真宗大谷派 浄円寺
45
浄円寺コラム<45> 2021,12,25重共聡
明智ゼミナール日誌(4)
「俺、どうしていつも、からまれるんだろう。」
サンチェがグチをこぼしていた。
理由を尋ねると、高一のサンチェは語り始めた。
その日、JR大宮駅の改札を出て歩いていると、チンピラ風の男二人に、
「何だ、その目は!」
と、因縁をつけられた。
「すみません。」
と何回も謝ったのに、駅裏へ連れていかれた。そして、
「いきなり殴(なぐ)りかかってくるものだから、しかたなしに」
得意の蹴(け)りで倒(たお)したのだという。
彼は目が大きいせいか、じっと見つめるとにらんでいるように見えるのだろう。
ただ、スマートな外見からは想像もつかないほどの人並(ひとな)み外(はず)れた闘争(とうそう)心(しん)を持っている。
塾での武術の稽古に一番熱心だったのはサンチェだ。
中学入学の直前に入塾し、中三で川口市から上尾市へ越していくのだが、高校生になってからも、週一回のペースで組手(※)をやりに通ってきた。
塾の授業が終わる夜九時半頃来て、十一時過ぎまで稽古した後、一時間余りの道のりを京浜東北線で帰っていった。
高校へ入って間もなく、テコンドー(※)の道場を見つけて通い始めた。
当時、埼玉では唯一の道場で、そこでめきめき頭角(とうかく)を現わし、一年を過ぎる頃にはもう師範代格になっていた。二年たつと、蹴り技のスピードが飛躍的にアップしてきた。
塾での組手は、柔道や空手で使う帯を締(し)め、タクジが調達(ちょうたつ)してくれた剣道の胴をつけてやっていた。
サンチェのスピードが自分を上回(うわまわ)り始めた頃から、今までと同じようにやっていたんじゃ相手が出来ないと思い、心法(しんぽう)を使ってみた。
相手を目で追うのを止(や)め、自分の体の内面に感覚を集中させて自然の動きに身を任せた。
座頭市状態になった自分にサンチェは最初戸惑ったようだが、メッキが剥(は)がれるのは時間の問題だった。
塾を閉じてからも一度、サンチェは拳法をやっているヨイチと二人で、稽古着を抱えて僕のアパートを訪ねて来た。
闇があたりを包み始めた頃、近くの公園で組手をやった。
この時は、サンチェに一方的に押しまくられてしまった。
その後お互いに忙しくなり、会う機会がなくなっていたのだが、二年経ったある日、大学生になった彼から便りが届いた。
それには、テコンドーの全国大会で優勝したと書いてあった。
「やったか!」
思わず口に出してしまったが、サンチェの実力からすると当然かもしれない。
数年後、大宮駅構内にある書店のスポーツコーナーで、立ち読みしながら一人盛り上がっている自分がいた。
手に持った月刊専門誌には、バンコクで開かれた世界大会で銅メダルを取ったサンチェが写(うつ)っていた。
※組手…お互いに突き蹴りの技を出し合う稽古。
※テコンドー…韓国の国技。空手に似ているが蹴り技が主体。
信心かがみ歌
『こんな歌があったのか!』
いつだったかお参り先で、お内仏に人知れず眠っていたという紙片(しへん)を見せてもらった。
その場で手に取って読み進めていくにつれ、次第に歌の持つ独自の世界に引き込まれていった。
僕の子供の頃は、いつどこにいても誰かしらのお念仏の声が耳に入ってきた。そんな昭和三十年代の空気に触れた気がした。
信心かがみ歌
一には 人と生まれてこの法(のり)に、宿(しゅく)善(ぜん)なければ逢(あ)い難(がた)し
※宿善…過去世に積んだ善根。今までに積んだ善い行い。
二には 不思議な御縁(ごえん)に手をひかれ、今こそ知識に値(あ)えぬらん
※知識…仏法の上で自分を導いてくれる師のこと。善知識。
三には 未来大事と思うなら、捨てておかれぬ一大事
※一大事…生死の問題を解決して浄土に往生するという人生の最重要課題。後生の一大事。
四には 世をば無常と知るならば、早く頼めよ御本願
