真宗大谷派 浄円寺
25
浄円寺コラム<25> 2021,3,20重共聡
輝く未来にとどくまで 1965春
「僕の両親は、小学校の先生をしています。」
「それで解(わか)った。先生の子供は問題児が多いのよ。」
学生時代、バイト先の女社長に問われるままに答えると、思いがけない返事が返ってきた。
でも、それを聞いて安心した部分も心のどこかにあった。的(まと)を得ている面があったからだ。
おそらく、教育者というのは自分の考えが一番正しいと思っているので、それをつい子供に押し付けてしまうのだろう。
そして、小学生当時の自分にとって親の言うことは絶対だった。
僕が子供の頃、小学校の卒業式は、卒業生が感謝の言葉をリレー形式で一節(いっせつ)ずつ分担して、全体が一つの文章になるようにバトンをつないでいくのが流行(はや)っていた。
昭和四十年三月、今の城端町行政センターの場所にあった城端小学校の卒業式で、自分の担当した言葉は今でもはっきりと覚えている。
「輝(かがや)く未来にとどくまで。」
だ。
その一カ月ほど前だったろうか、自分の言うセリフの情報を、同じ小学校の教員をしていた母がすでに仕入れていて、帰宅すると僕を呼んだ。
「言って見られ。」
そこで僕が、
「輝く未来にとどくまで。」
と言うと、
「ダメ!」
と言って、母が言ってみせた。
「♪輝く~♪未来に~♪とどく~♪までー」
それを聞いて唖然(あぜん)とした。能(のう)や歌舞伎(かぶき)の言い回(まわ)しのようで、
「こんな調子外れの声を出したら、みんなに何と思われるだろう。」
と思うと気が重くなってきた。
これは、同じ城端小教諭で国語教育では定評(ていひょう)のあるF先生の助言だと言う。
他のみんなが、朗読するように淡々(たんたん)と言っているのに、なんで自分だけこんな変な言い方をしなければならないのかと内心葛藤(かっとう)があったが、母には逆らえなかった。
「♪輝く~♪未来に~♪とどく~♪までー」
その部分だけを何回も繰(く)り返(かえ)しやらされ、ダメ出しが続いた。
そして、卒業式当日。
…………………
僕「♪輝く~♪未来に~♪とどく~♪までー」
男子卒業生「僕たちは!」
女子卒業生「私たちは!」
卒業生全員「頑張ります!」
…………………
やはり、自分のところだけ調子外(はず)れだった。
式が終わって退出(たいしゅつ)するとき、横一列になった教員の左端にいる母が泣いているのが目に入ってビックリした。こっちが恥ずかしくなるくらい目を腫(は)らしていた。
あの時、なぜあんな節(ふし)をつけて言わねばならなかったのか?
