真宗大谷派 浄円寺
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宅配プチ説法 浄円寺コラム <2> 2020,5,2重共聡
浄円寺の場所
母からは、何度か耳にしていました。
「うちの山があるんだよ。」
「ふーん。」
そう言われても、特に行ってみたいほどの興味は湧かなかったので、そのまま一生行くことはないだろうなと思っていました。
それが思いもかけず、浄円寺コラムを西明地区に配り終わった翌日、浄円寺所有の山に向かっている自分がいました。
四月十九日(日曜)の午後、地元の稲塚嘉輝(よしてる)さんが三枚の地図を持って現れました。
地図を指しながらの一言一言は説得力があり、それまで漠然(ばくぜん)としていたことが、霧が晴れるようにはっきりしていきました。
それは次の二点です。
-
移転前に浄円寺があったと思われる浄円寺所有の山の位置。
-
山号は『矢谷山』。
場所は、東西原へ上る道路の大谷々橋手前を右折して細道へ入り、梅園に続くリンゴ園が途切れたところにある山道『やだに谷線』を、山中へ500mほど入ったところに『10-15浄圓寺』と明記されていて、その一帯は『矢谷々』となっていました。
翌日午後一時過ぎ、引きつけられるように、何の準備もせず普段着のまま地図を片手に山に向かっていました。
入口に着くとチェーンが掛かっていて、立入禁止の看板と熊の絵の看板が目に飛び込んできました。
ここに間違いないことを地図で確認して、チェーンをまたぎ両側からうっそうと杉林がせまる山中に足を踏み入れました。歩を進めていくうち、最近は誰も入っていないことが解り、禁断の領域に入った緊張感が背筋に走りました。
…そしてとうとう、「冬眠から醒めた熊に襲われたらどうしよう。」という恐怖感には勝てず、100m入ったところで引き返してきました。
週間天気では翌日の午後しか晴れマークがなかったので、明日しかないと思い、ナチュラリストとして地元の山のガイドをやっている段條寺(だんじょうじ)の住職に連絡をとって同行をお願いすると、二つ返事で引き受けてくれました。段條寺は近隣の大鋸屋(おおがや)地区にあり、うちの祖父の代からおつき合いがあります。
午後一時半近くにジープで現れた段條寺住職の今井さんは、いつもの法衣姿とは一変してすっかり山のいでたちになっていて、さすが山のプロだなと思いました。
入口のチェーンを外して、ジープで車一台やっと通れる山道を上っていくのですが、初めての道のはずなのに、涼しい顔でぎりぎりの所をスイスイとハンドルを右に左に切って行くため、カーブで車体が傾くたびに、「脱輪して脇を流れる川に転落するんじゃないか。」と生きた心地がしませんでした。
「危ない!危ない!」
を連発しているうちに、車が停まったと思ったら、
「着いたよ。」
と言われました。
出発前に地図を一瞥(いちべつ;ちょっと見る)しただけなのに…下りて確認すると、どう見ても目的地に間違いないので、脱帽するしかありませんでした。
さらに車で右へ少し入った所に、丸太で組んだ登り口らしき階段があったので、下車してのぼることにしました。
嘉輝さんの立てた仮説(かせつ)『浄円寺跡は、その辺(あた)りが平らになっている。』をもとに、送電線の鉄塔まで約30~40分かけて探索しながら上りました。
「昔のことだから、信仰の対象として祠(ほこら)のようなものがポツンとあっただけじゃないですか。」
と言うと、
「近くに真言宗だったお寺もあるし、修験者が(浄円寺で)寝泊まりしていたのだろう。」
と今井さん。
「サクッ、サクッ」
ミルフィーユ(ケーキの一種)のように分厚く重なった枯(か)れ葉を踏みしめながら上っていくと、それらしきスポットが何ヵ所か見あたりました。