※本願…浄土に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏を称えるものは、一人残ら
ず救いとるという誓い。第十八願。
五には 一味(いちみ)の信心(しんじん)得(う)る時は、赤子(あかご)になりて任すなり
六には 無始(むし)よりこのかた二親(ふたおや)の、釈迦と弥陀とに苦労かけ
七には 難(なん)なく信心受けとられ、今は安堵(あんど)の身とぞなる
八には 八重(やえ)に九重(ここのえ)佛(ぶつ)菩薩(ぼさつ)、誠(まこと)の信者を護(まも)り玉(たも)う
九には 此(こ)の世に居(い)ながら光明(こうみょう)の、中に住む身の嬉しさよ
十には 共(とも)に命の終わるまで、佛(ほとけ)の御恩を忘るるな
◎落ちる身を堕(おと)さぬ仏陀まことぞと、深く頼むを安心(あんじん)という
◎弥陀は来い釈迦は行(ゆ)けよの勅命(ちょくめい)を、随(したご)う分(ほか)に安心はなし
※勅命…天皇の命令。この場合絶対的な意味として使われている。
◎捨(す)てられて身は無(な)き者と思えしに、釈迦と弥陀との拾子(ひろえご)となる
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
第二部 医療日誌
激ツボ療法 1998春
アパートから徒歩一分のところに銭湯があり、毎晩のように通っていた。
男湯ののれんをくぐると、時々番台のお姉さんが、
「先生、肩凝(かたこ)った。」
と訴えてくることがある。
「じゃ、こっち来て。」
と言って丸椅子に掛けてもらい、施術を始めるのが恒例になっていた。
「痛タタ、イタター!」
と悲鳴を上げているうちに、三~四分で、
「おしまい。」
となる。
番台へ戻った彼女は、
「ハイッどうぞ。」
と、オロナミンCを一本差し出すというのがいつものパターンだった。
本音をいうと、入浴料の方(ほう)をまけてもらいたかったのだが…。
ある日、番台のお姉さんが言った。
「この治療は何という名前なんですか?」
「そういえば、名前が付(つ)いてないなあ。何かいい名前はないかな。」
「激ツボ療法というのはどうですか?」
「それは、まさにピッタリだね。」
笹塚(ささづか)の実費の治療院時代にたまたま出遇(であ)ったのが、この療法の創始者だった。
整形外科を辞めた頃、学生時代に通っていた中野区野方(のがた)の大衆食堂へおよそ十三年ぶりに顔を出した。
そこの親父さんと、息子さん夫婦はすぐに僕だとわかってくれた。
柔道整復師の資格を取ったことを話すと、僕より少し年上の息子さんが、
「じゃあ、河村(かわむら)先生の所へ習いに行ったら?」
と思いがけないことを言った。
知り合いに治療の名人がいて、時々腰痛などのお客さんを紹介しているのだという。
いろんな治療法に興味のある時期だったので、住所を聞いて早速訪ねてみることにした。
西武新宿線野方駅から四つ先の井(い)荻(おぎ)駅を下りて、少し歩いたマンションの二階に治療院はあった。
七十代と思われる、口数が少なく一徹(いってつ)そうな半袖姿の男性が、木製の頑丈(がんじょう)そうなベッドを前にして治療にあたっていた。
待合室になっている玄関入り口の部屋では、明るくてきぱきした奥さんが、待っている患者さんを相手にしていた。
保険が効(き)かず一人約十五分で治療費五千円なのだが、患者さんは次から次と途切れることがなかった。
治ってからも体のケアで二十年以上続けて来ているという人が結構(けっこう)いて、この治療が間違っていないことを証明していた。
終了後、教わりたい旨(むね)お願いすると、
「いいよ。」
とあっさり言われた。
帰りに野方駅で下車して、紹介してくれた『せきざわ食堂』へ報告がてら立ち寄った。
「あの先生がよく承知してくれたね。」
勧(すす)めた本人が驚いていた。
ともかく土曜の午前が空(あ)いていたので通うことにした。
[つづく]
[次号 2022年1月8日]