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             浄円寺コラム<50>     2022,3,5重共聡      

 北京五輪 2022冬

 自分にとって応援とは

 北京オリンピックジャンプ混合団体はメダル間違いなしと思っていたので、午後十一時過ぎまでテレビ観戦を楽しむつもりだった。

 午後八時半、男女二人ずつ四人で構成するチームの一回目ジャンプが終了し、二回目に入って間(ま)もなく、

「高梨(たかなし)失格です。」

というアナウンサーの声に一瞬耳を疑った。

 それが事実だと解(わか)った時、それまで膨(ふく)らんでいたワクワク感が一気にしぼんでいった。

 

この時以上にショックだったのが、昨夏の東京オリンピック陸上男子400mリレー決勝だった。

 第一走者から第二走者へバトンが渡ったと思った矢先(やさき)、

「ああっ日本のバトンがつながりませんでした!」

アナウンサーの信じられない一言(ひとこと)で、金か銀を待ち望んでいた思いが一気に遮断(しゃだん)され、気持ちのやり場に困ってしまった。

 正直その時は、選手の気持ちを思いやるよりも、自分の楽しみが奪われたショックが真(ま)っ先(さき)に来た。

 夏季五輪の後(のち)制作されたドキュメンタリーを見て、400mリレー第一走者の多田選手の苦悩を知り、ようやく当事者の気持ちに共感することが出来た。

 落ち着いてきて初めて沙羅(さら)ちゃんは大丈夫かなと気になった。

 

 国際試合、特にオリンピックはいつもは関心のない競技までテレビ画面に見入っている。理屈抜きに日本人、中(なか)でも自分の気に入った選手の応援に熱が入り、腹の中では他国の選手の失敗を願っている。

 そして、メダルを取ると手を叩いて喜び、逃すとガッカリする。

言いかえると、自分の思い通りになると喜び、思い通りにならないとストレスが溜(た)まる。

さらに誤解を恐(おそ)れずに言うと、自分の思いをかなえてくれる(メダルを取ってくれる)選手は自分にとって都合のいい選手であり、善人だ。逆に、それを阻止(そし)しようとしている(他国の)選手は自分に都合の悪い選手であり、悪人となる。

 

選手を応援していると思っていたけれど、心の奥には自分自身のために応援している自分がいる。自分が気持ちよくなるために応援している自分がいる。

そして、常に自分の思いの方を大事にし、自分の思いの枠(わく)の中で何事(なにごと)も都合よくいくように願っている自分がいる。

 身(み)も蓋(ふた)もないけれど、これが自分の現実だ。

 

 

プロローグ 古き良き日本 1997秋

「太極拳を学ぶ時は、中国の歴史や文化を学べ。」

と言われる。これは外国発祥(はっしょう)の習い事に共通して言えることだと思う。

僕が出遇った太極拳は台湾が本場だったので、小林よしのり氏の『台湾論』を一冊手に入れて仲間うちで回し読みした。

 マンガだが、以前日本と台湾を結ぶ仕事をしていた職場の院長に、

「これほど台湾について詳しく書かれた本はないですよ。」

と勧められたのがきっかけだ。

 そして、太極拳の師匠も邱(きゅう)という台湾人だった。

 邱先生は日本統治下の台湾で生まれ育った。そこへ終戦直後、日本に代わって大陸から逃れて蒋介石が入ってきた。

 このことを、台湾の本省人(ほんしょうじん)(※)の間では「犬(日本人)が去って豚(蒋介石の国民党)が来た。(※)」と言われている。

 

邱先生の恩師は日本人で、先生は日本をこよなく愛していた。これは本省人一般に言えると思う。

 邱先生は、長男と東京で暮らしていたが、最近の日本での考えられない犯罪を見聞(みきき)きするにつけ、よく、

「昔の日本はどこへ行ったのか。」

と嘆いておられた。

 確かに、台北の街を歩いたり台湾の人達に接したりしていると、忘れかけていた懐(なつ)かしさを感じることがある。 

 

そんな邱先生が僕の故郷である南砺市西明(さいみょう)を訪れたのは平成9年の秋だった。

 金沢での太極拳合宿の後、庄川町の旅館『川(かわ)金(きん)』へ泊まってもらい、翌日僕の実家へ寄ってもらった。

今は整骨院になっている離れの客間で両親が応対した。そのあと、世界遺産の五箇山合掌造りなどを案内した。

 数日後、東京で再会した時に言われた。

「重共さんのところには、古き良き日本があるね。」

 

