真宗大谷派 浄円寺
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浄円寺コラム<43> 2021,11,27重共聡
東北新社からの誘い
国会答弁に繰り返し出て来て、今年の流行語になりそうな勢いの『東北新社』。
結局、流行語大賞にはノミネートされなかったが、マスコミを賑(にぎ)わせているこの社名を聞いたとき思った。
「東北新社って衛星放送もやってるの?」
そんな東北新社からコンタクトがあったのは、今から二十年数前のある晩のことだった。
その日、仕事から戻り一風呂浴びてくつろいでいるところへ、電話の呼出音が鳴った。
電話の主(ぬし)は東北新社と名乗り、太極拳のビデオに出演してもらえないかという用件だった。
当時、東北新社といえば、自分たち武術愛好家の間では日本や中国武術の名人達人のビデオ出版をしている会社として有名で、自分自身もその社発行のビデオを持っていた。一巻一万円前後出すのはもったいないので、友人のをコピーさせてもらったのだが。
「先生は今、台湾に戻っていて不在なんですが。」
と言うと、僕に出てもらいたいとのことだった。
一瞬心が動いたが、こういう場合師の邱(きゅう)老師だったらどうするかを考え、丁重にお断りして受話器を置いた。
動画の撮影に関しては、師匠の師である劉(りゅう)老師は自分の動画を録(と)らせたことは一切なく、その弟子の邱老師も同様だったのだ。
そんな老師の存在があるためか、僕自身も何度か、
「ビデオを録(と)らせていただけませんか?」
と言われたことがあったが、その都度(つど)断ってきた。
今回の話は今までとはちょっと訳(わけ)が違っていたが、うっかり引き受けて後から恥をかかなくてよかったなと思った。
ユニクロからの依頼
太極拳をやっていると、意外なところから思わぬ話が舞い込んでくる。
こんなこともあった。
ある夜、僕のアパートに一本の電話がかかってきた。
ユニクロからだった。ユニクロは今でこそ誰もが知っている衣料品ブランドだが、その頃はまだ名前が出始めたばかりだった。
「うちの製品を着て女の子が太極拳をやっているコマーシャル(CM)を流したいのですが、おたくで誰か出演してもらえませんか?」
という依頼だった。
月刊の中国武術専門誌『武術(ウーシュウ)』に出している教室案内をみて電話したのだという。
会の宣伝になるチャンスだと思ったが、うちに来ているのは四十代の女性しかいない。
彼女は美人だし人柄もいいので勧(すす)めようかなという思いも一瞬よぎったが、女の子という条件にはどう考えても無理がある。
それで、以前僕と同じ協会にいた全日本クラスの選手達が立ち上げた団体を紹介して、受話器を置いた。
数カ月してそのことを忘れかけた頃、テレビで素人の女の子が裾(すそ)の短いユニクロの上下を身につけて太極拳をやっていた。どうみても上手(じょうず)だとは言えない表(ひょう)演(えん)を見ながら、
「女の子が見つかってよかったな。」
と、電話を受けた時のことを思い出していた。
今日が尊(とうと)い 原稿⑪
尊い「いのち」です。
素晴らしい本日です。
何がなくても、今日のいのちが尊い。
地位でも、お金でも買えない「今日のいのち」が尊い。
いただいた「いのち」です。いただいた「今日」です。
今日を生きることの出来なかった人達のことを思う。
こんな尊い、かけがえのない今日の一日を、自分も嬉(うれ)しく人にも嬉しい。そんなお役に立って私は生きたい。
家族にも、友にも、世間にも、あたたかい愛情をもって私は生きたい。
今日のおかげさまに乾杯!
