真宗大谷派 浄円寺
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浄円寺コラム<86> 2023,7,22重共聡
ゼロチーム
昭和三十九年四月、自分たちの蓑谷(みのたに)小学校は町の城端(じょうはな)小学校に吸収合併された。
その年、僕は六年生になっていた。一クラスから三クラスとなり、環境がガラリと変わって刺激的な学校生活がスタートした。
そして小学校最後の夏休みに入った。八月に開催されたのが「少年少女ソフトボール大会」だった。
城端小学校では毎年の行事だったのだが、自分たちにとっては初めてだった。
場所は町営グラウンドで、広い敷地の四隅にホームベースを置いて四試合同時進行していたと思う。
旧蓑谷小学校の自分たちは、蓑谷、細野、西明・東西原地区で三チーム作った。旧城端小学校下でも各地区ごとにチームを編成し、合わせて十六チームは参加していたと思う。
ただ、この大会には独自のルールがあった。
一チームに女子を二(三?)人入(い)れること。
今でこそ、テニスやバドミントン、卓球などにミックス(混合)ダブルスの種目が当たり前になってきているが、当時は革新的な試みだったと思う。
当日は真夏の青空が広がっていた。
西明チームをサポートしてくれたのは、イサオの長兄のマサンドさんだった。父母がわりにチームに随行(ずいこう)し、飲み物や軽食を差し入れてくれた。
僕はピッチャーで、二学年下のシゲルとバッテリーを組んだ。なぜピッチャーだったのかというと、左投げ(右打ち)で、当時としては珍しかったからだろう。
その日は調子がよく、ほぼシゲルの構えた通りミットにボールが収まった。
女子ではナリコが二番に入った。
一回戦と二回戦(準々決勝)はコールドで勝ち進み、準決勝も突破してとうとう決勝まできてしまった。
その頃には日没が近づいていた。
決勝戦は接戦になり延長に入った。その回で決着がつかず二度目の延長で相手の裏の攻撃の時だった。
僕は四連投で疲れがピークに達していて、勝とうという気持ちよりも、もう終わりたいという気持ちの方が強かった。
二塁走者がいる状況で同じクラスのミワコが打席に立った。雑巾(ぞうきん)のようになった身体で投じた最後の一球は、おあつらえ向きのコースへ行ってしまった。見事にサヨナラヒットを打たれてゲームセット。
女子に打たれたくやしさよりも、もう投げなくてすむ開放感の方が大きかった。
その日は、僕にとってすべてを出し切ったとても充実した一日になった。そして、ゼロチームのレベルがどのくらいなのかはっきりした。
僕の記憶が正しければ、その夜、自転車での帰り道、蓑谷小学校のグラウンドに立ち寄って、みんなで天体望遠鏡を覗いた。満天の星空を眺めながら、熱戦後の余韻(よいん)に浸っていた。
なぜだか、ソフトボール大会とその夜の天体観測がセットで記憶の底にインプットされている。
中学へ入る頃には、興味はソフトボールから(軟式)野球に移っていた。
トシオがキャプテン的な立場で、僕は試合の後半をリリーフで投げていた。
中一の頃だったと思うが、われらがゼロチームと城端中学の野球部が対戦する話が持ち上がった。
結局実現することはなかったが、ある日、学校の廊下で野球部顧問のニワ先生とすれ違った際、
「重共君、うちの部に来ないか?」
と言われた。
その時どう返したかは忘れてしまったが、帰宅部を決めていた自分が、思いがけないその言葉に、嬉しさを学生服の袖(そで)に包んで歩いていたのを覚えている。
その後、ゼロチームで自己流のシュートを投げすぎたため、左肩を壊してしまった。一球投げただけで激痛が走るようになった。
白球にかけた少年時代は、中学卒業とともに幕を閉じた。
バッテリーを組んでいた二学年下のシゲルは城端中学の野球部へ入り、レギュラーとして活躍した。
黄門式プログラム<4-2>
6.結論(その一)
こころの正体は?…我執(がしゅう)からくる妄念、妄想。
自分の心なんて全くあてにならない。ふり回されっぱなしで、もてあましてばかりいる。
この身は宿業を一身に受けて忠実に従っているのに、心が背(そむ)いて いる。(圓明)
7.結論(その二)
自分の姿は?…間違ったものの見方(顛倒(てんどう))をして苦しんでいる、罪悪深重、煩悩熾(し)盛(じょう)の凡夫。
