真宗大谷派 浄円寺
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浄円寺コラム<17> 2020,11,28重共聡
上京して最初の出遇い 1971秋
塾を始めた頃、電話で、
「数学や英語をもう一度勉強したいんですが、社会人でも入れますか?」
という問合せがあった。
小中学生を対象にしている旨(むね)話して断ったが、こういう人こそ本当に勉強したいという意欲を持っているのだから、入れてあげればよかったかなと、受話器を置いてから思った。
先日封切(ふうぎ)りされた山田洋次監督の『学校』を観た。
夜間中学を舞台にしたストーリーで、そこに集(つど)う人たちの様々(さまざま)な人間模様(もよう)が描(えが)かれていた。その中で、『幸せ』について討論するシーンがあった。
誰かが、
「お金だ!」
と言う。それに対して賛否(さんぴ)両論(りょうろん)飛(と)び交(か)い、結局、
「幸せの意味が解(わか)るようになるために、勉強しているんじゃないか。」
というところに落ち着いた。
自分が小六の時にも、同じテーマで話し合ったことがある。その時は、
「現実にお金がないと幸せにはなれない。」
という結論に達したのを覚えている。もっともこの時は担任の先生にうまく誘導(ゆうどう)されていたみたいだが。
他人と比較さえしなければ、幸不幸はないんじゃないかと、今は思っている。
でも、この人は大変な道を歩いて来たんだろうなと思う場に出くわすことがたまにある。
一時期、川口駅近くのシャノアール(喫茶店)で時間をつぶすのが習慣になっていた。その日も、いつもの壁向きの席について注文を取りにくるのを待っていた。まもなく、
「いらっしゃいませ。」
と、背中でウェイトレスの声がした。
僕はコーヒーを頼もうと振り向いた。その瞬間、思わず相手の顔を凝視(ぎょうし)してしまった。
初顔で、二十二~三歳の可愛い女の子だったが、顔の左側三分の一くらい、額(ひたい)から頬(ほほ)にかけて淡い茶色のアザが覆(おお)っていたのだ。
それまで耐えてきたであろう、想像を絶(ぜっ)する苦労を想うと、言葉がなかった。
十八才で上京した時、半年間新宿で暮らしていた。
四畳半賄(まかな)い付きで月二万の、同年齢七~八人の下宿だった。
大家(おおや)のおばさんは、自分らと同年代の子供がいたせいか気楽に何でも話せ、いろいろと面倒をみてもらった。
ある晩のこと、十時過ぎに玄関口にある洗濯機を回していたら、向かいに住んでいるそのおばさんが飛んできて怒鳴(どな)った。
「重共君、今何時だと思っているの!周りの迷惑になるからやめなさい!」
「あっ、すみません。」
と謝ったが、とても爽(さわ)やかな気持ちになったのを、昨日のことのように覚えている。
頑固一徹(いってつ)だった自分が、その時は不思議と素直になっていた。
ごく普通のおばさんなのだが、それだけで素晴らしいと思った。
彼女にとって、普通でいることがいかに努力を要することなのか、右目を囲むようににある十円玉くらいの黒いアザが物語っていた。
東京でいろんな素晴らしい人との出遇いがあったが、この時が最初だった。
上京の際、都会の人間は冷たいとよく聞かされていたので、覚悟して行ったのだが、その先入観は最初の出遇いで見事にくつがえされてしまった。
「お前、はじめにコマタさん(大家)やイフクさん(隣家)のようないい人と出遇ってよかったね。」
母がつくづく言っていた。
浄土とは 2009夏
先日、あるお寺のお通夜で、導師のお坊さんの法話を聞いていた時のことです。
そのお坊さんは、故人である前住職の思い出話を入れながら、胸を打つお話をされていて、僕も感動しながら聞いていました。
ところが、終盤にさしかかった辺(あた)りで、
「ふむ、ふむ、ふむ。」
と聞いていて、
「あれっ?」
と思う箇所がありました。
うっかりすると、そのまま聞き流してしまうところだったのですが、その時は、耳にひっかかり、後戻りしてその言葉を反芻(はんすう)していました。
どういう内容だったかというと、
「お浄土で先に待っていてください。私も、やがて参ります。」
という言葉でした。
つまり、浄土というのは、死んでから行く所だというふうに受け取れました。
「本当にそうなのかな?」
自分の中では、納得のいかない部分があり、ずーっと引っかかったままになっていました。
