top of page

3

       宅配プチ説法 浄円寺コラム<3>       2020,5,16 重共聡

浄円寺の場所 (後日談)

「なぜお寺がそんな山奥にあるか不思議に思われるかも知れないけれど、昔は山の尾根づたいに街道が縦横に走っていた。そのため山奥にお寺やお城があるのが普通のことだった。ちなみに、浄円寺の山道をさらに上ると天池(あまいけ)城跡があり、さらに行くと道宗道(どうしゅうみち※)につながっている。」(稲塚嘉輝さん談)

 そういえば、30代の頃訪れた真言宗の本山金剛峯寺は、和歌山県高野山にあってそこを中心に町が繁栄していたことを思い出しました。

            ※道宗道…妙好人赤尾の道宗が井波瑞泉寺に来ている蓮如上人に会うた

めに通ったとされる尾根づたいに五箇山から井波に至る山道。

 

浄円寺の本尊

これは不思議なんですが、御堂に見えたお客さんが本尊に向かって合掌されている時は、どうしてもその前を横切ることが出来ません。

 本山でも同じで、「御影堂(ごえいどう)で手を合わせていると観光客の人達は一人残らず前を通るのを避けてわざわざ遠回りして行った。」と、ある石川県の住職が言っていました。

 

ところで、浄円寺の本尊の由来について、母からある事実を知らされました。

ある時、母が言いました。

「うちの仏様は他のお寺のよりもだいぶ大きい方(ほう)やろ。」

そう言われてから、報恩講に他寺へ参勤する度にそこの本尊を注視してみて、初めてうちの本尊が長身なのに気がつきました。

母は続けて言いました。

「それまでこのお寺にあった本尊はだいぶ小さかったのだけど、今の本尊は私が小学校の4年か5年の頃、京都のどこかのお寺から参(まい)られたが。」

京都から城端駅まで汽車を使い、そこからこのお寺まで天井(てんじょう)のないオープンカーで来られた。

本尊は木箱に入れられ布でくるんで、当時住職だった僕の祖父が首から吊るし、両手で下から抱える格好で運ばれて来た。

母と祖母は前場(まえば;境内)にゴザを敷き正座してお迎えした。西明部落の人達はお宮さんから本堂まで総出で出迎えた。

そういう内容でした。

 

そういえば、何年か前に富山の仏具店の人がうちの本尊をじっと見上げて、

「こちらの本尊はいいお顔をしておられますね。」

と言っていたのを思い出しました。

今まで、気にも留めてなかったのですが、母の話を聞いてから改めてお顔を拝(おが)むと確かにイケメンだなと思いました。

そして、どんな経緯かは解りませんが、京の都から遠く離れた農村地帯へ来られたことを思うと、寂しい思いをされたんだなあという思いと共に、親しみの情が湧いてきました。

 

 

プチ説法

念仏者となった女性住職

「あれっ」

 毎月、本山から送られてくる月刊誌『真宗』5月号をパラパラめくっていた時でした。

いつもは新刊本が出ていないか『書棚』欄のみを確認してポイなのですが、今月は珍しくページをパラパラやっている時、見覚えのある名前が目に入ったような気がしました。

 戻って確認してみると、やはり、ありました。

「今月のお寺」コーナーに「浄誓寺」とあり、見覚えのある「住職 吉武(よしたけ)ちいほ」の名が目に飛び込んできました。

 

平成十年二月、当時40代の自分は東京練馬区の真宗会館で教師試験準備講習を受けていました

教師とは、真宗で僧侶と住職の間の資格で、大谷派系の大学や大谷専修学院に入って学べば簡単に取れる資格なのですが、時間的にそんな余裕がなかった自分は、一発勝負の試験で取ることにしました。

 ところがこれが難関で、過去の問題を手に入れて目を通すと全く歯が立たないことが解り、たまたま東京で三週間の準備講習をやるという情報を耳にしたので、早速申し込みました。

 受講生は15名。お寺に嫁いだ30代の坊守さん、実家がお寺の大学生、定年を迎えた校長先生など年齢職業は多彩でした。

僕の隣りには、住職だった御主人を亡くされたばかりの60才前後と思われる女性が座り、涙を拭きながら一生懸命ノートをとっておられました。

見ていて痛々しく、その姿がいつまでも瞼(まぶた)に残りました。

 ちょうど長野冬季五輪の真最中で、食堂のテレビはジャンプ団体金メダルに沸いていました。

 彼女とはその後疎遠となり、気がつくと22年の歳月が過ぎていました。

 その間、かろうじて年賀状のやり取りだけは続いていましたが、準備講習の時の印象が強すぎて、お寺で苦労している姿しか浮かびませんでした。

それが、思いもかけず今月の月刊『真宗』の記事に載っていたので、びっくりすると同時に、読み進んでいくにつれ、

「よかったな!」

という思いが心の底から沸いてきました。

 そして、苦悩の末に到達した心境の深さに感銘し、逆にあの時真宗会館で若い連中相手に盛り上がってばかりいて、自分は一体何をやっていたんだろうと情けなく思いました。

 以下に、記事を紹介させていただきます。

 

