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            浄円寺コラム<24>       2021,3,6重共聡

差別社会 2021冬

 二月十一日の建国記念の日、女性蔑視(べっし)発言で、森東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長辞任のニュースが流れた。

昭和世代の自分から見れば聞き流してしまいそうな一言が、世界中からバッシングを浴び、自滅の道をたどってしまった。

時代の流れをつくづく感じている。

 

ところで、自称映画ファンの自分が好きな映画ベストワンを選ぶとすると、二十代では、山本正樹監督、仲代達矢主演の『人間の条件』が挙げられる。

 全六部、九時間三十一分の長編で、最初に観(み)たのは学生時代の昭和四十七、八年頃だった。新宿の映画館のオールナイトで、戦時下の極限状態での人間ドラマに圧倒されてしまった。

 その作品を最近衛星放送でやっていたので、懐(なつ)かしくなってチャンネルを合わせた。

ところが、見る前のワクワク感が時間とともにしぼんでいき、とうとう我慢できなくなって他局に切り替えてしまった。

 初めて見たときと同じ感動を期待していたのだが、それは望めないことが分かった。今の時代にはそぐわない、耳を塞(ふさ)ぎたくなるようなセリフや言い回しが何度も出て来

たからだ。

 テレビで昔の映画が放映される時によく、

「放送上不適切なせりふがありますが、作者の意図を尊重してそのまま放送します。」

といったテロップが流れてくるが、それだけ時代が変わってきたということか。

 

 昭和五十年代、山田太一脚本、鶴田浩二主演のNHKドラマ『男たちの旅路』で『車輪の一歩』という一話があった。

その回は、車椅子の若者たちが題材(だいざい)だった。足が不自由な女の子を持つ母親が、車椅子の娘を外出させると周りに迷惑をかけるし、本人も傷つくんじゃないかという心配で、女の子を外へ出そうとしないし、娘もそれに納得している。

それを同じ車椅子の境遇の若者たちが、

「勇気を出して外へ出よう。自分たちも一緒だから。」

と熱心に誘うストーリーだった。

 おそらく、今の人達がそのドラマを見ると、違和感を覚えるんじゃないかと思う。

 今日(こんにち)、パラリンピックがオリンピック同様に脚光を浴び、車椅子テニスの国枝選手や上地選手はヒーロー、ヒロインになっている。義手、義足の選手が堂々とテレビのインタビューで発言するのが当たり前になってきている。

 そういう点では、いい世の中になったなあと思う。

 

 差別用語には、家族以外に対して使う『おじいさん』『おばあさん』も含まれるんじゃないだろうか。

四十代の一時期、東京都練馬区のデイサービスに通(かよ)っていたことがある。

利用者が毎回三十人位で、僕はリハビリルームでマッサージをやっていた。

勤め始めてしばらく経(た)った頃、あることに気がついた。

寮母さんたちが、高齢の利用者に対して「〇〇さん」とか「△△さん」といった具合にちゃんと名前で呼んでいるのだ。

こう書くと、当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、代名詞、つまり『おじいさん』とか『おばあさん』と呼んでいるのを耳にしたことがなかった。

 

またある日、利用者の八十代で認知症の女性が隣りの席の女性に話しかけた。

「ねえねえ、おばあちゃん。」

 すると、いつもは穏(おだ)やかに見える七十代後半の女性がイラついた口調で答えた。

「私、おばあちゃんじゃありません!」

 僕はたまたまその場を通りかかり、このやり取りを間近(まぢか)で聞いていた。

 

これらのことから、第三者を『おじいさん』『おばあさん』と呼ぶのも差別用語になるんだということを確信した。

その八十代の女性が、今度は四十代の自分に言った。

「ねえ、ボク!」

そばにいた寮母さん達(たち)は笑っていたが、僕自身は若く見られて悪い気はしなかった。ちょっと若過ぎるとは思ったが(笑)。

 

ところが、それだけ差別に敏感になってきている現代でも、気になっていることがある。

それは、病院での看護師さんの言葉遣(づか)いだ。

 母が三年前、近くの病院に二カ月間入院していた。僕は毎日付き添いに通(かよ)っていて、看護師さん達とも親しく口を利(き)くようになっていた。

 みんな若く、プロ意識を持ってきびきび仕事をこなしていた。

ただ、一つ気になることがあった。言葉遣いだ。

 僕に対するのと患者の母にたいするそれとは違っていた。僕には普通に敬語なのに、九十代の母には、タメ口(ぐち)、つまり子供に話すように話しかけてくるのだ。

 悪気はないと思う。親しみを込めて言っていると思うのだが、何か釈然としないものを感じた。

もし自分がそれをやられたら、立ち直れなくなるくらいプライドを傷つけられるかもしれない。

 

