真宗大谷派 浄円寺
26
浄円寺コラム<26> 2021,4,3重共聡
心に響いたことば 1995春
通っていた専門学校の卒業式で校長が、
「諸君は、三年前の卒業式に私が贈った言葉を覚えているか?」
と尋ねてきた。
毎年同じ言葉をおくっていると言われたが、去年と一昨年在校生として聞いていたはずの自分は、全く思い出せなかった。もっとも、今までこういうかしこまった場での立派な話は殆んど記憶に残っていない。
ただ、一つ思い出した。
あれは中学の頃、場所は体育館だった。
何かの式典で、天(あま)富(とみ)という年配の町長が全校生徒七百名余りを前に壇上に上がっていた。
右手を上げて熱弁を振るっておられるのだが、自分たちは話の内容よりも、頭上の照明が骨董品(こっとうひん)のような頭に反射しているのがおかしくて、必死に笑いをこらえていた。
そして、戦時中の苦労話に及んだ時だ。突然、
「うおおー!」
という大声が体育館に響きわたった。
何が起ったのだろうと、僕たちは唖然として声の方を凝視(ぎょうし)した。天富町長は当時のことを思い出し、感(かん)極(きわ)まって泣き出されたのだ。
静まり返った体育館に、
「おああー!」
という声だけが反響していた。
なぜか子供心に、
『えらい町長さんやな。』
と、尊敬の念を持ち始めていた。
そのあと話を続けられたかどうかは、覚えていない。
奈落(下) 2020春
絶望というキーワードでもう一つ思い出した逸話があります。これは、十四年前に僕が富山へ戻って来た頃、聞法の先輩である柳川さんから紹介してもらった本に載っていました。
著者は水島(みずしま)見(けん)一(いち)という大谷大学の教授で、彼は小学校低学年の頃、隣村の北野(きたの)小学校に通(かよ)っていました。実は小学校教諭をしていた僕の父もそこにいたのですが、平成二十年に南砺同朋大会の講師として地元に招いた時、慰労会の席で、
「あなたのお父さんに教わりました。」
と言われて驚いたことがあります。
その水島氏の祖父で、石川県加賀市に高光(たかみつ)大船(だいせん)という真宗の型破りなお坊さんがいました。そのお坊さんに、今から六十年近く前こんな話が残っています。
〈絶望の福音(ふくいん)〉
ある時、見ず知らずの奥さんが訪ねてきて、
「自分の夫が重病で臨終が近いので、枕もとに来て、夫が安楽に死ねるように仏法を聞かせてやってください。」
と言いました。
そこで、高光師はその奥さんに、
「もしも、仏法があなた方の希望を満たすようなご利益があると期待されて私をお呼びになるのなら、残念ながら失望されるだけでしょう。
ご覧の通り、僧侶の自分でさえ子供達と貧乏暮らしをしている有様(ありさま)ですから、仏法に人間の求めるような利益は何もありません。それでよかったら。」
というと、
「もうとにかく来てほしい。」
と頼まれるので、早速、病人のもとへ駆(か)けつけました。
三十八歳のご主人は、もう明日(あす)、明後日(あさって)の命で、話が出来ない状態でした。
枕もとで、高光大船師は言いました。
「ご主人、あなたの三十八年の一生は今や絶望となりました。それは、過去から現在に
至(いた)った希望が絶望したということでしょう。
しかし、それは直(ただ)ちに、あなたの永遠のいのちへの更生(こうせい)(※)でもありましょう。
それは、今ここに、四、五人の方がおられる中の誰も知ることの出来ない生命への更生でしょう。」
と言いました。
すると、そばでそれを聞いていた奥さんが、
「そんな難しいことより、南無阿弥陀仏の話を聞かせてください。
私も二、三日前から南無阿弥陀仏より他に何もないと言うて聞かせているところです。」
と言いました。
高光大船師は今度は奥さんに向かって、
「奥さんは、その念仏を知っておられますか?
