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       宅配プチ説法 浄円寺コラム           2020,4,18重共聡

 はじめに

 新型コロナ禍にあって経済が落ち込む中で、逆に繁盛している職種があります。

 それは宅配ビザの店。クリスマスを上回る景気だとテレビで放映していました。

 これにヒントを得て、月忌参りを自粛することになったこの機会に、西明地区の皆さんと浄円寺とをつなぐ伝言板みたいなものを始めてみようかなと思いました。

 名付けて『宅配プチ説法 浄円寺コラム』。

 コラムとしたのは、明智ゼミナールという看板を掲げて学習塾をやっていた三十代の頃、発行していた父母通信が「明智コラム」だったからです。

四十代に入り、「太極コラム」と衣替(ころもが)えして太極拳の仲間に送ったり、職場(整形外科)の休憩室に置いたりして、半(なか)ば無理やり(笑)読んでもらっていました。

 そして、お寺を継いで十三年経った今、「浄円寺コラム」として復活させ、気の向くままに発信していきたいと思っています。

どうかおつき合いのほど、よろしくお願い致します。

 

 

浄円寺の歴史

 開基、淨圓(じょうえん)は文明五年(一四七三年 戦国時代)、本願寺第八代蓮如上人が北国へ巡杖の折、上人に帰依し弟子となり、明応七年(一四九八年 戦国時代)十一月、本山にて道場役となり、道場を許可され西明に居住した。

 以来十一代相続の後、文政八年(一八二五年 江戸時代)第十二代常善が、東砺波郡池尻村真光寺の寺中(下寺)として、同年八月十七日、本山より「浄円寺」の寺号を与えられる。

 村人の伝えによると、「八谷山浄円寺といい、現地よりももっと山沿いにあった」そうである。現浄円寺は山号を持たないが、八谷という名は東西原へ行く途中にあり、そこからついたものであろうか。

 現御堂は弘化二年(一八四五年 江戸時代)に再建され、昭和三十二年に増改築されたものだが、唐狭間(からさま;本堂の欄間)、外陣の角柱八本など一部建具類は改築前(弘化二年当時)のものと考えられている。

 明治、大正と三浦家が当寺の住職であったが、静全の孫、静照が医者を志し、当寺を後にした。そのため大正年間に一時廃寺となり、その際、諸記録が散逸(さんいつ)した。

 大正八年末に福光の高畠(たかばたけ)に住む重共清松(せいまつ;正念と親しまれた)が二十九才で住職として入寺し浄円寺を再興した。正念(しょうねん)は声明、説教に優れ、青少年の教育にも尽力した。

 

プチ説法

 四月八日、お釈迦様の誕生日に、ニューヨークから一通のメールが僕のパソコンに届きました。

 友人の名倉幹(なぐらみき)さんからでした。

彼は真宗大谷派の北米開教使で、現在ニューヨークで布教活動をしています。時々教えについて自身の見解を述べた『親蓮坊通信』を発行しています。

 今回は最新号で、一部を抜粋して紹介させていただきます。

 

 新型コロナウイルスの蔓延(まんえん)で世界中が恐怖と不安と混乱の只中(ただなか)におかれていますが、小生がおりますニューヨークでも毎日異常な勢いで感染者が増え、そしてどしどしと人が死んでいます。

 そのような中で、日本にいる大学生の甥(おい)が心配してLINEでメッセージを送ってきました。

甥「ニューヨークめちゃくちゃヤバい状況やって聞いたけど大丈夫か?」

私「毎日1万人ずつ感染者が増えて、医療が追いつかず、どしどし死んでいる。明日は我が身や。つねさんもずっとこもらざるを得ない状況や。」

甥「大変や。日本も今が瀬戸際という状態。とにかく最大限の対策してね。二人の健康を祈っとります。」

私「ありがとう。つねさんもわても死ぬ覚悟は出来とる。」

甥「嫌やでそんなん。」

私「誰かて、普段から死ねる覚悟をいただいておくことが、最も健全なことやで。それが仏の教えです。そしたら、ほんまに今を丁寧に大事に生きれるようになります。」

 

つねさんとは現在94歳の老婦人で、7年半前にニューヨークに渡ってまもなく出遇い、その後私をご自宅に迎え入れてくださり、爾来(じらい)生活全般のお世話になっている大恩人です。

私ども人間は普通死ぬということを不吉なこと、考えるのも嫌なこと、というふうに忌(い)み嫌いますから、甥が「嫌やでそんなの。」と嘆(なげ)くことも道理であります。

しかし、果たして死はそのように忌み嫌うものであり、敗北でありましょうか?

