真宗大谷派 浄円寺
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浄円寺コラム<27> 2021,4,17重共聡
<一周年企画>
考え方教室 1991冬
「ワシの言っとる事わかっとるの、あんただけや。」
講義の途中で、最前列に座っている僕の目の前まで来たスキンヘッドの老人が不意(ふい)に言った。
考え方教室基本訓練講習会と銘打(めいう)った集まりが、墨田区にあるビルの一室で土・日の二日間にわたって行われた。
その頃、何かを求めているのだが、それが何だか解らなくて行き詰まっていた自分は、解決の糸口がつかめるかもしれないと、ひそかな期待を持って参加者四十数名の中に混じっていた。
中学で同級だったノーベル賞の湯川秀樹博士と意気投合(いきとうごう)し江崎玲於奈(れおな)博士とも物理学の話が合ったという、主催者の小柴(こしば)隆(たか)弘(ひろ)氏の講義は、心の解明に力点を置いて進められた。
「ふつう私たちの身体の細胞は、約三年間で新しい細胞に入れ替わってしまいます。ところが、生まれてから全く新陳代謝しない細胞があります。それは脳細胞です。ですから脳細胞だけが唯一自分のものと言えます。」
「感覚があるから痛いのではなく、心が刺激するものの方に向いているかどうかが、問題なのです。」
と言って、固唾(かたず)をのんで見守っている僕たちの目の前で、タバコをふかしてその先に人差指を当てたまま涼しい顔をして笑っている。
「だから、ベトナム戦争に抗議して焼身(しょうしん)自殺した何人かの僧侶達も、無心にお経をあげることに集中していて『熱い』という思考の入り込む余地はなかったのだと思います。」
一語一語が非常に新鮮な感動の連続で、いちいち頷(うなず)いたり質問を連発したりしていたため『わかっとるの、あんただけや。』発言が出たのだろう。
そんなこと言われるとは思ってもみなかったので、背中にみんなの視線を感じながら、どんな顔をしたらいいのか困ってしまった。
翌週、さっそく西武新宿線新井(あらい)薬師前(やくしまえ)駅を下りて五~六分のところにある考え方教室の事務所を訪れた。
ガラガラと引戸を開けると、講習会で見知っていた受付の女の子が、
「お待ちしておりました。」
と、笑顔で迎えてくれた。
二階へ通され、小柴先生と向き合う形でソファーに腰を下ろした。
そして、早速用意してきた質問をぶつけてみた。
「自分をよく見せようという気持ちが強いんですが…」
「自然のものを出していけばいい。自然のままの自分が一番いい。」
「精神的に強くなりたいんですが、どうすればいいですか?」
「強いと思えばいい。」
「?!」
答えがあまりに単純(たんじゅん)明快(めいかい)ですぐに終わってしまうので、僕と先生の会話は途(と)切(ぎ)れがちで、時々思い出したようにポツリポツリと話す先生と無口な自分との間には、静寂(せいじゃく)な空気が漂(ただよ)っていた。が、なぜか先生にすべてを任せきっているような安心感があった。
そのうち、
「じゃあ。」
と言って腰を上げた先生は、少しおぼつかない足取りで、部屋を出て行った。
しばらくして、
「重共さん、どうぞ。」
と受付の女の子の声がしたので、導(みちび)かれるままに隣りの部屋へ入って行くと、そこは四畳半くらいの和室で、真ん中に小柴先生があぐらをかいて座っている。何が始まるのかと緊張して、先生の前にかしこまった。
すると、いきなり言われた。
「どこからでも、突いてきなさい。」
「えっ?」
僕は一瞬どうしたらいいか、戸惑(とまど)った。
小柴先生はというと、構えもしないで、ただあぐらをかいた膝に両手をのせて、ニコニコ笑っているだけだからだ。
心を決めて右手を腰に構え、当たっても痛くないように手首と拳の力を抜き、スーッと先生の顎(あご)をめがけて突いていった。
「??」
当たらない。
もう一度、今度は正確に中心を狙(ねら)っていった。
