真宗大谷派 浄円寺
87
浄円寺コラム<87> 2023,8,5重共聡
ある疑惑
三十代の初め、結婚して間もない頃だった。
高岡市鐘紡(かねぼう)町(ちょう)のマンションで新婚生活をスタートした僕は、久しぶりに妻と二人で僕の両親のいる西明の実家を訪れた。
車を境内に停め、正面玄関から中へ入った。
居間で腰を下ろそうとすると、向こうの方から、
「サトシ、ちょっと…」
と言って、手招きする母の姿が目に入った。
どうも僕だけこっそり呼んでいるようなので、母の後をついて隣りの部屋へ足を運んだ。
「こんなもん届いとったよ。」
母が一通の封書を差し出した。
それを見た途端、
「ははぁー。」
と思った。
さっきの母の様子が腑(ふ)に落ちた。
封書の差出人は「西井法律事務所」となっていた。
高校の同級生の西井君からだった。
卒業以来会っていないのだが、弁護士になって金沢市で事務所を開いた挨拶状だった。
高校のときから口が達者だった彼ならありうると納得した。
そのことを説明すると、母はホッとしたようだった。
そういえば、結婚する前に母が言っていた言葉を思い出した。
「身辺(しんぺん)をきれいにしとかれや。」
その頃、僕が太極拳をやっていることに理解がなかった両親とはあまりコミュニケーションが取れていなかったが、それにしても息子を信用していないんだなと思った。
変換 絶望の果てに
今回は鈴木章子(あやこ)さんという方の手記(しゅき)を紹介させていただきたいと思います。
鈴木さんは北海道在住、四人の子を持つお母さんでしたが、ガンのため47歳で亡くなります。
この手記には、ガンを宣告されてからの心境の変化、絶望から感謝の気持ちへの心の転換が克明(こくめい)に描かれています。
ガンだとわかった時、実家のお寺で住職をしている80歳を過ぎた父親から手紙が届きました。
その手紙にはこう書いてありました。
「あなたは一体何をドタバタしているのか。
生死はお任せ以外にはないのだ。人知(じんち)の及ばぬことは全てお任せしなさい。生死はあなたが考えることではない。
自分でどうにもならぬことをどうにかしようとすることは、あなたの傲慢(ごうまん)である。ただ事実を大切に引き受けて任せなさい。」
そういう内容でした。
そして、父親の方が先に亡くなりますが、亡くなる二日前に章子さんに次のように言っています。
「帰るところは皆一つだぞ。安心して…」
そんな父親の言葉に触れて章子さんは次のように言っています。
「私がガンになり、その後、父母が亡くなったということは、世間からみれば不幸続きということで皆さんが気遣(きづか)い慰(なぐさ)めてくださるのですが、私にとっては悲しみとは別の充足感がありました。
別離の悲しみは勿論(もちろん)ありましたが、それにもまして父母が還(かえ)っていった大いなる生命の故郷に灯りがポッとともった感じで、
『いつでも還っておいで、待っているよ。』
という声が聞こえて木を見ても、山を見ても、雲を見ても、その息遣いが聞こえるという不思議な世界に今います。いろいろなものに護(まも)られているという充実感でいっぱいです。
父母が亡くなったという悲しみよりも、私のために故郷に灯りをつけに還ってくれたのだと思われて、父母の死は感謝の死でした。
自分の生き方や死を問わずにはいられない、このガンという病気を賜(たまわ)ったことを感謝しています。
病(やまい)に導かれ、死を見つめ続けたお陰で「今(こん)現在(げんざい)説法(せっぽう)」の法座に座らせていただいたこの幸せ、まことに如来の摂取不捨(せっしゅふしゃ)(救い取って離さない)の不思議さを身をもっていただいたことであります。」
と述べています。
それはどんな心境なのかと問われると、
「運転席から助手席に移らせていただいた心境です。」
「良き運転手に巡り合えて、もう安心です。」
と言っています。
そして、このような詩を作っています。
『変換』と題して、
死にむかって
すすんでいるのではない。
今をもらって生きているのだ。
今ゼロであって当然の私が
今生きている。
引き算から足し算の変換
誰が教えてくれたのでしょう。
新しい生命
嬉しくて 踊っています。
「いのち 日々あらたなり」
うーん わかります。
こういう詩です。
そして昭和六十三年十二月に書いた詩が絶筆になりました。
念仏は 私に
ただ今の身を
納得して いただいてゆく力を
与えてくださる。
この手記を読んで、筆者鈴木章子さんの思いに圧倒されると同時に、真宗の素晴らしさを改めて具体的に感じています。
(この文を闘病中のトモちゃんにおくります)
[連載企画]
太極の世界に足を踏み入れて<青春編>
スタート
「雪解けの頃には、誰もいなくなるかも知れないね。そしたらしかたがないとして、それまでとにかく頑張りましょうよ。僕は毎回来ますから。」
ヨガの先生のSさんは、そう言ってなぐさめてくれた。
その年、つまり昭和五十五年の冬は十二月にすでに一冬分の雪が積もり、観測史に残る大豪雪となった。
七月からスタートした太極拳教室の会場である富山市神通川のほとりにある錬成館は雪に埋もれ、毎週金曜夜の練習日にはスタッフだけという日も出てきた。
スタート時はSさんのヨガ教室の生徒さんたちや、すでに知り合っていた青木さん、宮本さんら十人ほど参加していた。それが、寒さが厳しくなってくるにつれ、櫛(くし)の歯が抜けるように一人二人と減っていった。
こちらの教え方も、テキストと首っ引きで、
「左足を前に出して、右足を半歩寄せて…」
ということの繰り返しだから、習う方はたまったものじゃなかったろう。
ところが、そんな僕をヨガのS先生がほめてくれたことが、ひとつあった。
練習を始める時の、
「じゃ、やりましょうか!」
という声をかけるタイミングが実にいいと言うのだ。
そう言われてもピンとこなかったが、それからは、
「じゃ、やりましょうか。」
の掛け声は意識して気合を入れるようにした。
(つづく)
[次号 8月19日]