真宗大谷派 浄円寺
48
浄円寺コラム<48> 2022,2,5重共聡
あぼちゃ
自分の子供の頃は、冬になると雪合戦やパッチ(メンコ)、雪だるま作り、スキーなどいろいろやった。が、中でも「あぼちゃ」は別格の遊びだった。
道具はスコップのみ。
条件はある程度の積雪があること。大雪であれば、なおいい。
一人で出来るし、仲間たちとも一緒に出来る。
10分で終了することもあれば、1時間以上かかることもある。
ただし、終わった後には独特の達成感を味わえること間違いなしだ。
一回のあぼちゃの中には建設と破壊があり、最後には心の中に一種の教訓(きょうくん)も芽生(めば)えてくる。
他のスポーツと違って言葉は必要なく、ただ、皆一つの目標に向かって一致(いっち)団結し黙々とスコップを操(あやつ)る。
完成度が高いほど、規模が大きいほど、それが破壊されていく光景は迫力があり、皆その場に立ち尽くしてただ茫然(ぼうぜん)と放心(ほうしん)状態になって眺(なが)めている。
あぼちゃを心ゆくまで堪能(たんのう)したあとは、スコップを抱えてそれぞれの家路に着く。
心の中は、あぼちゃでしか味わえない達成感に満たされ、同時に無意識の中である種の教訓を学んでいる。
こんな遊びが他にあるだろうか。
雪国に生まれ育った自分達のみに与えられた特権(とっけん)だ。
(次号へつづく)
原稿⑭ 安心問答(その二)
【問い】
それでは、死んでからまた逢(あ)うことが出来ますか?
【答え】
はい、逢えますよ。
でも、誰でも逢えるわけではありません。
ナムアミダ仏の用(はた)らきによらなければ、誰も浄土に生まれることは出来ません。
ナムアミダ仏を信じ、ナムアミダ仏を称えるものは、アミダ如来(にょらい)の誓願(せいがん)にて、その命が終わり次第(しだい)、またアミダの浄土で逢わせてくださるのです。
これは、弥陀の誓いをたのみとして参(まい)る浄土なのです。
また、念仏の人は亡き人と念仏の中でもうお逢いしているのです。亡くなった人はちゃんといつも念仏の中に生きておられます。念仏のおん世界の中では生きても死んでも逢っているのです。
そこにまた逢う国があるのです。
今死んだ どこにも行かぬ ここにおる 探(さが)しはするな 念仏の中ぞ (高祖(こうそ)の歌)
別れ路(じ)の さのみ歎(なげ)くな 法(のり)の友 また逢う国の ありと思えば (親鸞聖人)
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
第二部 医療日誌
オレンジ接骨院 2000春
少林(しょうりん)拳(けん)の達人
千束接骨院は結局人手(ひとで)に渡った。
千束の在籍は一年くらいで、その後本院のオレンジ接骨院に通うことになった。
今度の職場は、山手線高田馬場駅から徒歩7~8分のショッピングセンター内にあった。
そこで、富山へ戻るまでの七年間仕事をすることになる。
柔整師は院長と僕の二人で、約十五名のスタッフは三分の二が十、二十代という構成だった。
当時僕は四十代後半だったが、若いスタッフたちとは割(わり)とコミュニケ―ションがとれていたと思う。
そんな中、願ってもない出遇(であ)いがあった。
ある日、出勤すると院長が言った。
「(鍼灸師(しんきゅうし)として)太極拳の大先生(だいせんせい)が入ってきましたよ。」
名前を聞いても、僕の知る限りでは思い当たらないし…と思いながら、初対面の日を迎(むか)えた。
よく聞いてみると太極拳じゃなく少林拳だった。名を川口賢といい、実は日本における少林拳の第一人者だったのだ。
川口先生は当時三十代、年一カ月は中国河南省(かなんしょう)の老師のもとへ修行に行っていた。その模様は中国のテレビでも特集を組んで放映されていた。
正義感の強い真(まっ)直(す)ぐな性格で、接しているとこちらの心まで洗われるような清々(すがすが)しい気持ちになる。
それまで僕は、昼休みは治療用ベッドで寝ていたのだが、川口先生に刺激を受けて、接骨院の裏にある新宿スポーツセンターの広場へ二人で行って稽古するようになった。
まず二十分くらいそれぞれの稽古をして、その後手合(てあ)わせするというパターンだった。
川口先生は少林拳なのだが、対戦(たいせん)する際は太極拳の相対(そうたい)練習である単推手(タントエシォウ)(※)のやり方に合わせてくれた。