この世に生まれてきた以上、一人残らず押し並(な)べて死ぬことは決まっておる。つまり定まった業(ごう)であり、自然の帰結でありますから、

「自分も遅かれ早かれ死ぬんだなー。」

という根本問題に今元気なうちに面と向かって取り組み、宗教的に解決しておくこと、つまりいつ死ぬご縁が来ても死んでいける安心の世界を普段からいただいておくことが、きわめて健全なことではないかと、私自身いつも仏から問われておるのであります。

                         『親蓮坊通信』2020,4,8号より

いかがでしたか?

いつもはフタをして後回しにしているけれど、いつかはイヤでも直面しなければならない自分自身の死の問題。今決着をつけておけば、あとの人生変わってくるんじゃないでしょうか。

 

  

<連載企画>

医療・介護の世界に足を踏み入れて

 この企画は、僕が三十九才で医療の道を志し、資格を取るために入った専門学校、そしてスキル(技能)を磨くために勤めた医療現場や介護の施設で悪戦苦闘していた四十代を描いた自伝的エッセイです。

 

  • 大東医専物語

 入学試験「変わりもんだねー」一九九二冬

 卒業まであと四カ月にせまった最終学年の秋、学内口頭試問(実技審査)が行われた。

 前の組の審査が始まったので、僕はパートナーのSさんと控室から廊下へ出て、A会場入口にある長椅子に腰を下ろし、次の出番を待った。

「入試の時も、面接はA会場でしたよ。」

と言うと、呼び出し係をしていた事務の西山さん(二十代男性)は、

「もう三年になるんだ。早いねー。」

と感慨深げだった。

 三年前、つまり平成四年二月の大東医学技術専門学校、柔道整復科入学試験の面接試験会場も、同じ場所だった。

 前日、学科試験が終わり、翌日結果発表。その日のうちに面接が行われた。

 学科試験は国数英の三科目で、当時学習塾をやっていた自分にとってはちょうど都合がよく、特に受験に備えてやったことといえば漢字の読み書きくらいだった。

その日の廊下には西山さんじゃなく若い女性が立っていた。目がつり上がったところがちょっと藤圭子(※)に似た美人で、柔整というイメージからは意外な気がしたが、かえって入学に対する闘志が湧(わ)いてきた。 

 A会場のドアを開けると、正面に二人の面接官の先生が座っていた。どちらも入学案内のパンフレットで見知った顔だ。

 志望動機や経歴について尋ねられ、準備していた文句を並べていた時突然、年上の方の先生が言った。

「変わりもんだねぇ。」

 確かに、三十九才で進路変更を目指そうとする僕の経歴は変わっているが、それにしてもその先生の口から漏(も)れるのは、

「変わりもんだねー。」

という言葉ばかり。

 もう一人の穏やかそうな先生も、

「今からやっても一人前になるまで十年はかかるよ。」

と悲観的なことを言う。

 こちらも受かりたい一心で苦しい理屈をつけて弁明していたが、ドアを開けて廊下へ出た時は、入る前とは大違いで敗残兵のようになっていた。

 この藤圭子似の美人にも会えなくなるのかと思うと残念だったが、それ以上に、

「これからどうしよう…。」

という思いが重くのしかかってきた。

学習塾は二月いっぱいで閉じることをすでに決め、講師の先生達にも了解を得ていたし、かといって滑り止めの学校はどこも受けていなかったからだ。

 

 発表までの三日間は落ち着かなかったが、当日になると不思議と肚(はら)が据(す)わってきた。昼過ぎに合格通知が届いた時は、目の前がパーッと開けたようでうれしかった。

 戸外へ出ると青空がいっぱいに広がり、頬をかすめていく風に春の気配が感じられた。

                                  (つづく) 

                

※藤圭子(ふじけいこ)…演歌歌手。宇多田ヒカルの母。

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