真宗大谷派 浄円寺
22
浄円寺コラム<22> 2021,2,6重共聡
最後の校歌(後編)
階段を駆け上がって二階に達した時、二(ふた)教室奥(おく)にある自分達四年の教室の辺りは、うっすらと煙が漂(ただよ)っていた。
躊躇(ちゅうちょ)する間もなく突入しようとした、その時だ。
「何しとるが、早く下りて来(き)なさい!」
と叫ぶ声が耳に飛び込んできた。
反射的に声の方を振り向くと、いつの間に来たのか、階下で二年の担任が仁王立(におうだ)ちになっている。その必死の形相(ぎょうそう)に、自分達は気持ちをそこに残したまま、しぶしぶ階段を下りて行った。
二年の担任というのは実は僕の母だったのだが、あの時二階の階段上り口にあった防火扉を閉めに来ていたのだということを、後から聞いた。
「頑丈(がんじょう)な鉄の扉を閉めている時、もし中に誰か残っていたらと思うと何とも言えない気持ちになった。」
と打ち明けてくれた。
僕たちは再びグラウンドの向こうの県道まで走った。
その頃には二階の窓からも煙がもれていた。
木造校舎全体が炎に包まれるのに、そんなに時間はかからなかった。
上空にヘリが舞っていた。それに向かって同級生の誰かが手を振っている。当時、空飛ぶ乗物(のりもの)を目にするのは珍しかったのだ。
自分達の教室の窓から炎が出ているのを見ているうち、ひとりでに涙が溢(あふ)れてきた。
最初は、愛着のある自分の持ち物が燃えてしまうという思いが強かったのだが、この涙はそのせいだけではなかったと思う。それまで経験したことのない感情が、胸の奥から込み上げてきた。
思い出の詰(つ)まった校舎が燃え盛っているのを、なすすべもなく見つめていた。
積雪のため消防車は来ることが出来ず、村の消防団の人達がポンプを担(かつ)いで駆(か)けつけてきたが、焼け石に水だった。あっという間に本校舎は全焼し、講堂のある別棟(べつむね)だけが残った。
四年前に健康優良校に指定されたこともあって、火災のニュースはその晩全国放送され、さっそく各地から教科書などの支援物資が送られてきた。その教科書を使い、一週間の休校の後、二学年ごとに三カ所の公民館に分散して授業が再開された。そして数カ月後、焼け残った講堂をベニヤ板で仕切った仮設の教室に戻った。
慌(あわ)ただしい一年が過ぎ、僕の学校は4km離れた町の小学校に併合(へいごう)されることに決まった。
五年三学期の終業式が、結局閉校式になってしまった。
「♪築(きず)きたてたる蓑(みの)谷(たに)の~♪この学舎(まなびや)を輝かせ~」
合唱は、なぜか歌うテンポがいつもどんどん速くなる傾向にあった。
そして、この時も出足は順調だったが、やはりピアノの伴奏(ばんそう)を追い抜いて加速がついていった。
窓の外では、やわらかな春の日射(ひざ)しに照らされて、雪解(ゆきど)けの大地が顔を出し始めていた。
(おわり)
「鬼は内、福は外」
真宗の教えを聞いていると、『鬼は内』つまり鬼はむしろ自分のこころの中にいるんじゃないかなと思えてきます。
親鸞聖人は、徹底的に自己を洞察(どうさつ)され、つぎのような和讃を何首も残されました。
悪性(あくしょう)さらにやめがたし (悪い本性はなかなか変えられない)
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり (私のこころは毒をもった蛇やサソリのようである)
修(しゅ)善(ぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに (善い行いをしても煩悩の毒が混じっているので)
虚仮(こけ)の行とぞなづけたる (いつわりの行と呼ばれている)
コロナ禍の今、鬼は自分の内にあると気づけば、感染者の家に石を投げたり、差別したり、そういう思いを抱いたりすることは、まずないんじゃないかと思います。
ここで、浅原(あさはら)才(さい)市(ち)という妙(みょう)好人(こうにん)の逸話(いつわ)を紹介させていただきます。
浅原才市は、1850年島根県に生まれました。11才の時、両親が離婚。19才で船大工として出稼ぎに行き、25才で結婚しました。40才から下駄職人として生計をたて、50才頃からお寺に足しげく通うようになりました。64才を過ぎたあたりから信心の喜びを、かんな屑や木片、紙片などに独自の詩として残し始めました。
69才の頃、そんな才市を地元の画家が肖像画にしています。
画家、若林春暁の家は浅原才市の近所にあり、春暁が海岸を散策する時は決まって才市の家の横を通って浜に出た。
その際、才市が口から念仏を絶やさず仕事に打ち込んでいる姿や、お寺参りに熱心な様子を度々(たびたび)見かけて関心を持つようになった。
その頃の才市は無口で目立たない老人で、周りの人達は才市の存在を気にも留めていなかったが、寺参りと聴聞の熱心さだけは際立っていた。
