真宗大谷派 浄円寺
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宅配プチ説法浄円寺コラム<6> 2020,6,27 重共聡
映画『キネマの天地』 2020春
「ここの所、ここのところが真宗と全く同じや。」
と思った。
今年のGWは新型コロナによる緊急事態宣言で、日本中がステイホームを強いられた。
そこで、僕はDVDで映画鑑賞することにした。
まず高倉健の『駅』。
これは自分の好きな邦画ランキングではベスト5に入っている。居酒屋での健さんと倍賞千恵子のやり取りが絶妙で、いいタイミングでブラウン管(TV)から八代亜紀の舟歌が流れてくるところがたまらない。
次に観たのが山田洋次監督の『幸福の黄色いハンカチ』。
誰もが知る名画で、健さんが畳の上で、武田鉄矢扮(ふん)する同郷の若者相手に九州弁で説教するシーンが、忘れかけていた昭和の親父を彷彿(ほうふつ)させてスカッとした。
最後に観たのが、監督山田洋次、主演有森也実(ありもりなりみ)の映画『キネマの天地』だ。
そのワンシーンを観ていた時だった。
舞台は昭和初期、松竹蒲田撮影所。社の浮沈をかけた『浮草』という映画の主役に抜擢(ばってき)された新人女優で有森也実演じる小春(こはる)が、駆け落ちしようと持ちかける恋人を思い止(とど)まらせるクライマックスのシーンだ。
なかなか思うような演技が出来ない小春に、すまけい演じる監督が、
「何や今の演技は。それじゃまるで恋人を嫌(きろ)とるみたいやないか。この芝居で大事なのは、どれほど相手に惚(ほ)れとるか、その切なさを出すことなんえ。」
と言った。
そこで思わず小春が、
「はい、わかってます。」
と返すと、監督は間髪入れず、
「わかっとんのやったら、何できちんとやらんのや!
芝居が出来んのは、お前が分かってへん証拠やないか!
頭で解るんと、体でわかるんとは別なことや!
生意気な口利(き)くな!」
と怒鳴り返した。
監督のこの言葉、これこそ聞法(もんぼう;教えを聞くこと)の核心を突いているなと思った。
プチ説法
どんな心で念仏を称えるのか 2020春
「ピーンポーン…」
優しそうな人が見えたな。
最近、玄関チャイムの音で、来た人の性格が分かるようになってきた。
控えめな「ピーンポーン…」、標準的な「ピーンポーン!」、無機質(事務的)な「ピーンポーン」これはクロネコに多い。気の短そうな連打「ピンポンピンポンピンポン!」。
その日は、控えめなピーンポーンで、出てみると隣り地区のTさん(七十代女性)だった。
先日差し上げた拙著のお礼にと、見事なカサブランカを持ってみえた。就寝前に本を開いていたとのことで、
「変わらんなん(変わらないといけない)のかと思っていたら、『怒っている時は怒っている心のままに念仏を称えてください。』と書いてあるのを読んだ時、ストーンと楽になって、いつもは、夜中に一回起きるのだけど、(熟睡して)朝5時まで目が醒(さ)めなかった。」
と言われた。
それは、僕が十九年前に出遇って以来教えを聞いている、櫟暁(いちいさとる)先生の言葉だった。
櫟先生は、大正十二年生まれの九十七才。現在は自坊(自分のお寺)のある鹿児島県の施設に入っておられる。そこへ、雛(ひな)鳥が親鳥に会いに行くように、今でも東京から櫟先生のもとへはるばる訪ねていく教え子たちがいる。
最近かなり記憶力が落ちて来たようだが、
「私が忘れても、仏様が忘れずにお念仏を称えさせて下さいます。」
と、明るい精神生活を送っておられる。
櫟先生の言葉。
「南無阿弥陀仏という言葉の用(はた)らきを最後のより所として生きる。この最後とは死ぬ直前ということではありません。
これは、究極のより所として生きるということです。
南無阿弥陀仏は本願の名号です。私たちの、普通の常識上の言葉じゃありません。
これは不思議なお言葉であり、誰がいつ頃、南無阿弥陀仏という言葉を作ったというものじゃないのです。
その南無阿弥陀仏の不思議な深い意味を知識的に理解するのじゃなくて、体で受けとめるのです。
それは、まず南無阿弥陀仏を称えることから始まります。
念仏を称えるとは、単に発音するのじゃない。
いつも妄念妄想を相手にしている私が、南無阿弥陀仏という言葉によって、私はまた欲の心に振り回されていました。また私は怖れの心にふりまわされていましたと、はっきり分かる自覚的生活を、如来のお力でさせていただく。いつも心身の底からこのことがうなずける。
そういう精神生活には必ず闇が破れるという具体的事実があります。」
ある時、こんな質問をしてみた。
「真宗を学んでいるのに、相変わらず仕事上の人間関係などで悩んだり、腹が立ったりすると、教えのことなどどこかへ吹っ飛んでしまい、そういう心に振り回されてしまうのですが、どうすればいいですか?」
すると即座に、
「怒っている時は、怒っている心のままに、悲しい時は悲しいままに、念仏を称えてください。どんなこころの時でも念仏してください。」
「有難いと思って念仏するもよし、乱れたこころで念仏するもよし。
よい心を起さないと助からないとか、悪い心で念仏してもダメだとかいうのは、自分のたてた善悪にとらわれているからです。」
そう言われた。
拙著『人生は出遇い』より