時々少林拳の突きがズバーンと飛んでくるので、こちらはいつ来るかいつ来るかと、神経を集中させていたのが懐かしく思い出される。
あれから十五年、川口先生とは現在でも交流が続いている。
※単推手…二人が向き合い片手が触れた状態で押したり引いたりする。
新宿という場所柄(ばしょがら)のせいか、様々な患者さんが訪れた。
ある日、香取(かとり)さんという年配の男性が来院してきた。
とても気さくで話しやすい人物だった。
話をしている中で、モナ・リザ展に話題が移った。モナ・リザといえば、あのレオナルド・ダ・ビンチの代表作だが、日本に最初に来たのは僕が学生だった昭和四十九年、東京上野にある国立博物館だった。
実際、僕自身も足を運んでいた。押すな押すなの行列で、モナ・リザ一枚見るために混雑していて、立ち止まることは許されず、歩きながら名画の前を通り過ぎた記憶がある。
そのモナ・リザ展の照明を香取さんが担当したというのだ。それがルーブル美術館に評価され、館員がパリからはるばる教わりにきたという話を聞いた時はビックリした。
飾(かざ)らない人柄に接していると、優(すぐ)れた業績(ぎょうせき)を残した人というのは、別に威(い)張(ば)ったり、よく見せようとする必要はないんだなと、自分なりに納得した。
入れ墨
こんな症例も初めてだった。
三十代のパニック障害の病歴のある女性を担当していた時のこと。長袖(ながそで)の時は気づかなかったのだが、夏になり半袖姿で来院した彼女を一目(ひとめ)見て、
「あれっ?」
と思った。
手首から肘にかけて入(い)れ墨(ずみ)のようなものがあったのだ。
よく見るとそれは入れ墨ではなかった。カミソリで付けたような線状の傷跡(きずあと)が一面に出来ていた。
「これが、リストカット(※)か。」
耳にしたことはあるが、実際この目で見たのは初めてだった。彼女の外面(がいめん)からはうかがい知れない心の葛藤(かっとう)を覗(のぞ)き見た思いがした。
そのことには触れずに施術を続けて三、四ケ月した頃、久しぶりに見るとかなり薄れていたのでよかったなと思った。
※リストカット…手首の内側をカッターなどで切る自傷行為をいう。
またある夜、二十代後半と思われる青年が現われた。
男の自分が見てもハッとするほどの美青年だった。職業欄に「ホスト」と記されていたので納得した。
いつも以上に気合をいれて『激ツボ療法』をしたせいか、
「イタイ、イタイ!」
を連発していた。痛いのに凝(こ)りてもう来ないだろうと思っていると、翌日再び現れた。
開口一番、
「昨夜は、何年ぶりかでぐっすり眠れました。」
と言った。
それを聞いて、ホストという仕事は精神的ストレスが半端(はんぱ)じゃないんだなと思った。
スタッフが皆若いため、厄介(やっかい)そうな患者さんは大抵(たいてい)院長がこちらに回してくる。
その日、院長から言われて、ベッドにうつ伏(ぶ)せになっている患者さんの肩に電気(低周波)をかけるため、
「失礼します。」
と言ってシャツをめくった。その途端、思わず息を呑(の)んだ。
色鮮(いろあざ)やかな入れ墨が目に飛び込んできたのだ。
それは、まさに任侠(にんきょう)映画に出てくる健さんの唐獅子(からじし)牡丹(ぼたん)を思い起こさせた。入れ墨は銭湯や整形外科でもたまに見かけたことはあるが、こんなに色彩(しきさい)がきれいなのは初めてだった。
「前科がありますよ。」
後から院長が余計(よけい)な事を耳打ちしたため、こちらも緊張しながらマッサージしていたが、意外にも、どの患者さんよりも我々に気を遣(つか)ってくれたのはこの男性だった。
こんな入れ墨に出会ったこともある。
整形時代、時々来院してくる物静かな中年女性がいた。
ある日、診察室で僕が施術に当たった際に、ベッドで腹臥位(ふくがい)(うつ伏せ)になってもらい、衣類をまくった時、内心ハッとなった。背中一面に薄(うす)く観音様の白い輪郭(りんかく)が浮かび上がっていたのだ。
一目見て、ああこれが漫画で見たことのある白粉(おしろい)彫(ぼ)りだなと思った。そして、つい、
「タトゥーですね。」
と言ってしまった。
その患者さんは黙っていたが、その日以来ぷっつりと姿を見せなくなった。
ただ、どう考えてもあの物静かな女性と観音様の白粉彫りが結びつかなかった。
(つづく)
[次号 2月19日]