結果は同じで、拳は先生の顔面に当たる寸前で右にそれて、虚(むな)しく空(くう)を突いてしまうだけだった。
何か抵抗を感じてそれるのじゃなくて、拳が自分の意思に反して勝手に動いてしまうのだ。首をかしげている僕に、先生がポツリと言った。
「あたらないと思えば、当たらない。」
二度目に訪れた時、先生は今度は横を向き、目をつむって唐招提寺(とうしょうだいじ)の鑑(がん)真(じん)像のような姿になって、言った。
「突いてきなさい。」
前回の結果を思い浮かべながら、片膝を立てて拳を構えた。
そして間合(まあ)いをはかって突いて出た。
「???」
その瞬間、突こうとした姿勢のままで体が硬直(こうちょく)してしまった。
その形のまま、先生に抱(かか)えられて仰(あお)向(む)けに寝かされた。
元の状態に戻してもらい、起き上がってもう一度、思いっきり突こうと試みた。その途端、今度は体がひとりでにフワッと凧(たこ)のように後方へ押されていき、壁にぶつかってそのまま背中と手足が貼(は)り付(つ)いてしまった。
ゆっくりと立ち上がって近寄ってきた小柴先生にポンと肩を叩かれて、ようやく体は自分のものになった。
先生ものってきたのか、
「じゃあ、この首を絞(し)めてみて。」
と、再びあぐらをかいて言った。
今度は腰を落として背後(はいご)へ回り、両手を首にかけて力を込めた。
されるままになっていた先生がわずかに動いたと思ったら、気がついた時は、自分の体はカエルのように畳に這(は)いつくばっていた。手は絞めようとした状態のまま筋が収縮していた。
どんな技を使ったのか、後から尋ねてみると、武道はやったことがないという。
「武道家は最後には武道を捨てないといけない。」
「武道も究極的には心の問題になってくる。」
と言われ、それを身をもって知らされた自分は納得せざるを得なかった。
その上、中村天風(てんぷう)氏(※)と親交があり、『天風会へ一年位指導に行っていた。』という話を聞いて、こんな人物がまだ存在していたのかと驚いた。
当時、僕は学習塾をやっていたのだが、辞(や)めて医療の方面へ進もうと思っていることを話したら、
「今の学校教育は間違っている。人間の本当の生き方というものを教えていない。」
と言って、塾をやめるのをとても残念がっておられた。
翌年、東京事務所が閉鎖され、小柴先生は本拠地(ほんきょち)の広島へ戻られた。
その夏、一泊二日の予定で広島を訪れた。
隆(りゅう)心館(しんかん)という建物には、先生に教えを請(こ)いにくる若者たちの姿が後(あと)を絶(た)たなかった。
何か、親の懐(ふところ)に飛び込んでいく雛鳥(ひなどり)のように見えた。
その時、先生とどんな話をしたかは覚えていないが、隆心館のある己斐(こい)の山から見下ろした広島市街の夜景や、原爆ドーム、道場の床に布団を敷いてスタッフの若者たちと夜遅くまで語り合ったこと、翌朝、テラスでとったお洒落(しゃれ)な朝食のことなどが、場面場面の映像としてよみがえってくる。
帰る際、先生は甚平(じんべい)姿で二階から下りて来て玄関先で見送ってくれた。それが小柴先生を見た最後となった。
それから五カ月後、八十年の波乱に富んだ生涯を閉じられた。
※中村天風…明治九年生まれ。日露戦争の軍事探偵として満蒙で活躍。帰国後、当時不治の病だった肺結核にかかり心身ともに弱くなったことから、人生を深く考え、人生の真理を求めて欧米を遍歴する。そこで一流の哲学者や宗教家を訪ねるが、望む答えを得られず、失意のなか帰国を決意。その帰路、偶然ヨガの聖者と出会い、ヒマラヤのふもとで指導を受け、ついに真理を悟って病気を克服する。帰国後、自らの体験をもとに『心身統一法』を創始し天風会を設立して幅広く活動する。影響を受けた著名人は多様で松下幸之助、稲盛和夫、双葉山、大谷翔平らがいる。昭和四十三年九十二歳で生涯を閉じる。
小柴先生 [次号 5月1日]