 ※本省人…第二次世界大戦前から台湾に居住している台湾人。

※犬が去って豚が来た…犬は獰猛(どうもう)で騒がしいが、番犬として役に立つ。それに対して豚は食べて寝るだけで何もしない。

台湾人にとって軍隊とは威風堂々(いふうどうどう)として行進する日本軍のような勇姿(ゆうし)だった

が、蒋介石率いる国民党の兵士達は銃の代わりに鍋(なべ)釜(かま)をさげ薄汚(うすよご)れた綿入れを着込み、殆(ほと)んどが草履(ぞうり)履(ば)きで素足(すあし)の者さえいた。カラ傘を背負った者もいればニワトリの籠(かご)を天秤(てんびん)棒(ぼう)で担(かつ)いだ者もいて、しかも隊列はだらしなく曲がり、話しながらだらだら歩いていた。その様子に台湾人の期待は完全に外(はず)れた。(ネットより)

 

事故 2022冬

 車を運転していると、時々事故の現場を通りかかることがある。

 道路の隅(すみ)に破(は)損(そん)した車が二台置かれてあり、パトカーが停(と)まっている。横をすり抜けていくたび減速(げんそく)して、車の被害状況を細かく確認しようとしている自分がいる。

 まさか、自分がその当事者になろうとは…

 

1月17日月曜 雪

お昼に日用品を調達しようと城端町のドラッグストアー『アオキ』へ立ち寄った。

 買物を終えて駐車場へ戻り、車にキーを差し込んだ。

 しきりに雪が降っていて、ドアの窓に吹きつけた雪で視界が悪くなっていた。

 フロントガラスの曇りを手の甲でぬぐい、アオキの前を走る通りを左へ出ようとした。

 そして、出口で一旦停止して右側を確認したが、道路の縁に除雪した雪が高く積んであり、視界が狭くなっていた。

 それでも大丈夫だと判断し、そのまま道路へ下りてハンドルを左に切ろうとした。その瞬間、

「ガッガッガー!」

 いきなり目の前に車が現われた。右手から現れたその車は大きく膨(ふく)らんで、僕の前を通り過ぎ左へ寄って停止した。

止まった軽トラックから、年配の女性が下りてこちらへ向かって来た。

 僕は混乱する頭のまま、体を車外へ運んだ。

 

まず自分の車を確認した後、相手の車を見回した。

自分の車は予想通りバンパーの周辺がかなり痛んでいたが、相手の軽トラは一見したところ損傷は見当たらなかった。被害者に指摘されて初めて後輪がぺしゃんこになっているのに気がついた。近くのJA車両部がレッカーで引き取って行ったが、内部にダメージを受けていたようだ。 

まず警察と保険会社に連絡を取った。

 警察に聞かれて被害者の女性が、

「ぶつかった瞬間、胸が痛くなって吐き気がした。」

と答えたので、精密検査を勧められた。

 雪の降りしきる中で一時間は立っていたのに、寒さは全く感じなかった。

 

それほどの衝撃はなかったと思っていたのが、相手方の、

「吐き気がした。」

の一言が耳に残り、家へ戻ってからも、

「もし急変したらどうしよう…」

と、そのことが頭から離れず、悪い方へばかり想像して気持ちが落ち着かなかった。

 人身事故は初めてで、こんなに神経をすり減らすとは思ってもみなかった。

 

事故の四日後、午後一時過ぎに南砺警察署から電話があった。

「相手のYさんはケガはなかったので、物損事故として処理します。」

 結局、病院には行かなかったようだ。

 四日間続いた緊張感はすぐには取れず、夕方になってようやく、

「もう心配しなくていいんだ。」

という安堵感(あんどかん)で体の芯(しん)まで軽くなった。

 

 ところで、今回の事故には副産物がある。

昨年の白内障の手術後にずっと気になっていた症状が、事故を境に全て吹っ飛んでしまったのだ。

心配の重点が百パーセント被害者の体の状態に移ってしまった。それから一カ月以上経(た)った今でも、全く気にならなくなっている。

 もう一つ、自分の生まれ育った所なのに、城端町に「塔(とう)尾(の)」という地区があることを初めて知った。中学の卒業アルバムを見て見たら、確かに塔尾出身の同級生が何人かいた。

 

事故当日の夜、保険会社の担当者のアドバイスもあり、暗くなった午後六時半頃、地図を頼りに菓子箱を持ってYさん宅を訪れた。

「今日はすみませんでした。」

と頭を下げると、息子さんの後から顔を出した僕より二才年上のYさんが言った。

「誰にでも起こり得ることですから。」

 この一言に救われる思いがした。

 ここにはまだ、古き良き日本が残っているなと思った。

                              [次号 3月19日]

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