それで、さっそく上京して、その疑問をお師匠様(櫟(いちい)暁(さとる)師)に投げかけてみました。
すると、こう言われました
「親鸞聖人は和讃(わさん)(帖外(じょうがい))で、『有漏(うろ)の穢(え)身(しん)はかわらねどこころは浄土にあそぶなり(※)』と言っておられます。
つまり、この煩悩の身はかわらず、不純粋な生活をしているけれど、教えを聞いて信心がはっきりした時に、心は浄土に生まれています。
浄土とは、実体のないもので、そういう場所があるわけではなく、完全に精神界つまり心の世界です。
死んでから浄土へ行くであろうというふうな、そういういい加減な話ではない。今、教えに深くうなずいて、浄土に生まれ得たという思いをはっきりさせてもらうちゅうことです。」
そう、言われました。
それで、やっとモヤモヤが晴れました。
「昔の教学でいうと、われわれが念仏して浄土に生まれる約束が出来た。死んだら浄土に生まれて成仏させていただける身になったということを喜ばしてもらうのが、信心(しんじん)歓喜(かんぎ)だと書いてあるんです。
そんな生(なま)ぬるい話とは違うと言われるんです、曽我先生は。
死んでから極楽に生まれて成仏する身にさしてもらったということを思うて喜ばしてもらうというようなそんなことと違うんです。今助かったところが深く喜ばれる。この教えによらなんだら(よらなかったら)、浄土というのがわからんかった。
浄土往生ということは、そんな遠い先の話じゃなくて、今、南無阿弥陀仏によって、私に光明の世界が実現するちゅうわけなんだ。
(曽我先生は)そういうことを言うていかれたんですよ。」(櫟暁師述 於文京区求道会館)
※有漏の穢身はかわらねど…超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏
の穢身はかわらねど こころは浄土にあそぶなり(全文)
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
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大東医専物語
職人気質
柔整実技の山口先生は、授業開始と同時に生徒に背を向けて板書を始められる。
一度目か二度目の授業の時だった。例によって板書を始めて間もなく、後方の席のK君とT君が二言(ふたこと)三言(みこと)私語(しご)を始めた。するとそれが気にさわったのか、突然、山口先生は手を止めて、
「人がせっかく忙しい時間を削(けず)って来ているのに!」
と言って、教室を出て行ってしまった。
K,T両君と委員長の弦弓さんがすぐに後を追って行って謝ったため、先生は気を取り直して教室に戻り、授業が再開された。その時、
「この先生は、教育者というよりは職人(しょくにん)気質(かたぎ)だな。」
と思った。板書中心だけあって、骨の絵は玄人(くろうと)はだしでとても解(わか)り易(やす)かった。
柔整実技の村添(むらぞえ)先生は、普段は天井(てんじょう)を見て話(はな)される。そして、みんなが心地(ここち)よい気分になってくると、時々、
「キムラ!」
とか、
「大山!」
と指名するのが恒例(こうれい)になっていた。
『キムラ』と呼ばれるたびにみんなハッと我に返るので、あれはよかったと思う。
なぜか僕は村添先生の試験はいい点をとっていた。
一般臨床の松尾先生も、別の意味で職人気質だと思った。
というのは、どんな質問にもよどみのない答えが返ってくるからだ。一昨年の五月に友人の息子がギラン・バレー症候群(※)と言う難病にかかった。
実はその時、先生の自宅へ電話をしたのだが連絡がつかず、翌週、学校で会った時に尋ねたら、これまた立て板に水を流したような詳しい説明が返ってきた。
公衆衛生学の吉村先生は、授業中の目線は水平より下を向いている。
そしてたまにギロリと見上げた時、その先を追うと、そこには大抵(たいてい)正体不明になっている誰かがいた。生徒にとってはちょっとおっかない存在で、授業の終わりに、
「質問は?」
と聞かれても、シーンとなることが多かった。
ある時、僕が化学式の間違いを指摘したところ、千葉さんが、
「あの吉村先生の授業で間違いを正した。」
と、解剖研の後輩たちに得(とく)意気(いげ)に話したくらいだ。
※ギラン・バレー症候群…筋肉を動かす運動神経の障害のため、急に手や足に力が入らなくなる病気。
(つづく)[次号 12月12日]