予報通り午後から雲が切れて来て、あちこちでウグイスの鳴き声が山に反響していました。
「チリーン、チリーン」
今井さんの腰に付けられた熊よけの鈴の音もバリヤーを張るように響いていました。
「熊、出てきませんねー。」
と言うと、
「どこかで(鈴の音や話し声を)聞いているよ。」
と返ってきました。
鉄塔の下まで辿(たど)り着いたので、一息つくことにしました。
眼下には砺波平野の散居村が広がり、まさにここでしか見られない絶景で、それまでの疲れをつかの間忘れさせてくれました。
そして下山。
道すがら、人知れず咲く山野草の説明に知的好奇心が刺激され、想像以上に楽しい時間が過ぎていきました。今井さんがナチュラリストに忙しそうな訳がうなずけました。
それにしても60代の自分より10才も上なのに足取りは軽く、証拠写真のシャッターを切っていると、アッという間に引き離されてしまいます。
下りのドライブは、上りの時よりスピードアップしたように感じられ、ふたたび、
「危ない!」
を連呼していました。
山のプロをお願いしたのは大正解でしたが、結局怖かったのは熊ではなく、手に汗握る運転の方でした。
自宅に着いた時は二時四十分を回っていました。
諦(あきら)めていた浄円寺の山。想像と実際とは大違いでした。
当時のことが、ますます知りたくなりました。
プチ説法
棟方志功と蓑谷小学校
板画家棟方志功は、真宗が盛んな福光町へ疎開したことが縁で親鸞聖人の教えに出遇い、画風が一変して世界の棟方になったと言われています。
そんな志功にこんな逸話(いつわ)が残っています。
ある日、福光駅近くにある、吉田龍象(りゅうしょう)氏主宰の白道舎(びゃくどうしゃ)へ棟方志功がやってきて玄関を上がったところ、柱に掛けてあった短冊に釘付けになった。
それには、曽我量深師の筆で、「宿業者是本能、即是感応道交(※)」と書いてあった。
やがて棟方は、
「うわぁ!」
と叫んで倒れ、そこいらじゅうを転げまわって。
「ついにやった!」「ついにやった!」「これだ!」「これだ!」
とわめいていた。
そして立ち上がり、
「絵の具、取って来る。」
と言って自転車で飛んで行った。
しばらくして戻って来た棟方は、二階の法話室に駆け上がって襖(ふすま)四枚を全部引き倒し、春夏秋冬の観音四体を描き、わしらに墨をたっぷりすらせて筆を束(たば)ね、襖を裏返して、「宿業者是本能 即是感応道交」と太々と書き上げた。
それこそアッという間の出来事だった。
またある日、法話に訪れた曽我先生は襖(ふすま)をご覧になって、
「いったい、これはどうしたんだね?」
と尋ねられた。
「棟方の落書きですよ。」
と答えると、
「ふーん。」
とうなって眺(なが)めておられた。
しばらくして大谷大学で、清沢満之先生生誕百年の記念講演会がおこなわれ、鈴木大拙先生がまず演壇に立たれ、
「清沢先生は今も生きておられる。」
という話をされた。
そのあと曽我先生が演壇に立たれて、
「先ほど鈴木先生が、清沢先生が生きておられるということをおっしゃられたが、清沢先生はどこに生きておられるか?それは宿業の中に生きておられる。
『宿業者是本能、即是感応道交』は私が感得した言葉である。
私はこの心を何とかわかってもらいたいと思い、全国をめぐってお話したが、残念ながら大谷派にはわかってくれる人がいなかった。
たった一人例外があって、棟方志功という画伯(がはく)が、この言葉の真意をまっすぐに受け止めてくれた。富山県福光町の白道舎の二階の落書きにその証拠がある。」
と話された。
(吉田龍象師;口述 太田浩史氏;聞書き)
そんな棟方志功が、僕の母校でもある蓑谷(みのたに)小学校を訪れたことがあります。
以下は、若い頃、蓑谷小学校の先生をしていたうちの母から聞いた話です。