母が亡くなって二年経った今、その理由は知る由(よし)もない。
ただ、あのセリフ、
「♪輝く~♪未来に~♪とどく~♪までー」
は今でも正確によみがえってくる。
後(あと)は、母が泣いて恥ずかしかったということ以外、思い出せない。
奈落(中) 2021冬
自己弁護を止(や)めたら、こころが奈落へ転落していった。
落ちるに任せて落ちるところまで落ちたと思った時、そこには思いがけず如来の手が差しのべられているような安心感があった
錯覚かもしれないけれど、そう感じた。
そして、その出来事は特に気に留(と)めることもなく、胸の奥にしまっておいた。
そんなことがあって九カ月ほど経(た)った頃、夜0時近くに布団の中で講話録を読んでいた時、ある文のところで、
『これだ!』
と思った。
あの時の、自分の味わった出来事が裏付けられたような気がした。
その講録は、二十年前東京にいた頃、息子の様(よう)に目をかけてもらっていた片山さんという念仏者の女性から、
「私、もう読まないからあげるわ。」
と言っていただいたもので、枕もとに置いて、時々気の向くままにページをめくっていた本だった。
『湿(しめ)った菓子』というタイトルで、明治に生まれた坂木(さかき)恵(え)定(じょう)という石川県のお寺の住職の言葉が綴(つづ)ってあった。
その箇所は、『生(なま)の救済』というサブタイトルがついていた。
〈生の救済〉
現在の苦悩がほんとうのものなら、最後のものなら、その苦悩の行き詰(づ)まりが苦悩なき世界を発見してくれる。
現在の苦悩、絶望こそ人間を解放してくれる唯一の鍵(かぎ)である。なまじっか絶望のあまり自分を落ち着かせるために、絶望から遠ざからせるためのお説教を役立たせようと焦(あせ)ればあせるほど、解放から遠のく逆作用になっていることに、案外気づかないでいるのではなかろうか。
人間が世間の安心やその変形の宗教的安心とかをつかんで離さなかったら、その人には永遠に安心というものはない。
安心は常にない処(ところ)に安心がある。絶望と解放とは一体であって、絶望のみありて解放がないというのは、その絶望とは実は絶望までいっていないものを絶望と言っているだけの話に過ぎない。
世にいう絶望とは、希望に未練(みれん)のある絶望です。私の味わう絶望は、これあればこそ解放に遇(あ)いえた絶望であり、私がそれに背を向け彷徨(さまよ)ってたどり着いた偶然の到達点でした。
寝る前にいつも読んでいたはずの箇所なのに、読んでいなかったなと思った。
Yさんの導(みちび)きがなければ読めなかったところだ。
奈落へ突き落とされて一カ月余りした頃、久しぶりにYさんからメールが届いた。
「元気ですか?もしかして私の言葉で落ち込んではいないですよね。」
(次号へつづく)
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
-
大東医専物語
僕は派手な方じゃないので、こういう場面でどんなパフォーマンスをすれば受けるのか思いつかなかったが、ともかく肚(はら)をきめてステージへ向かった。
堀口先生と一瞬目が合うと、トレードマークのあの大きな目がニコッと微笑みかけてきた。壇上に立ち、マイクをスタンドから外して右手に持った。
「えー、三年間どうも有難うございました。」
牧内(まきうち)先生が授業では見せたことのない顔をして、こちらを見ておられるのが目に入った。高橋先生の逸話のところで、ドッと沸いた。
僕らしく訥弁(とつべん)だったが、アルコールの勢いもあって、何とか言おうとしたことは伝えられたと思った。後(あと)から戸田さんが、
「飾り気がなくて、重共さんらしくてよかったですよ。」
と言ってくれたが、何よりも彼がおしまいまで聞いてくれたことがうれしかった。
最後に先生方を拍手で見送って、謝恩会は終了した。
弦弓さんにお別れを言ったら、
「いやー涙見せちゃって、みっともなかった。」
と気にしていたので、
「ああいう時に涙を見せるなんて、なかなか出来ないですよ。」
と言ってなぐさめた。
池袋駅で戸田さんと別れて一人になり、埼京線ホームの階段を一段一段踏みしめながら、
「あぁ、また振り出しに戻ったな。」
と思った。
三月の陽光
卒業式の三日後、三年前に進路を決める時相談にのってくれた蕨(わらび)にある整骨院の先生に報告がてらお礼に行こうと思い、菓子箱を用意した。
三年ぶりなので、驚くだろうなと心を弾(はず)ませながら、以前通った道をたどって行った。
そして、見覚えのある建物の前まで来た。が、その途端足がそこで止まってしまった。シャッターが下りていて貼り紙がしてあったからだ。
しばらくたたずんでいたが、いつまでいても仕方がないので、引き返すことにした。
足取りは重く、三年という歳月の長さを感じていた。
空は青く澄み渡っており、三月の柔らかな陽光が体を包んでいた。
通りを流れて行く車の喧騒(けんそう)は以前のままだった。
(第一部 おわり)
[次号 4月3日]