四十代でケアマネにチャレンジした際、受験準備用のテキストを読んでいたら、『個人の尊厳』という言葉が何度も何度も出てきた。『認知症の人でも尊厳はあるのだから、人格を傷つけるようなことを口にしてはならない。』といった具合に。

 また、試験後に受けた実務研修の最終日に、都(と)の介護老人保健施設に勤める指導員の女性から贈られた言葉が今でも心に残っている。

「介護の仕事は、単に物を与えるものでもないし、マニュアル化して物差しで測ったような世話をするだけでもない。相手の目の中に人として理解してもらえたんだという安堵(あんど)の表情を見つけることが大切です。」

 

 

奈落(ならく)(上) 2020春

「違う!がっかり!!」

「私は人を見る眼がなかったと教えられました。」

 聞法の大先輩で、一目(いちもく)置いている姉御的(あねごてき)存在のYさんから思いもしない返信が届いた。

 信頼して気を許していた分(ぶん)、無防備な心をナイフでえぐられた思いがした。

Yさんからの容赦(ようしゃ)のない鉄槌(てっつい)は過去にも二度あった。ただそれは納得のいくもので、その都度(つど)その場で回復できたのだが、三度目の今回は教義に関する見解の違いで、自分が全面否定されたようで、心は奈落(ならく)へ突き落とされていった。

 いつもは、あの手この手で自己弁護して自分が傷つくのを最小限に抑(おさ)える努力をする

のだが、今回は一切止(や)めて、なるように任せた。

 

「人を見る眼がなかった。」

この一行(いちぎょう)は、ある話を思い起(おこ)させた。

それは、高校時代に愛読していた学研の高1(2年か3年だったかもしれない)コースという受験雑誌の記事だった。当時高校生だった自分にとってインパクトが強く、そのページをはがしてずっと保管していた。今は、茶色に変色して触れればポロリとくずれそうなほど脆(もろ)い状態になっている。

『世界思想家列伝 達磨』というタイトルの中の一文で、こんな内容だった。

 

〈炎を呼んだ甘いささやき〉

 老婆はその青年を一目見たとき、

『これは見どころのある坊さんだ。いずれきっと徳の髙い名僧になるに違いない。』

と、腹の底から思い込んでしまった。

「お坊さん、そうやって諸国を巡(めぐ)り歩くのも確かに修行じゃろうが、たまには一か所に身を落ち着けてはどうかな。屋敷(やしき)の庭先に、ちょうど空(あ)いている庵室(あんしつ)がある。

 食事の世話はこのばあさんに任せて、そこでじっくりと修行しなさらんか。」

「有難いとは存じますが、行きずりの方にそれほどのご厚意(こうい)をいただきましては…」

「遠慮はせんことよ。お前さん方はよく、『袖(そで)すり合(あ)うも他生(たしょう)の縁(えん)(※)』などと言うではないか。わたしは見ての通り、もう老い先短い年寄りじゃ。お前さんのような真面目なお坊さんの世話をさせてもろうたら、何よりの冥土(めいど)の土産(みやげ)になる。」

 こうして話は決まり、青年僧は庵室にとどまって、ひとり静寂のうちに坐禅に励み、経典の研究に打ち込むようになった。

 

やがて十年の歳月が夢のように流れたある日、老婆は知り合いの家から美しい娘を呼び寄せた。

「あの庭先の庵室では、まだ若いお坊さんが久しく修行を続けておるのじゃ。

毎度毎度、このおいぼれの給仕(きゅうじ)では、お坊さんも寂しかろう。今日は、お前さんが食事の膳(ぜん)を運んでいってくだされや。

有難い話のひとつも聞かせてもらえるかも知れんぞな。しばらくは室内にとどまって、身の回りのお世話をするなどして、ゆっくり時を過ごしてきなされ。」

娘は老婆に言われた通りに、庵室に食事の膳を運び、日がとっぷり暮れるまで戻って来なかった。

翌朝早く、老婆はいそいそと庵室を訪れて、

「昨日はさぞ楽しかったことじゃろう。若くて美しい娘御(むすめご)というものは、ほんにこの世の花じゃ。目の功徳(くどく)になるわいのう。」

と言うと、青年僧は答えた。

「いいえ、目の功徳どころか、心の猛毒になってしまいました。

 お恥ずかしい話ですが、昨日は気持ちがうわずってしまい、経を読んでも身が入らず、夜もろくに眠れない始末(しまつ)でした。」

 