蓑谷小学校での毎年秋の展覧会(文化祭)に、当時、福光に疎開していた棟方志功を呼んで、絵画の審査をしてもらおうということになった。
そして当日、棟方はトレードマークの牛乳ビンの蓋のようなメガネをかけて現れた。
早速、子供たちの作品を見て歩いている時、ある絵の前で足が止まった。
その一枚は、画用紙いっぱいにデーンと獅子舞(ししまい)が描かれていた。
「これはいい。」
と言って、突然絵の前で、
「ピーヒャラ、ピーヒャラ」
と歌いながら、両手を頭上でひらひらさせて踊り出した。
志功の評価をもらった絵は、金賞になった。
その絵の作者は他でもない、少年時代の瀬川石城(せきじょう;本名は正人)さんだったということです。
さすが、世界の棟方、後(のち)に方々で個展を開いて活躍する石城さんの才能を、子供の頃すでに見抜いていたのですね。
※宿業者是本能 即是感応道交…「本能とは動物本能じゃない。我々は皆、如来の本願力(他力)を感じる能力をいただいている。それが宿業の我が身という自覚です。」(櫟暁師 談)
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
-
大東医専物語
入学式
板橋区高島平にある大東医学技術専門学校は、昼は臨床検査科、夜は柔道整復科の二つのコースがあり、柔道整復科は一学年六十名前後で三年制になっている。
全校生徒、教職員、来賓合わせて二百人余りが五階の階段教室に集まり、入学式が行われた。
新任の学校長があいさつで開口一番言った。
「柔整科は臨床検査科と違い、独立開業できるだけあって、返事が大きくて気持ちがいいね。」
その日、自分は名前を呼ばれたら、思いっきり気合の入った声を出して度肝(どぎも)を抜いてやろうと決めていた。これはその当時やっていた武術の影響によるものだったと思う。
ところが、僕にまさるとも劣らない雷鳴のような返事をしたのが他に二人いた。
あとからわかったのだが、一人は、高校時代応援団長をやっていたという千葉さん。もう一人は合気道師範で飯を食っている中野さんだった。
入学式が終わり、裏門を出て学校の角を曲がると、右手の正門の方から新入生の中に見かけた顔がこちらへ歩いてくるのが見えた。軽く会釈したら、彼は僕に気づいて足早に近づいて来た。
都営三田線西台までの十分余りの間、いろいろ話しながらというよりは、彼の柔整についての持論をもっぱら聞き役に回りながら歩いた。
声の張りといい大きさといい、これは大きな返事をしたうちの一人だなと直感した。それが元応援団長の千葉さんとの出会いだった。
彼とは友達になれそうだなと、その時思った。 (つづく)
宅配プチ説法 浄円寺コラム <2> 2020,5,2重共聡
浄円寺の場所
母からは、何度か耳にしていました。
「うちの山があるんだよ。」
「ふーん。」
そう言われても、特に行ってみたいほどの興味は湧かなかったので、そのまま一生行くことはないだろうなと思っていました。
それが思いもかけず、浄円寺コラムを西明地区に配り終わった翌日、浄円寺所有の山に向かっている自分がいました。
四月十九日(日曜)の午後、地元の稲塚嘉輝(よしてる)さんが三枚の地図を持って現れました。
地図を指しながらの一言一言は説得力があり、それまで漠然(ばくぜん)としていたことが、霧が晴れるようにはっきりしていきました。
それは次の二点です。
-
移転前に浄円寺があったと思われる浄円寺所有の山の位置。
-
山号は『矢谷山』。
場所は、東西原へ上る道路の大谷々橋手前を右折して細道へ入り、梅園に続くリンゴ園が途切れたところにある山道『やだに谷線』を、山中へ500mほど入ったところに『10-15浄圓寺』と明記されていて、その一帯は『矢谷々』となっていました。
翌日午後一時過ぎ、引きつけられるように、何の準備もせず普段着のまま地図を片手に山に向かっていました。