幸せがいっぱい 原稿⑫
もったいない。もったいない。今日の「いのち」がもったいない。
何ものにも替(か)えられない、今日の「いのち」がもったいない。
生きていることは素晴らしいことです。
立てて、歩けて、見えて、聞こえて。
太陽がいっぱい。
空気がいっぱい。
御恩がいっぱい。
幸せがいっぱい。
私の人生ありがとう 原稿⑬
私の人生ありがとう。
この世に生まれてきたこと。
この世を生きてきたこと。
仏との出遇い。
よき師との出遇い。
悲しかったこと。嬉しかったこと。苦しかったこと。楽しかったこと。
さまざまな出遇いに導かれて、いま念仏を喜ぶ身とさせていただきました。
この私の人生ほど尊く有難い一生はありませんでした。父、母との出遇い、妻や子や孫との出遇いでした。
お釈迦さまは涅槃(ねはん)に入られる前に、十方に向かって合掌礼拝(らいはい)し、
「わが人生、有難きかな、尊きかな。」
と申されました。
私も今、合掌礼拝して心から申し上げましょう。
「私の人生ありがとう。」
と。
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
第二部 医療日誌
山谷(さんや)ブルース(その2) 1999冬
結局、一年近くそこ、つまり千束接骨院で勤務することになる。
笹井先生は、僕を一目見るなり坊主頭にかなりの違和感(いわかん)を覚えたようだ。会話すると印象が変わるのだが、黙っていると初対面の患者さんにとってはかなり威圧感(いあつかん)を覚えるんじゃないかと心配になったそうだ。
そこで一計(いっけい)を案(あん)じて、スタッフからこう紹介してもらうことになった。
「お坊さん先生。」
これが功(こう)を奏(そう)したのか、笹井先生の心配は杞憂(きゆう)(※)に終わった。
雇(やと)われ院長の二十代の鍼灸マッサージ師、柔整師の自分、あと二、三十代のスタッフ一、二人という構成で、いい緊張感を持ってやれたと思う。
患者さんたちは下町らしい人情味があり、自分には意外と合ったようだ。
主なところでは、江戸っ子らしいべらんめえ口調の熊手(くまで)職人松下さん、花魁(おいらん)道中で有名な松葉屋(まつばや)の女将(おかみ)さんが見えていた。
松下さんは、鳳(おおとり)神社の酉(とり)の市(いち)の顔的な存在で、テレビにも出演していた。
松葉屋の女将さんは、いつも和服に日本髪姿だった。
静かに座っているのだが、それだけで独特の雰囲気が漂(ただよ)っていた。ある時、こんな本を出したのよと言って『吉原(よしわら)はこんな所でございました』というタイトルの本をもらった。そして、いろんな有名政治家との面識(めんしき)があることを淡々と話されてびっくりした。
ある日、午前九時の開始早々二十代の女の子の二人連れが来院した。
問診すると具合の悪いところが多く、マッサージで軽く触れただけで痛がっていた。
彼女らが帰った後で、二十代の院長が言った。
「彼女らは吉原のコで夜勤(やきん)明(あ)けですよ。」
「えっ、そうなの?」
吉原があることは耳にしていたが、新しい職場に慣れることに頭がいっぱいで、周囲に何があるのか見て回るゆとりがなかったのだ。
ようやくスタッフにも患者さんにも馴染(なじ)んできた頃、昼休みを利用して周囲を散策することにした。
接骨院を出て通り二つ目に差しかかったところで横を振り向いてアッと思った。そこには別世界が広がっていた。
うわさに聞く吉原(よしわら)(※)だったのだ。
「こんな近くにあったのか!」
すぐそばに勤めていたのに、まったく気がつかなかった。
朝晩利用している東京メトロ日比谷線の三ノ輪の駅前に、タキシード姿の男性が立って客待ちをしていたり、黒塗りの高級車が停まっている訳(わけ)がよく解った。
思いがけず樋口一葉記念館が近くにあり、昼休みに一葉の世界に浸(ひた)りに行くこともあった。
患者さんの中に、毎日のように通ってくる高齢の夫婦がいた。米寿(べいじゅ)の奥さんがが九十代の御主人の手を引いてみえていた。
僕達スタッフは敬意(けいい)を込(こ)めて、
「おじいちゃん。おばあちゃん。」
と呼んでいた。
僕が千束接骨院を辞めて新宿の本院に移る時に、
「これ主人に買ったものなんだけど、殆んど使ってないので。」
と言って夏用のパジャマをいただいた。
さすが三越(みつこし)の製品だけあって、関東の過酷な夏はこの極(ごく)薄手(うすで)のパジャマが一番合った。あれから二十年経つが、今でも真夏になるとこのパジャマのお世話になっている。
※杞憂…取り越し苦労。
※吉原…日本有数の歓楽街。江戸時代に幕府公認の『吉原遊郭』として誕生したのが始まり。
松葉屋の女将さんと
(つづく)
[次号 12月11日]
