真宗大谷派 浄円寺
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浄円寺コラム<37> 2021,9.4重共聡
東京パラリンピック 2021夏
オリンピックからパラリンピックへテレビ観戦が移ると、見る側の受け取り方がどこか違ってきた気がする。
やがて、その違いがはっきりしてきた。
オリンピックで応援している選手がメダルを取ると元気がもらえた。それに対して、パラリンピックでは選手が懸命に闘っている姿を見て勇気をもらっている。
視覚障害や脳性麻痺、手足の欠損(けっそん)した選手たちが溌剌(はつらつ)と競い合い、堂々とインタビューに応じる姿をテレビで見ていると、彼らにとってスポーツは健康な人間以上に、重要な位置を占めているなと思う。
自己紹介でパラ選手たちが、視力や手足を失った経緯を淡々(たんたん)と話しているのを見るにつけ、取るに足らないことで悩んでいる自分がいかに小さいかを思い知らされている。
『のぞみはないけど、ひかりはあります。』
これは、ある人が急用で大阪へ行く際、東京駅の新幹線窓口で駅員さんに言われた言葉だが、世界中から集まったパラリンピアンたちに当てはまると思う。
この言葉を言いかえると、
『体が元に戻るのぞみはないけれど、別に生きがいを見つけて人生を光(ひか)り輝(かがや)かせることはできます。』
となるのではないだろうか。
オリンピックはとことん勝ち負けにこだわって見ていたが、パラリンピックは見ているこちらを前向きにさせてくれるパワーがあるなと思った。
究極のプラス思考 2021夏
東京で税理士事務所をやっている学生時代の友人に久しぶりに手紙を書いたところ、
折り返し返信が届きました。
同封したコラムの感想でした。コラム<32>にある原稿②をさらに掘りさげて味わえたので、紹介させていただこうと思います。
『今日これだけをいただく』に心を打たれて書いてみました。
良い言葉です。短いけれど万感がこもっていますね。
考えてみれば、次の言葉センテンスなどは全ていただくに通じるものがあります。
ありがとうございました、お陰様で、ご馳走様でした、お疲れ様(ご苦労様)でした。
さて当方は、2019年4月に12時間に及ぶ手術により、胆嚢及び胆管、十二指腸を全摘、すい臓の半分を除去しました。2週間後に退院し、その翌日にゴルフ練習場で打ちっぱなしをやり、仕事にも復帰しました。
定期的に検査のため通院していますが、主治医曰く、
『病気も個人的なキャラクターに影響するのかな。』
『患者によっては自分で悪いところを見つけてくる人がいる。ところが、あなたは病気の話でなく、犬とゴルフとお酒の話だけだから、治ったとはまだ言えませんが、ほぼ健康状態にありますね。』
とのことです。
重共さんの手紙にあった『これだけをいただく』と僕の癌の話を横に二つ眺めてみれば、病気もいただいたものだし、そうなると生きるのも死ぬのも全ていただきものだもんね~。あら不思議、お陰様ですっかり元気になるものです。
逆だったと仮定すれば、元気なく死んでいったのでしょうね。
してみると、やはり病気になったとしても、いただく気持ちがなかったならば次のようになるのか
な?