入口に着くとチェーンが掛かっていて、立入禁止の看板と熊の絵の看板が目に飛び込んできました。
ここに間違いないことを地図で確認して、チェーンをまたぎ両側からうっそうと杉林がせまる山中に足を踏み入れました。歩を進めていくうち、最近は誰も入っていないことが解り、禁断の領域に入った緊張感が背筋に走りました。
…そしてとうとう、「冬眠から醒めた熊に襲われたらどうしよう。」という恐怖感には勝てず、100m入ったところで引き返してきました。
週間天気では翌日の午後しか晴れマークがなかったので、明日しかないと思い、ナチュラリストとして地元の山のガイドをやっている段條寺(だんじょうじ)の住職に連絡をとって同行をお願いすると、二つ返事で引き受けてくれました。段條寺は近隣の大鋸屋(おおがや)地区にあり、うちの祖父の代からおつき合いがあります。
午後一時半近くにジープで現れた段條寺住職の今井さんは、いつもの法衣姿とは一変してすっかり山のいでたちになっていて、さすが山のプロだなと思いました。
入口のチェーンを外して、ジープで車一台やっと通れる山道を上っていくのですが、初めての道のはずなのに、涼しい顔でぎりぎりの所をスイスイとハンドルを右に左に切って行くため、カーブで車体が傾くたびに、「脱輪して脇を流れる川に転落するんじゃないか。」と生きた心地がしませんでした。
「危ない!危ない!」
を連発しているうちに、車が停まったと思ったら、
「着いたよ。」
と言われました。
出発前に地図を一瞥(いちべつ;ちょっと見る)しただけなのに…下りて確認すると、どう見ても目的地に間違いないので、脱帽するしかありませんでした。
さらに車で右へ少し入った所に、丸太で組んだ登り口らしき階段があったので、下車してのぼることにしました。
嘉輝さんの立てた仮説(かせつ)『浄円寺跡は、その辺(あた)りが平らになっている。』をもとに、送電線の鉄塔まで約30~40分かけて探索しながら上りました。
「昔のことだから、信仰の対象として祠(ほこら)のようなものがポツンとあっただけじゃないですか。」
と言うと、
「近くに真言宗だったお寺もあるし、修験者が(浄円寺で)寝泊まりしていたのだろう。」
と今井さん。
「サクッ、サクッ」
ミルフィーユ(ケーキの一種)のように分厚く重なった枯(か)れ葉を踏みしめながら上っていくと、それらしきスポットが何ヵ所か見あたりました。
予報通り午後から雲が切れて来て、あちこちでウグイスの鳴き声が山に反響していました。
「チリーン、チリーン」
今井さんの腰に付けられた熊よけの鈴の音もバリヤーを張るように響いていました。
「熊、出てきませんねー。」
と言うと、
「どこかで(鈴の音や話し声を)聞いているよ。」
と返ってきました。
鉄塔の下まで辿(たど)り着いたので、一息つくことにしました。
眼下には砺波平野の散居村が広がり、まさにここでしか見られない絶景で、それまでの疲れをつかの間忘れさせてくれました。
そして下山。
道すがら、人知れず咲く山野草の説明に知的好奇心が刺激され、想像以上に楽しい時間が過ぎていきました。今井さんがナチュラリストに忙しそうな訳がうなずけました。
それにしても60代の自分より10才も上なのに足取りは軽く、証拠写真のシャッターを切っていると、アッという間に引き離されてしまいます。
下りのドライブは、上りの時よりスピードアップしたように感じられ、ふたたび、
「危ない!」
を連呼していました。
山のプロをお願いしたのは大正解でしたが、結局怖かったのは熊ではなく、手に汗握る運転の方でした。
自宅に着いた時は二時四十分を回っていました。
諦(あきら)めていた浄円寺の山。想像と実際とは大違いでした。
当時のことが、ますます知りたくなりました。