おそらく知らぬでしょう。
ただ念仏ばかりなどというのは、奥さんがどこかで小耳に挟(はさ)んだ南無阿弥陀仏の話でしょう。」
と言った後、再びご主人に向かって、
「ご主人、お聞きの通り、あなたの最愛の妻ですら、このように自分も知らない仏法の話を持ち出して、あなたの絶望をごまかそうとしています。
そして、おそらく奥さんは、あなたの死んだ後の生活のことを心配しているのでしょう。
ただ、あなたが今まさに直面している手も足も出ない絶望。その絶望こそ、あなたを生死を超えた無限の命の世界へと導くのです。
あなたに恵まれている『今』は、絶望の福音(※)です。」
そう言うと、病人は大きな声で、
「わかった、わかった!」
と言って、涙を流して喜んだということです。
高光師はさらに、
「絶望は人間的に絶望ですが、人間的希望の絶望こそ真に人間を解放して自由にするものです。」
と言われました。
(水島見一著『大谷派なる宗教的精神』より要約)
自分の力を頼りにするゆとりのある間は、まだ見えてこない世界、行き詰まって何もかも間に合わなくなった時、初めて気がつく心の世界がある。
絶望の淵に立たされた時、そこに思いもかけない救いへと通じる入口があるということではないかと思います。
※更生…蘇(よみがえ)る。生まれ変わる。
※福音…救われる。
(おわり)
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
第二部 医療日誌
プロローグ 1995春
三年間通った専門学校の卒業式を終えた翌日、風邪とギックリ腰でダウンしてしまった。
自分では意識していなかったが、昼間働いて夜(よる)学校に通うという生活で蓄積(ちくせき)された疲れが、緊張の糸が切れた途端にドッと出たのだろう。
でも、仕事は二月いっぱいで辞めていたので、いつまでものんびりしている訳(わけ)にはいかなかった。
医療方面の情報誌をめくると、不況どこ吹く風で五十ページもの求人広告が載っているのには驚いた。めぼしいものをいくつかピックアップして問い合わせてみたが、今ひとつ面接に行く気が湧(わ)いてこない。
これが最後の仕事だと思うとどうしても慎重になり、考慮が頭の中をぐるぐる回って決断がつかなくなってしまう。
これじゃいつまでたっても同じだと思い、しばらく探すのを止めて、お世話になったことのある治療家の先生方を一人一人訪(たず)ね、話を聞いて回ることにした。
三人目で、専門学校を受ける際にいろいろアドバイスしてくれたA先生を訪(おとず)れた時、話題の中にAKA(※)という言葉が出てきた。
耳にするのはこの時が初めてではなかった。写真週刊誌や健康雑誌に載っていたのを見たことがあったし、専門学校の同級生で治療歴の長いS君が注目していたのが、何となく頭の隅(すみ)に引っかかっていたからだ。
直感的に、
『これだ!』
と思った。
翌日さっそく、AKAで有名な池袋にあるクリニックへ電話してみた。
求人をしている訳ではなかったので、どんなふうに切り出そうか考えたあげく、次の文句を言うことに決めた。
「AKAを学びたいと思っているのですが、どこか修行させてもらえる所を紹介してもらえませんか?」
すると受話器の向こうで、
「関東でAKAをやっているのはうちしかないが、これは十年かかってようやくものになるかならないかという位の高等技術なので、大変ですよ。」
という返事が来た。そう言われると、なおさら意欲が出るたちなので、翌日面接の時間をとってもらうことにした。
クリニックを訪れたのは午後一時半過ぎだった。電話の声の主(ぬし)で、健康誌の写真とそっくりの人物が出てきて、スーツの上着に腕を通しながら言った。
「飯(めし)、食(く)った?近くにそば屋があるので行きましょう。」
それが、AKAで名の知られた住田(すみた)先生との出会いだった。
「これしかないんじゃよ。」
と、少年のような目で熱っぽく語る住田先生を見ながら、自分の選択が間違っていなかったことを心の中で喜んだ。
面接後、クリニックの午後からの治療を見学させてもらうことにした。
患者は、ヘルニアの手術を受けたり、あちこちの病院で見捨てられたような重症(じゅうしょう)の人が多く、彼らの痛みが面白いようにとれるのには目を見張った。
後(あと)になって考えると、訪れてから帰るまで六時間もトイレに行っていなかった。一時間おきに尿意をもよおす自分にとって、これはギネスものだ。
※AKA…関節運動学的アプローチの略称。関節運動学にもとづく関節包内運動の治療法。
(つづく)
[次号 4月17日]