真面目(まじめ)で一途(いちず)の僧侶は、その日から一層真剣(しんけん)に修行に励んだ。そして、再び十年の歳月(さいげつ)が流れたある日のこと、ひとすじに世話を続けてきた老婆は、

『もう、うちの和尚(おしょう)も若くはない。修行にも不足はないだろう。さぞかし、すぐれた心境に達しているには違いないが、ひとつ、はっきり試(ため)させてもらおうか。』

 そう思って、日ごろ召(め)し使(つか)っている娘に厳(きび)しく申しつけた。

「今日は、膳(ぜん)を下げてもすぐに戻ってこずに、すきを見て和尚さんにしっかり抱きついて、『こんな時は、どんな気持ちがなさいますか?』と、熱っぽい声で尋ねてみるんじゃ。」

 娘は見るからに愛らしく、男心(おとこごころ)をそそらずにはおかない容姿(ようし)をしていた。もちろん彼女は気が進まなかったが、

『信心深いご主人様がこんなことを言い付(つ)けるからには、何かよほど深い訳(わけ)があるのだろう。』

と、断崖(だんがい)に身を躍(おど)らせるようなつもりで、言われた通りに実行した。

『和尚さんはお怒りになるか、まごつかれるか、それとも…』

と、心の中で思いながら…。

 

ところが結果は予想外のものだった。

彼は顔色ひとつ変えず、

「枯木(こぼく)寒(かん)巌(がん)に倚(よ)って、三(さん)冬(とう)暖気(だんき)なし(お前なぞが抱きついてきても、凍(い)てついた巌(いわお)の上に枯(か)れ木が立っているようなもので、別に何も感じない)。

と、答えて平然(へいぜん)としている。

 その報告を受けた老婆は、

「二十年間も、よくもあんな坊主にだまされていたもんじゃ。」

と、喜ぶどころか憤然(ふんぜん)として和尚を庵室から叩(たた)き出し、自(みずか)らその庵室に火をつけて焼いてしまったという。

 

 

この話を読んだ高校生当時の自分は、老婆の側(がわ)から修行僧を見(み)下(くだ)していた。それはその後何十年経っても変わることはなかった。

 ところが今回は、老婆に叩(たた)き出された修行僧の身にさせられた。

老婆の立場に立ったYさんに修行僧の自分が見棄(みす)てられるという構図(こうず)で、それまで修

行僧を笑っていた自分が初めて修行僧の気持ちを味わっていた。

 そして、奈落の底へ突き落とされていった。

 そこで、出(で)遇(あ)ったものは…

          

※袖すり合うも他生の縁…道で見ず知らずの人と袖が触れ合うようなちょっとしたことでも、前世からの因縁による。

          ※他生…何度でも生まれ変わること。(仏教語)

                                (次号へつづく)

 

 

<連載企画>

医療・介護の世界に足を踏み入れて

第一部 大東医専物語

 先生方の挨拶も残りわずかになった。

 ふと横を向くと、学校へ勤めて一年目の事務の富樫(とがし)先生(二十代男性)がお地蔵さんみたいになっていて、辺(あた)りに近寄りがたい雰囲気が漂(ただよ)っていた。

 その謎(なぞ)はすぐに解けた。司会進行役の千葉さんが、

「では、富樫先生どうぞ。」

と壇上に招いたからだ。

 ということは、次は自分の番かなと思った。

 本当はこういう場でのスピーチは大の苦手で、よっぽどのことがない限り避けてきたのだが、今回だけは買って出た。

 小学校から大学までを通じても、大東医専での三年間ほど興味深く生き生きと学び、講師の先生達とのコミュニケーションがとれた経験はなかったので、最後にこの感謝の気持ちを少しでも伝えないと自分自身気がすまないと思ったからだ。

 スピーチの内容は、二日間かけて考えた。

 いろんな先生のエピソードを入れようかと思ったが、最終的に高橋先生と藤平先生に絞(しぼ)った。この二人だと、教務課でみんながお世話になっているので、誰が聞いても納得するだろう。

 でも、スピーチの順番が謝恩会の終わりに回って来るというのはなかなか大変で、結局オードブルは口にせず、ビールだけをセーブしながらあおっていた。

 富樫先生が壇上へ向かった時、級友の田村さんと話していたが、

「もうじき僕の番なので、ちょっとごめん。」

と言って、グラスに残っていたビールを一口のどに流し込み、呼吸を整えた。

「では、クラスを代表して重共さんが挨拶します。」

 千葉さんのアナウンスに拍手と歓声が沸き起こった。

                                  (つづく)                            

[次号 3月20日]

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