『なんで自分は癌なんかになったのか?』
『誰のせいなのか?』
『親のせいか?』
『女房のせいか?』
『自分のせいか?』
誰に頼まれて生まれてきたのかも知らず、誰のせいで死んでゆくのかもわからずに、人間とは本当に身勝手きわまるものです。
でも、『今日はこれだけをいただく』ということを理解すれば、
産んでいただいて、食べるものがそこにあり、なくても飢え死にすることは今の日本ではないし、病気になれば専門の先生方が一所懸命に治してくださるし、いいことずくめの国ではありませんか。
本当にありがたや、ありがたや!という気持ちになってくるよね。
ほぼすべてのことは、これで解決ですね。
人間、生まれてきたときは全員素っ裸、何も持たずにきました。そして、死ぬときにも、やはり素っ裸で何も持たずにあっちの方に旅立ちます。最後はこの肉体までも骨ばかりを残して。
ここがとても重大事です。生死(しょうじ)の間は何も無し。生の前も何も無し。死の後も何も無し。全部無し。無の世界であった。
今日持っている財産が、明日は煙のように消えてしまうことがあるかと思えば、徒手空拳の人であっても、一夜にして億万長者になることもある。しかし、それらも最後にはすべて無に帰してしまう。
人間の心とは実に複雑怪奇ではあるが、(その性質を)理解しさえすれば、全ての事柄が楽しめるのが心のはたらきですね。
心を鍛えるのは簡単だし、一円も費用がかかりません。
へたに勉強や運動をやるよりも『今日はこれだけをいただく』。このことさえ身につければいいのだもの。
(以下略)
以上が四十年来の友人、佐藤久昭さんからの返信です。
僕が三十代の頃から、考え方教室に行ったり護国寺の天風会館に通ったりしたけれど、結局ものに出来なかったプラス思考の体現者が、こんな身近にいたことに驚きました。
そして文中の『生死の間に何もなし』のことば、これは真宗にも通じるものがあると思いました。
元大谷大学学長の小川一乗(いちじょう)という先生がある人からこんな質問を受けたことがあります。
「死んだら終わりで、無(む)になるのですか?」
それに対して小川先生は答えました。
「死んだら無になるのではなく、ただ今が無なんだよ。今あなたはないんだよ。たくさんのご縁があなたとなってくださっているだけなのです。」
続けて、
「『私』という独立した存在はなく、様々なご縁が私を私たらしめてくださっているのです。『私』が先に存在しているのではなく、夜空に瞬(またた)く星の数ほどもある無量無数の因縁(いんねん)によって『私』が成り立っている。
それらの因縁を取り除いたら、『私』という確かな存在は塵(ちり)垢(あか)ほどもないのです。」
そう言われました。
考え方教室(2)
五百歳会心得 小柴隆(たか)弘(ひろ)
古今東西を問わず、人間は誰しもより若く、より長く生きようとするものである。不老長寿の薬を探し求めた秦の始皇帝より現代の我々に至るまで、何とか長生きしようと種々の物質や薬草を求めてどれだけ多くの労力や金銭が使われてきたことか。
が、『心』の科学的研究でこれをやろうと試みたものは誰もいなかった。
では、『心』とは何か。そして『心』が不老長寿とどのように結びつくのか述べてみよう。
人間の身体には細胞が約30兆個から50兆個ある。
この一つひとつの細胞の生きるエネルギー(力)が『心』の実体である。脳細胞はこれらの細胞をコントロールしている。
哲学者デカルトは「考えるが故(ゆえ)に我がある」と言ったが、脳で考えたことが、およそ30兆から50兆個ある身体の細胞を統御(とうぎょ)している。逆にいえば、身体は思考(考え方)によって統御されているのである。
この考え方の法則をつかみ取ることが不老長寿の秘訣なのである。
私は考え方教室において『500歳会』を主催し、若さと長寿を保つ訓練を指導している。
その日常の考え方と訓練方法を紹介したい。
日常の考え方の訓練内容
1 年令を忘れる。
2 常にプラスの考え方を持ち、プラスの解釈をする。
3 いかなる時も希望を持つ。
4 いかなる病気、なやみも、分、秒をあらそって治す。(※)
5 思い立ったら即座に行動を起こす訓練をする。
6 マイナスの過去は絶対に忘れる。
7 現象にとらわれないこと。
8 社会生活や周囲に迷惑をかけない範囲で、できるだけ自然の生活をする。
9 やれただけで、常に満足感をもつ。
10 『気にならない』『のん気だ』の暗示を常に入れること。
※両足を踏みしめ、両拳を握り締めて「治った、治った、治った!」と3回連呼する。いかに「治った」と思い込むかがポイント。「治る」じゃなく、すでに「治った」と思い込むところがミソ。
小柴先生 (つづく)[次号9月18日]