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
第一部 大東医専物語
大先輩
六月の研修旅行の宴会で、担任の藤平(ふじひら)先生が杯(さかずき)をあけながら言った。
「増淵(ますぶち)副校長は、重共君の大学の先輩なんだよ。」
「えっ!」
その時、脳裏をよぎったのは面接試験の光景と、
「変わりもんだねー。」
という声だった。
その面接官が増淵先生だったのだ。
さっそく銚子(ちょうし)を片手に確かめに行くと、先生の方も、
「まさか同じ大学の、学科まで同じ卒業生が入って来るとは思わなかった。」
と驚いたそうだ。大学とは、夏目漱石の『坊ちゃん』の出身校だ。
話が面接のところに及び、
「あの時は、落としてやろうかと思ったよ。」
と言われた時は、さすがに冗談ともとれなかった
でも先輩とは有り難いもので、具体的に何がというわけじゃないんだが、教員室にでんと構えておられるだけで、三年の間とても心強かった。
教室風景
一年一学期の間、授業中の教室内はザワザワしていた。
無駄話の発生源は数カ所あり、クラス委員長の弦弓さんや吉満さんは、
「あれでよく柔道やっているな!」
と内心イライラしていたようだ。それも厳しい先生の時は猫をかぶったようになり、何も言わない先生の時は堂々と私語を始めるのだから手に負えない。
二学期初めのことだ。
物理学の岩崎先生が、その日お母さんが亡くなられたのにもかかわらず、授業に出て来られた。
いつもと特に変わった様子はなかったが、見ているととても痛々しく感じられた。そして、その日も相変わらずあちこちで私語が絶えなかった。
『静かにしろ!お前ら、先生がどんな気持ちで授業をしておられるのか、わからないのか。』
という文句を頭の中で準備し、何度言おうとしたか知れないが、結局口にする勇気が出ず、そんな自分がつくづくイヤになってしまった。
授業終了後、教卓まで行き、
「大変な時なのに、どうも有難うございました。」
と言うと先生は、
「行っても間に合わないから。」
と言われたが、その教育熱心さには頭が下がった。
「休んでも誰も文句言わないのに。」
と言った誰かの言葉が、むなしく耳にこびりついた。
初代若乃花が最愛の長男を火傷で亡くした時、悲しみに耐えながら数珠(じゅず)をさげて場所入りし、土俵に上がった話は有名だが、思いがけずよく似た場面に遭遇した。こういうことはもう一生ないかもしれない。
それにしても、クラスは相変わらずザワザワしていた。そしてついに解剖学の授業で大学教授の北川先生が、
「今日は、もうやる気しません!」
と言って、授業の最中に教室を出て行かれた。
さすがに、それまで静観していたクラス委員長の弦弓さんも、中野さん(合気道師範)、千葉さん(元応援団長)、戸田さん(元K県警柔道師範)、吉満さん(元拓大柔道部)らと話し合い、各自の周辺のエリアを分担して静かにさせようということに決めた。そばで聞いていた僕も、
「協力しますよ。」
と言って加わった。
そして、解剖学の坂田先生の授業の時だった。
大学を定年退官された七十才位の坂田先生は、北川先生の恩師にあたり、少年のような純真な目をした方で、温厚な人柄はちょっと接しただけでも伝わってくる。
その日も始業前からザワザワしていて、それがあいさつの後も続いた。
発生源が自分の近くだったので、弦弓さんに約束していたこともあり、何とかしなければと少し焦っていた。
そして開始十五分位した時、ついにたまらず左斜め後ろのA君の方を振り向いた。すると、彼はすぐに気がついて話すのを止(や)め、軽く頭を下げた。
そこでやめておけばよかったのだが、A君だけじゃ不公平だと思った途端、授業中だということも忘れて立ち上がり、まだざわついている後ろを振り向いて怒鳴った。
「静かにしてくれよ!」
これはあらかじめ考えてとった行動ではなかったので、自分でも内心驚いた。
サーッと波が引くように教室全体が静かになった。みんな、鳩が豆鉄砲食らったような顔をしている。
我に返って腰を下ろした自分の胸に、
『言わなければよかった。』
と、猛烈な後悔が襲ってきた。
『みんな本当はいい奴なんだ。もっと別の言い方があったんじゃないか。』
後味の悪さだけが残った。そして、
『またうるさくなっても何も言うまい。』
と心に誓った。
その日はそれから終業まで静かだった。帰り支度をしながらみんなの視線が気になった。が、玄関口で元拓大柔道部の吉満さんが、
「よく言ってくれた。あれでスーッとしたよ。」
と声をかけてくれたので少しは気が楽になった。その頃一緒に帰っていた小林(友)君は、
「重(しげ)さん、気合が入っていましたね。」
と、車の中で彼らしい感想を述べていた。
翌日からだいぶ私語が収まったようにみえたが、まだ少し残っていた。
五日ほどした頃だろうか、授業中、また後ろのあたりがザワつき始めた。僕はもう何も言わないことに決めていたので、これもしかたがないと諦(あきら)めていた。
すると発生源の近くで、
「うるさいな。」
という声がして、その途端、静寂があたりを覆(おお)った。
それは中野さんの口から出たもので、つぶやいているようだが、さすが合気道七段の威圧感があった。
その日を境に三年の最後の授業まで、教室内はまるで図書館のような雰囲気が続いた。
(つづく)
[次号7月11日]