間違ったものの見方をしていることに気づかず、罪を犯し悪を犯して生老病死の苦しみを重ねている、煩悩が激しく燃え盛っているお粗末な人間。
条件次第で何をするともしれない私です。(櫟(いちい)暁(さとる)師)
8.教えの言葉[真宗聖典]…妄念はもとより凡夫の地体(じたい)なり。妄念の外(ほか)に別の心もなきなり。(源信(げんしん)僧都(そうず)[日本]七高僧の六番目)
妄念はもとより凡夫の本質です。妄念以外に別の心はありません。
自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、こう劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離(しゅっり)の縁あることなき身としれ。(善導大師[中国]七高僧の五番目)
私自身は今このように罪を犯し悪を犯して生老病死の苦しみを重ねているお粗末な人間です。気の遠くなる昔から今に至るまで迷いに迷って、救われる手がかりのない私であるということを肝に銘じなければなりません。
賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。(親鸞聖人;歎異抄)
うわべはさも賢そうにふるまっているけれど、中身は空っぽでしかない、まことに情けない自分です。
浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし。(親鸞聖人)
浄土真宗に帰依したけれど、自分の中にまことの心はありませんでした。嘘いつわりに満ちたわが身であって、清らかな心も尚更ありません。
凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむこころおおく、暇なくして臨終の一念に至るまでとどまらず、消えず、絶えず。(親鸞聖人)
凡夫というのは、煩悩まみれの我が身のことで、欲望におぼれ、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心が満ちあふれていて、死ぬ間際まで休むことなく盛んです。
[連載企画]
太極の世界に足を踏み入れて<青春編>
武道家の青木さん
ここで、富山県での太極拳活動を一緒にやっていくことになる、空手家の青木拓磨(たくま)さんとの出遇いについても述べておきたい。
ある日帰宅すると母が、
「富山の何とかいう人から電話かかっとったから、連絡してみて!」
とメモを渡したので、さっそくダイヤルを回した。
ちょうどその頃出版された三浦先生の著書『太極拳健康法』の各地区連絡先の欄に僕の住所が載っていた関係で、ポツポツ問合せが来始めていた。
青木さんもそれを見て電話したのだという。僕は当時、ある拳法をやっていて(むしろそっちの方にウェイトを置いていたのだが)、空手と拳法の違いはあるけれど、同じ武道だし段位も一緒なので、彼とは話が合うかもしれないという予感がした。
さっそく今度の日曜に会おうということになり、県民会館1Fの喫茶店に午後一時と
約束した。
当日、早めに行って窓際の席で入口に注意を向けながらコーヒーを飲んでいると、パーマをかけ、あずき色のジャンパーを着た青木さんが、目印である赤表紙の『太極拳健康法』を手に現れた。僕に気がついた彼はニコッと微笑んで近づいてきた。
話をしてみて驚いた。
青木さんは日本の古武道にやたら詳しいのだ。今は武道雑誌などで一般的になっている武田惣(たけだそう)角(かく)(※)の名は、その頃の自分は全然知らず、聞いてもピンとこなかった。へー、ホーと感心してうなずくばかりだった。
それから近くの錬成館へ移動し、剣道場の板張りで二十四式をやってみせた。青木さんは正座して見ていたが、目の肥(こ)えた彼がどう思って見ていたか、今思い出しても冷や汗がでる。
七月頃から教室を始める予定で、はっきりしたら連絡すると再会を期して別れた。
富山へ戻って四度目の夏を迎えようとしていた。
太極拳を普及しようなどという気持ちはこれっぽっちもなかったのだが、いつの間にかごく自然に出会いが進み、自分はその流れにのり始めていた。
※武田惣角…大東流合気柔術の中興(ちゅうこう)の祖。小柄だったが超人的な遣い手だったといわれている。道場を構えず、全国を旅してその先々で講習会を開いた。門下生の中に合気道の開祖植芝盛平がいる。
(つづく)
[次号 8月5日]