真宗大谷派 浄円寺
30
浄円寺コラム<30> 2021,5,29重共聡
祠堂経の朝 2021春
祠堂経当日の朝、布団でうつらうつらしている時、ある感覚が体内に湧き起った。
どういうことかと言うと、朝早く起きて仏(ぶっ)飯(ぱん)を供(そな)えたり、本堂の戸を開けたり、ストーブを出すかどうか判断したりなどのぎりぎりまで準備に追われる緊張感と、久しぶりに布教使の馬(ば)川(がわ)さんに会い近況を語り合う楽しみ、そして二日間じっくりと法話を聴聞(ちょうもん)して法悦(ほうえつ)に浸(ひた)れるワクワク感が入り混じった感情のことで、それが一種の活力(エネルギー)となって膝から足裏のツボ(湧(ゆう)泉(せん))にかけて溢(あふ)れてきて、全身に巡(めぐ)り始めたのだ。
年に一回、五月十八~十九日の二日間だけにしか味わえないこの感情、これは、理屈抜きに体にインプットされているんだなと思った。
毎年当たり前のようにやっていた祠堂経だが、昨年コロナで中止になったため、二年ぶりにこの感情が蘇(よみがえ)ってきて、それが一年の体内リズムとして組み込まれていることに気がついた。
ということは、お内仏のお給仕(きゅうじ)は一日の体内リズムの中にあるのかなと思った。
朝晩、お内仏の前で手を合わせて正信偈を読むことは、仏教を心と体に刷(す)り込んでいく作業になるんじゃないか…。
最近、月忌参り先でお年寄りの年季(ねんき)の入った念仏の声を聞くたび、自分などはとても
及ばないなあと思うようになっている。
今年の祠堂経は、直前まで南砺市のコロナ感染者数から目が離せなかったが、無事終了し、例年になくホッとしている。
しばらくはこの開放感が続きそうだ。
命をかけたドライブ
意味は解らないが、何かとても重要なことを言っているのだろうなと感じる文に出くわすことがある。目を通したその時からずっと心に引っかかっていた短い文がある。
今回はその内容を紹介したい。
ただし、無責任かもしれないが、求められても僕自身説明はできないことをあらかじめお断りしておく。
『蘇生(そせい)』 坂木(さかき)恵(え)定(じょう)
生きることは一筋道を生きることであって、二もなく三もない。 それがために、如何(いか)なることが起ろうと躊躇(ちゅうちょ)することはない。
それは今というものを充実するから。結果ばかり気遣(きづか)っていたら何も出来ない。
先日、婚約した二人が挙式間近になって、ドライブの途中崖下(がけした)に転落、二人とも即死した記事が出ていた。
人々は特別のことがあったように思うに違いないが、決して変わったことが起きたのではなく、この世に生まれてきた約束に従ったまでのことで、むしろ二人は命をかけてのドライブの今に生きていたので、その今という処(ところ)に視点があることを忘れて、
「しまったことをしでかした。」
という処にばかり視点を集中するところに、人々の生活の空虚(くうきょ)さ加減(かげん)がある。
これが重要な問題だと思う。
今の一歩に死がかかっているのだ。いや、死のかからない今の一歩は今に会っていない一歩であって、いつも脅(おびや)かされている現実でしかありえない。
たまたま訪れた人が、私に冗談半分に、
「御住持(おじゅつ)さん、地獄に行かんように説教たのみます。」
というところをみると、まんざら冗談でもなさそうだ。
この人は、やはり先のことが気がかりなのだと思って、
「地獄へ行かぬようにでなく、地獄へ行ける身にさせてもらうのだ。」
と言ってやったが、わかるはずがないらしい。
どんなことが起ろうと、その中を通ってゆけるということは、今に会うた生の息吹(いぶき)にみたされる。その今の生がすべてを償(つぐな)って余りあるほどの充実感をもっている。
『湿った菓子』より
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
第二部 医療日誌
マッサージの極意
新しい職場で一カ月が過ぎてマッサージにも慣れてきた頃、あることに気がついた。
リハビリ券をテーブルに置いて順番待ちしている患者さんの名前を呼ぶと時々、
「後(あと)でいいです。」
とか、
「今、電気かけています。」
と言う患者さんがいるのだ。
わき目もふらずやっていた一カ月目はまったく気づかなかったのだが、患者さんの顔をある程度覚え、少し周りを見回すゆとりが出来てみると、
「あっ、自分が拒否されているな。」
ということなんだと解ってきた。
患者さんは、
「あなたには、マッサージをしてもらいたくない。」
と、あからさまに言うかわりに、
「後にしてくださーい。」
と遠回(とおまわ)しに断ってくる。
それだけならまだいいが、肩のマッサージをした後、納得いかないように首を左右に振ったり、肩を上下する患者さんが目に付くようになった。
そんな様子に接しているうち、自分の手技(しゅぎ)に全く自信が持てなくなってしまった。
ところがある日、三~四人の患者さんにたて続けに、
「気持ちがいい。」
「肩が軽くなった。」
を連発させている人がいた。
それが四十代後半の石井という先生だった。
彼は開業歴十四年のベテランで、好き嫌いがはっきりしている曲がったことの嫌いな男だ。
それで、話を聞いてみることにした。
「肩からいごかせ(動かせ)。」
と言う。
「手と肘の力を完全に抜き、肩の力も抜いて肩から動かさないといけない。」
というのが石井先生の持論(じろん)だった。
「このやり方をやっていて絶対に間違いはない。」
話を聞き、彼の手技(しゅぎ)を見ていてハッとした。
僕が趣味でやっている太極拳と同じじゃないか。
太極拳でいう勁(けい)は手、肘、肩の力を完全に抜かないと伝わらない。腕に力が入った場合と、完全に抜けている場合とでは伝わる感じが全然違うのだ。
その共通点に気がついてからは、石井先生のマッサージをじっくりと観察してそれを徹底的に真似(まね)ることにした。わからないところは質問すると快(こころよ)く教えてくれた。
彼の師匠はとても厳しい人で、ちょっとでも腕に力が入っていると棒で叩かれたという。
僕も必死だった。暇さえあれば自分の腕や足を実験台にして練習した。電車に乗っている時や、なじみの新竹飯店(中華の店)でチンジャオロース丼を待っている時も手を動かしていた。
二カ月位してカックンカックンと手首の折れる感じがした時、
『これかな。』
と思った。
その日以来、僕のマッサージが少しずつ変わっていったようだ。
仕事中、チラッチラッとこちらを見ていた石井先生も、
「つかみましたね。もう何も言うことはない。あとは、いろんな人を相手に自分で研究してやってください。」
と言ってくれた。
マッサージのあと首をかしげる患者さんも、いつの間にか出なくなっているのに気がついた。
でも、自分にとってはそこが本当の入口だった。
(つづく)
[次号 6月12日]