真宗大谷派 浄円寺
93
浄円寺コラム<93> 2023,10,28重共聡
<スポーツの秋特集>
ささやかな人生のハイライト1967秋 (その二)
コーチとして来てくれているエダ君のお兄さんとオオニシさんが、よく陸上の雑誌を見ながら話し合っていた。
二人の指導を受けながら、走りに対する見方が変わっていった。
ある日のこと、長距離走が学年で一番のM君がグラウンドに併設(へいせつ)されたコンクリート製の階段状観覧席を走っているのを見て、エダ君のお兄さんがポツリとつぶやいた。
「ありゃ持久走(じきゅうそう)だな…」
それを、たまたま耳にした僕は心の中で思った。
「えっ!持久走じゃいけないの?」
そのことが解るまでに、二十年かかった。
三十代の頃、JR山手線千駄ヶ谷駅を下りて、国立競技場のそばを歩いている時だった。後方から、
「タッタッタッタ!」
という規則正しい軽やかな足音が耳に入ってきた。思わず振り向くと、数人のランニング姿の学生が競技場の正門から出て目の前を颯爽(さっそう)と駆け抜けていった。
その姿を見てある種(しゅ)芸術的な美しさを感じた。同時に、正しい走り方とはこういうことをいうのだなと思った。テレビで見るのと実際に見るのとじゃ、全然違うなと思った。
リオ五輪の男子400mリレーで日本チームが銀メダルを取った時、バトンパスが注目された。
アンダーハンドパス。
普通のバトンパスは、渡す相手が後方に伸ばしている手のひらに、上からバトンを置く形をとっている。ところが、日本チームだけは下から相手の親指と人差し指の間に入れていた。それがアンダーハンドパスだ。
それをリオの49年前、エダ君のお兄さんとオオニシさんの提案で僕らはやっていたのだ。最初は普通のバトンパスだったが、途中からアンダーハンドパスに切り替えた。
そのやり方で、自分たち城端中学のリレーチームは、県大会で連勝していた。
僕の専門のハードルもオオニシさんの指導のおかげで、徐々にタイムが伸びていった。
「飛ぶんじゃない。またぐんだ。」
と言われた。飛ぶと空中に浮いている分、時間をロスするからだ。
「ターン・タ・タンタン、ターン・タ・タンタン」
ハードル間を走る時のリズムは、今でも耳の底に残っている。
ただ、ぎりぎりの高さで通過するので、引き足の左膝をハードルによくぶつけるようになった。
女子と並んで競走することもあった。僕はハードルを使い、女子はハードルなしで走っていた。
練習は次第にハードになった。闇(やみ)が辺りを覆(おお)い始める頃、くたくたになった体で仕上げに150mを三本流して(七~八分(ぶ)の力で走って)終了するのが決まりになっていた。
ある日のことだった。
練習を終えてトイレへ入った時、
「えっ?!」
と思った。尿がいつもと違うのだ。
褐色でドロドロしていた。
今だったら青くなって病院へ駆け込むところだが、中学生の僕は特に気にとめることもなくほっておいた。
二日目、三日目と次第に色が薄くなり、四日くらいで透明な尿に戻っていた。
その時は解らなかったが、今思うとハードな練習で毛細血管が切れたのだろう。
今年(2023年)の世界陸上男子110mハードル決勝で日本人初の五位入賞を果たした泉谷(いずみや)駿(しゅん)介(すけ)選手が、
「スタートした瞬間、両足がつってかなり焦(あせ)ってしまったが、気合(きあい)で走った。」
と言っているのを聞いて、
「僕だけじゃないんだ。」
と思った。というのは、中三になったある時期からスタートの瞬間、両脚(あし)が硬直(こうちょく)するようになっていたからだ。
原因は解らない。いくら直そうとしても、ヨーイ・ドンでスターティング・ブロックを蹴ろうとして脚に力を入れた瞬間、筋肉が固まって動けなくなってしまうのだ。
つまり、始動がワンテンポ他の選手よりも遅れるようになった。これは、郡(ぐん)レベルの大会では問題なかったが、県までいくとちょっと致命的だった。
僕たち中三の最後の大会は、富山県の中学選手権だった。80mH決勝に残った僕は、
「位置について!」
で両手をつき前方を見た時、
「あれっ?」
と思った。
コースに並べられたハードルが、いつもより低く見えたのだ。そう思った転(てん)瞬(しゅん)、号砲が鳴った。