 真宗の教えに出遇えた喜びが、全身から溢(あふ)れ出ておられる住職さんに初めてお会いしました。

 吉武ちいほさん。開基550年となる浄誓寺第20世住職であり、新潟県三条教区内では女性住職の先駆者であります。

吉武さんは言われます。

「浄誓寺とのご縁で念仏に出遇えました。このお寺は私のためにあってくれたと思っています。」

 東京で暮らしていた吉武さんが、夫の実家である浄誓寺に入寺されたのが48歳の時。その10年後に住職であったご主人を亡くされます。

 今後どうしたらいいのか途方に暮れて泣く日々でしたが、実母には、

「大切なお義母(かあ)さんを一人、寺に残してどうするの?」

と言われ、そんな時にもお構いなく寺の行事は次々と押し寄せてきました。それで、

「とにかく、私がお経を読めるようにならなければ始まらないと思いました。住職になったのは、そんな止むに止まれぬ事情からでした。」

と話されました。

 

その後、教師資格を得るために真宗を学び始めます。

「そこで、『自覚を促(うなが)す』という言葉に出遇い、その時、それまで自分の中にあった問いとつながった思いがしました。

高校時代から、『本当のことって何だろう?』と思っていました。それが真宗に出遇い、自覚とは自分に目覚めること。その自分の本当の姿とは、『どこまでも自分中心に生きる人間だった。』と知らされた時は、本当に恥ずかしくなり『今後、生きていけるかしら…』とまで思いました。

 ところがそんな時、ふと悪人である自分の姿を認めることができた瞬間がありました。

そうしたら、嬉しくて嬉しくて。」

 それが、吉武さんがここで生きていけると思った機縁でした。

「抱えきれない困難の最中に生きる気力を失いそうになった時期、義母(はは)がよく口にしていた言葉『地獄一定すみかぞかし』が響いてきました。

『地獄がすみか』ではなく『地獄というすみか』があってくれた。死ななくていいんだ、と思えました。義母は私にちゃんと住み家を教えていってくださった。

 有難かったですね。」

 

 娘で医師の明子さんは、

「母が教えの言葉をあまりにも嬉しそうに話すので、それなら私も、と思いたったんです。」

と学びを始められ、教師資格も取られました。

 吉武ちいほ住職は言われます。

「願わくは、どなたもお念仏の教えに出遇ってほしい。でも、日常の生活ではそらごとが多くを覆(おお)っていて、妨(さまた)げとなっています。ですから、私は誰しもの『いのち』が持つ本願の用(はた)らきをただ信じていくしかない。そこに尽きます。」

 喜びにみちた笑顔で、本当のことを求め続ける念仏者が一人、今日も浄誓寺を護(まも)っています。

                     (真宗大谷派宗務所発行「真宗」より抜粋)

 

 

<連載企画>

医療・介護の世界に足を踏み入れて

 第一部 大東医専物語

 入学ガイダンス「助かりますよー」

 入学ガイダンス初日、非常に厳しい顔つきの古参の先生が、遅刻や欠席のハンコで賑(にぎ)わっている出席カードを手に現れ、こう言った。

「君達のかげには、せっかく入りたくても入れなかった人が大勢いるのに、こういう輩(やから)がいる。こういう奴の試験の結果は推(お)して知るべしだ。」

 これを聞いた時、まずいなと思った。

 というのは、遅刻ぐせがあるからだ。高校まではそんなことはなかったのだが、大学入試に遅刻したのがケチのつき始めで、地元の会社に勤めていた頃も、始業のサイレンとともに駆け込んで来るので有名だった。所属していた課のN課長も僕と五十歩百歩だった。

 ところがある時、遅いのを課長から注意されたので、

「Nさんも遅いですね。」

と言うと、

「でも俺が(着替えて)ロッカーを出て行く時に、お前はまだ着替えとるやないか。」

と逆につっ込まれてしまった。

 そのクセが入学二年目に出てしまったのだ。

 年間遅刻四十六回という記録は群を抜いていて、三年次最初の授業で吊るし上げを食ってしまった。

 

 ガイダンスの始めに、紅一点の先生が名簿順に点呼をとった。古屋かおると言う先生で、面接試験の時に見かけたあの女性だ。

 ところが、

「〇〇君、△△君」

ときて、自分のところで、

「重共さん!」

と呼ばれたのが意外だった。

「何で俺だけ『さん』なんだ?!」

自分だけが年寄り扱いされたようで、ちょっとショックだった。

でもその後、何人か『さん』づけの人がいたので、少し気持ちが落ち着いた。自分より年上に対しては、さん付けにしていることに気付くのは、まだ先のことになる。

 ガイダンスが終わり、皆ガタガタと席を立ち教室を出て行った。動作がスローなのか、帰り仕度をしている自分が一人ポツンと取り残された形になった。

そこへ、学則の説明をしていた高橋先生(三十代男性)が近づいてきて言った。

「こちらの言うことに、重共さんがいちいちうなずいてくれるので、助かりますよー」

 この一言で、

『学校に馴染(なじ)めるだろうか…』

という頭の中を漠然と覆(おお)っていた不安が、さざ波が引くように消えていった。

(つづく)

   [次号5月30日]

bottom of page