 2000春
「ル・ル・ル・ル…」
銭湯で一日の汗を流し、アパートへ戻って一息ついているところへ、電話の呼出音が鳴った。太極拳の仲間である木下さんの奥さんからだった。
「私の勤めているデイサービスで、マッサージをしてくれる人を探しているのですが、重共さんの周(まわ)りに誰かいませんか?」
これは自分にやってくれということなのかなと、都合よく解釈して、
「僕でもいいんですか?」
と聞くと、
「なお、いいです。」
という返事が返ってきた。
勤めていた接骨院の関係で金・土曜の午後が空(あ)いていたし、頼まれたら断れない質(たち)なのも手伝って、面接の日時を確認して受話器を置いた。
その時は、
「半年くらいで辞(や)めればいいや。」
という軽い気持ちだった。
それが、六年も続くことになろうとは…
三月中旬、その日は快晴だったが、前夜に降った季節はずれの雪が地表を薄化粧していた。
「有楽町線平和台駅出口のコンビニの前に立っていてください。誰か迎えに行きます。」
打ち合わせ通りに待っていると、間もなく、
「重共さんですか?」
と、Nデイサービスセンターの職員らしき若い女性が現れた。
デイまで五分足らずのドライブだったが、道の両側に広がる田園風景に目を奪われた。
「池袋から電車でわずか十分の所に、こんな田舎があったのか!」
と驚いていた。
応接室に通され、高橋所長(六十代男性)と白岩(しらいわ)相談員(三十代男性)から形式的な面接を受けた。
所長は一目(ひとめ)見ただけで、介護の施設長らしい人柄のよさが伝わってきた。
「マッサージは人気(にんき)出ますよ。」
白岩相談員が言った。
(つづく)
[次号 4月30日]