反射的にスターティング・ブロックを両足で蹴ろうとしたが、その時もスタート姿勢のまま両脚が固まってしまった。
何とか一歩踏み出した時は、みんなの背中を追う形になった。
ただ、ゴールの瞬間は自分の前に一人しかいなかったので、二位か三位に入ったなと思った。ところが、左右を振り向いて初めて気がついた。他の選手たちも自分と横一線になってなだれ込んでいたのだ。
結果は六位だった。これが僕にとっては唯一記憶にある公式大会の個人成績になった。
でも今から考えると、六位というと聞こえはいいけれど、当時は六人で走っていたから、つまりはゲット(最下位)だったんだなと思った。
そして、エダ君が抜かれるのを初めて見た。
100m決勝のゴール付近にいた僕は、エダ君を尻目(しりめ)に悠(ゆう)然(ぜん)と目の前を駆け抜けていく他校の選手を見て、上には上があるもんだなと思った。
ハードルが低く見えるという経験は、その時が最初で最後だったが、調子のいい時は低く見えるんだなと思った。
三年次に城端中に異動してきた校長が、僕たち陸上仲間の活動を見てくれていたのか、それまで学校には一人分のハードル8台しかなかったのが、廃品回収で貯(た)まったお金で、五人分40台のハードルを購入してくれた。
放課後、それに自分たちでペンキを塗った。バー(横板)の部分は白地に黒線、フレームは緑にした。
そのお披露目が、中三秋の体育祭だった。
僕たち陸上の練習仲間五人は、城端中学校グラウンド百メートル走のスタートラインに立っていた。
目の前には、新品のハードル五人分40台が並べられていた。
「位置について!」
両手をつきながら思った。
「エダ君に抜かれるとカッコ悪いな…」
「バーン!」
号砲とともにスタートをきった僕は、ハードル二台目あたりで、
「これはいけるな。」
と確信した。
トップでテープをきり、面目(めんもく)を保つことが出来てホッとした。
今思うに、場内アナウンスでスタートラインに立つ選手を紹介するという粋(いき)な演出を誰が思いついたものか、いずれにしても、人前が苦手な自分にとってささやかなスポットライトを浴びた瞬間だった。
大会がすべて終わり、陸上から離れた時一番に思ったのは、
「もう痛い思いをしなくていいんだ。」
ということ。
ギリギリの高さで通過するため、左膝をハードルのバーにぶつけるようになると、その箇所が次第に腫(は)れ上がっていった。選手生活終盤(しゅうばん)には、一度ぶつけただけで激痛のあまり走れなくなるほどになっていた。
その後高校に進学した僕は、再び帰宅部に戻った。
平成十八年、お寺を継ぐため二十一年ぶりに首都圏から富山県にUターンした。
地元に少しずつ溶け込み始めた頃、給油に立ち寄ったガソリンスタンドの看板が「オオニシ石油」となっていた。
そこが、コーチをしてもらったオオニシさんが創業したスタンドだと知った時、あのオオニシ先輩だったらあり得るなと一人うなずいていた。
(終わり)
生き仏様(その三)
「おじいさん、あんたを生き仏じゃと思うとるんじゃけん、仏様に仕(つか)えさしてもらう心じゃけん、遠慮しなさんなよ。」
と言うたら、
「すみませんのう。」
言うので、
「いや、そがいなことも言いなさんな。時に、ボツボツ昼も来る。晩も来る。おじいさん、どこへも行きなさんなよ。してみたら、毎日のことじゃけんのう。何もかも聞いとかんにゃいけんけん(聞いておかないといけないので)。何が一番好きで、何が一番嫌いかのう。」
「食べるものは言うたら、嫌いなものはないが、先生さん、歯が悪いけん、歯がないけん軟らかいものがええでがんす(軟らかいものがいいです)。」
「そうかのう。それじゃお粥(かゆ)が一番ええのう。」
言うたら、
「はぁ、お粥にこしたことはないが、先生さん、そう言うてつかさるけん、みんな言うが、うどんも軟らかくてツルッとしていてようがんすで。」
「ほんま(本当)よのう。ほんなら、うどんを時々あげましょうのう。」
言うたら、おじいさんが、
「うどんはのう、先生。牛肉の汁で食べるのが一番うまいけん、それに卵でも入れりゃなおさらでがんす。」
(つづく)
[次号11月11日]