画家の若林春暁はそんな才市にすっかり惚(ほ)れ込んで、肖像画を描かせてくれないかと頼んだ。
すると才市は、
「ワシは年寄りだから描いてはいらんよ。」
と、即座に断った。
諦(あきら)めきれない春暁は、ひそかに制作を始めた。そして、ついに納得のいく肖像画を描き上げた。それは肩衣(かたぎぬ)を身につけ両手に念珠をかけて合掌している姿だった。
早速、才市の家に持参して披露(ひろう)したところ、才市は自分に瓜(うり)二(ふた)つの肖像画を一目見るなり、
「これは、ワシじゃない!」
と言った。会心(かいしん)の作(さく)だっただけに、その言葉にショックを受けた画家春暁は、どこが気に入らないのか尋ねた。
すると才市は、
「ワシはこんなによい顔をしとらんよ。すまんんが、ワシの頭に角(つの)を二本描いておくれ。」
と言った。
春暁は持ち帰り、仕方なく才市の要求通り、肖像画の頭の上に二本の角を描き入れた。
それを、再び持って行くとそれを見た才市は、
「これ、これ!これが本当のワシだ!」
と非常に喜んだ。
才市は、この絵を巻いたまま仏壇の脇の人目につかない所にしまっておいた。
棘(とげ)の角 二本三本生(は)えている
慈悲の鏡で 見りゃわかる
浅まし 浅まし あさましや
浅ましいのが この才市
あさまし あさまし あさましや
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
(浅原才市 作)
そして『福は外』。
これこそまさに、すべての人が救われるなら私は地獄に堕(お)ちても構わないという大乗(だいじょう)仏教の精神じゃないかと思いますが、いかがでしょうか?
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
-
大東医専物語
国家試験
柔道整復師の試験は、厚生省管轄の国家試験となって今回で三回目をむかえる。
過去二回の合格率はうちの学校は九十%台と高いのだが、問題集をやってみると
四割しか出来なかったので、気持ちが焦(あせ)り出した。
科目は解剖学、生理学、病理学概論、一般臨床医学、リハビリテーション医学、衛生学公衆衛生学、運動学、整形外科学、外科学概論、柔道整復理論、関係法規の十一科目だ。
試験当日は、前日の雪模様とはうってかわって、雲ひとつない青空が広がっていた。
早めに家を出、水道橋で電車を下りて日大経済学部の試験会場に向かっていると、通りを隔(へだ)てた向こう側に同級生のTさんの姿が見えた。道路を横切って合流して間もなく彼が、
「ううっ。」
と今にも吐きそうな声を漏らして、街路樹の根もとにしゃがみこんだ。
そうとう緊張しているなと思いながら、背中をさすってやった。
会場入口には受験生が群(むら)がっていた。その中に本校の大輪先生と堀口先生の姿があった。
日曜なのに休日返上でここまでしてくれるのかという驚きとともに、いい大人が受験に付き添ってもらうことの、何かこそばゆさみたいなものを感じた。
「試験ってイヤなもんですねぇ。」
と言うと、堀口先生は、
「そうだよ。いくつになっても嫌なもんだよ。」
と同調してくれた。
しばらくして、あることに気がついた。
周りのみんなの顔が全然気にならないのだ。学校の入試と違って、資格試験は点数(六割)さえとれば合格なんだから相手は関係ないんだと、その理由が解った。
そのことをTさんに話すと、
「そうだね、そうだね。」
とうなずいていた。だいぶ落ち着いてきたようだ。
受験番号順に振り分けられた教室をさがしあてて中へ入ると、僕の席のすぐ後ろに同じ大東の野口君がいて、
「いやあ、心強いですね。」
と言葉をかけてきた。自分も同じ気持ちだった。
開始までまだ一時間あったが、何もする気がしなかった。
そのうち藤平先生と大輪先生が回ってきた。高橋先生もドアの向こうに見えた。他校の先生方も自分の学校の生徒の激励に歩きまわっていた。
その中に、口頭試問の時こってり油を絞(しぼ)られた東京柔専の永井先生の顔があった。机の横を通られた時、
「こんにちは。口頭試問ではお世話になりました。」
とあいさつしたら、永井先生は振り向いて、
「やあ、重(しげ)さんか!」
と気がついてくれた。そして耳もとへ、
「他の教科がだめでも、柔整理論だけは全部とるつもりでやれ。」
とアドバイスしてくれた。それを聞いたら、なにか大船(おおぶね)に乗ったような気になった。
午前と午後それぞれ百問ずつの試験が終わった時には、開放感よりも出来の悪さに打ちひしがれていた。六割とれれば合格だが、自信を持って書けたのは半分もいっていなかったからだ。
でも翌日、持ち帰った問題用紙を採点してみると、運よく合格ラインを越えていたので、落ちてメンツ丸つぶれになる不安から解放された。
そして、これで安心して求職活動が出来ると思った。
(つづく)
[次号 2月20日]