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    浄円寺コラム<42>    2021,11,13重共聡        

小さな失敗談<その2>

男子禁制

40代の頃だった。

その頃の僕は、休日になると新宿へ繰(く)り出すのが習慣になっていた。

その日も家路(いえじ)につくのが遅くなってしまった。新宿駅では終電の一つ前の埼京線が待っていた。

埼京線は後ろへいくほど空(す)いているので、その時もホームの端(はし)まで歩いて最後(さいこう)尾(び)の車両に乗り込んだ。

休日のためシートは満席で、立っている人もかなりいた。僕は赤羽までの15分間、ドアの近くに立つことにした。

周りは女の子ばかりだった。

「今日はちょっとついてるな。」

という思いを乗せて、電車は新宿駅を出発した。

 

そのうち、何かがおかしいことに気がついた。

 改(あらた)めて周りを見(み)回(まわ)してみた。

やはりそうだった。

自分以外は全員女性なのだ。

「もしや?!」

と思い始めた矢先(やさき)、車内アナウンスが流れた。

「最後尾の車両は女性専用車でございます。」

 

その音声(おんせい)に、サッと血の気が引いていった。

「変質者(へんしつしゃ)に思われていないかな…」

シーンとした電車内に気まずい空気が流れていた。

 5分ほどで池袋駅に着くとすぐにホームへ下りて、駆(か)け足で隣の車両に移動した。

この車内にはいつもの見慣れた光景があった。

息を整えながら、安堵感(あんどかん)に浸っていた。

 

埼京線に女性専用車が導入されて一週間ほど経った頃の出来事だった。

 

 

続『貸与物件』2021夏

コラム<4>で紹介した『貸与物件』の後半に、こんな言葉があった。

「私は誰かと溶け合って、誰かの一部になるか、誰かが私に溶け込んで、私の一部になるのでしょう。」

 ここのところを分かりやすく説明した文に出遇った。

 それは、読売新聞の人生案内に載(の)っていた。

 

【Q】50代男性会社員。

   2年前に膝の手術を受けたのですが、1年ほどで元に戻ってしまい、今は階段の上り下りも出来ません。不整脈の発作で救急搬送(はんそう)されたこともあり、健康不安で毎日が憂鬱(ゆううつ)です。

人生もすでに折り返し点を過ぎ、年々不自由さを増していく体に絶望感と死の恐怖を感じています。

限りある人生、もっと前向きに楽しんで生きたいと思っているのですが、心の持ち方をご指導ください。

 

【A】いしいしんじ(作家)

   死は誰の身にも人並(ひとなみ)にやってくる。

   それは生まれてきたことの当然の帰結(きけつ)だ。なのに、僕たちは死をおそれ、遠ざける。

   死には「たったひとり」というイメージがつきまとう。

「なんで俺だけ」、自分だけこの世から見放され、そして最後には一筋の煙となって霧散(むさん)するのか。

   死の始まりにある「生」を考えてみる。

   たった一人、自然発生的にこの世に湧(わ)いた人はいない。すべての生命が縁あって誰かから生まれてくる。

   何百何千何億年積み重なって来た縁の全体、その端(はし)の結び目として僕は、あなたは、五十数年前のある日に生まれた。

 

   死だけなぜ一人と思うのか?

  「生」の前がそうだったように、「死」の後にも百千億兆の全体と僕たちは、新たな形で結ばれ得るかもしれない。

   生きている間、「俺だけ」「たった一人」にこもらず、全体との触れあいを求め、縁をはぐくむ。

   心から挨拶をし、見知らぬ人に手を貸す。

   花を育て、猫を助ける。

   一連のことが、死を生を、より親しく身近なものにしてくれる。

   墓地に出かけ、友達や家族、目に見えない全体に思いをはせる。

   縁がつながれている限り、生者も死者も誰ひとり孤独ではない。

 

 

<連載企画>

医療・介護の世界に足を踏み入れて

第二部 医療日誌

 山谷(さんや)ブルース 1999冬

 二十代半(なか)ばのフォークに凝(こ)っていた頃。富山県民会館にフォークの神様岡林(おかばやし)信(のぶ)康(やす)が来るというので、コンサートを聞きに行った。

 キャバレーハワイの青いハッピを来た本人が代表曲『山谷ブルース』を歌っているのを、客席からじっと耳を傾けていた。

「♪今日の~仕事はつらかった~ ♪あとは~焼酎(しょうちゅう)をあおるだけ~」

 まさか、四十代に入って自分が山谷の近くで働くことになろうとは、その時は知る由(よし)もなかった。

 

 リラグゼーション楽(らく)を辞(や)めて次はどうしようか考えている時、整形時代に代診(だいしん)で来ていたドクターから会いたいとの連絡が入った。

 彼とは千葉県流山(ながれやま)市の整形にいた一時期、診察室で一緒に仕事をしたことがある。

意外に波長が合い、その後お互いに職場を変わってからも二度ほど新宿へ繰り出して

杯(さかずき)を交(か)わしていた。

 連絡を受けた数日後、東京郊外の中央線駅近くの飲み屋で久しぶりに再会した。

 腰を下ろすと、彼は早速(さっそく)何かの図面を取り出して僕の目の前に広げてみせた。

 故郷の愛媛へ戻って整形外科を開業するため、今新築中だという。

「どうや、うちへ来て一緒にやらないか?」

と誘われた。

 とても魅力のある話で心が動いたが、開業の場所が愛媛県というのが引っかかった。

 富山の実家の両親はまだ元気にやっているが、これからのことを考えると四国はちょっと遠すぎる。

 長男じゃなく次男だったらなあと、その時ほど思ったことはなかった。

もったいなかったが、やむなく断った。

 

 その後しばらくして、太極拳の師である邱先生が思いがけない話を持ってきた。

「私の二十年来の友人が、最近接骨院を開業してスタッフを募集しているのだけれど、会うだけ会ってみない?断っても全然問題ないから。」

 そう言われて、ほんの軽い気持ちで会ってみることにした。

 

 待合せ場所に立っていると、背が高く目付きの鋭い、僕より年上の男性が車で現れた。

 それが、次の職場の上司となる笹井(ささい)先生だった。

接骨院をやる前は、台湾からの留学生を日本の専門学校に紹介する仕事をしていて、その関係で邱先生と知り合ったのだという。

まず台東区千束(せんぞく)でやっている接骨院へ案内してもらい、見学した後(のち)近くの喫茶店で詳(くわ)しい話を聞いた。台湾人の若い奥さんが隣りに座っていた。

 近々新宿でも開業する予定で、僕には千束の方でやってもらいたいとのことだった。

 その場で勤務することを決めた。

 日が経つにつれそろそろ決めなければと焦(あせ)ってきたのと、整形外科、実費の治療院ときて、後はやはり自分の資格である接骨院の仕事を経験しておくのが順当なところだという思いが後押(あとお)ししたのだろう。

 

 喫茶店を出たところで別れて一人になった。そのあと予定がなかったので、これから通うことになるこの地域の周辺を歩いてみることにした。

 少し歩くと山谷(さんや)地区と書かれた案内板が目に飛び込んできた。

「ここがあの山谷か…」

そう思いながら商店街の通りを歩いた。まだ明るいのにシャッターの下りている建物が目立ち、その前にホームレスの人たちが陣取っている光景が否応(いやおう)なく目に入ってきた。

「これは、えらい(大変な)所に来てしまったな。」

今まで感じたことのない重い雰囲気の中を歩を進めながら、だんだん気持ちが沈んでいくのが解った。

仕事を決めたばかりなのに、もう断る理由を考え始めていた。

                                  (つづく)

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