真宗大谷派 浄円寺
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浄円寺コラム<84> 2023,6,24重共聡
人生は出遇い<その八>
幹部研修のプロフェッショナル
東京の魅力は、何といっても人との出会いにあると僕は思う。
そして、たまにとんでもない人物に出くわすことがある。
僕が原口(はらぐち)さんと出遇ったのは、三十三歳で一念発起(いちねんほっき)して富山県から埼玉県川口市へ生活の基盤(きばん)を移し、職探しをしている頃だった。
時間は有り余っていたので、太極拳の仲間と交流しようと住まいに近い教室を調べてみることにした。
当時、僕の所属していた太極拳協会の川口会場は、JR蕨駅(わらびえき)を下りて徒歩六、七分の芝(しば)南(みなみ)公民館にあり、毎週日曜の午前中に活動していた。
早速のぞいてみると、二十名くらいの会員たちが型をやっていた。僕は準備体操と整理体操の時はみんなの輪に加わって、あとは一人で稽古していた。
ところがもう一名、ひとりで練習している男性がいた。
それが原口さんだった。練習が終わって帰り支度(じたく)をしていたら、原口さんの方から声をかけてきた。
帰途(きと)にあるファミリーレストランで二時間くらい昼食を取りながら話をしたと思う。
彼は僕より十五歳年上。合気道、空手、太極拳に精通していて、有名な合気道の達人(塩田(しおだ)剛(ごう)三(ぞう)氏)や台湾人の実践太極拳家(王樹(おうじゅ)金(きん)氏)に師事していたと聞いて驚いた。
僕が意外と武術に詳(くわ)しいことが解り、いい話し相手ができたことを喜んでいるようだった。その日は武術の話で盛り上がった。
翌週から、日曜毎(ごと)に芝南公民館へ足を運んで太極拳の稽古をし、原口さんと昼食を共(とも)にするのが恒例になった。
その後独立する原口さんは、当時、大手ビジネスコンサルティング会社に勤めていた。彼は経営幹部研修のプロで、能力開発、組織活性化、競争戦略を手(て)掛(が)けていた。
同じ社員研修でも、新入社員研修などは若手に任せて、原口さんは課長・部長クラス以上の幹部研修を担当していた。
そのため毎週稽古の後(あと)昼食を取りながらの話題は、武術から始まり研修の話に移っていった。
研修の話は自分にとっては未知の世界で、一回数十万円の研修の一端をタダで受けられるという恩恵にあずかっていた。
四十代に入って仕事を探している頃だった。
僕が、仕事が長続きせず、履歴書を作成するのに職歴欄が書ききれなくなったことを嘆いていると、原口さんが言った。
「現代は仕事を変わることは能力があるとみなされる時代で、むしろ同じところにずっといることの方が、その理由を詮索(せんさく)されるよ。」
そのまま自分に当てはめることは出来ないが、それを聞いて気持ちが軽くなったことは間違いない。
こんなこともあった。
僕の作った東京の太極拳の会で、信頼していた仲間たちによる造反(ぞうはん)劇が起った時だった。
一人で考え込んでいても埒(らち)が明(あ)かないので、久しぶりにペダルをこいで青木公園へ行った。
その頃は、練習の場を他流の腕自慢の連中が集まっている川口市青木公園へ原口さんと一緒に移っていた。
一汗かいた後ファミレスで原口さんに会(かい)でのトラブルのことを相談した。すると、開口一番思いがけない言葉が返ってきた。
「重共さん、それは個人的な感情として考えない方がいい。集団が成熟する過程で、必ず現れる一つの現象なのだから。」
それを聞いた時、
「こんな見方があったのか!」
と、目から鱗(うろこ)が落ちる思いがした。同時に個人に向けた感情的な気持ちが薄れていくのが解った。
「どんな集団でも、創(そう)成(せい)期、成熟(せいじゅく)期を経て衰退(すいたい)期に入る。
会を作った最初は、重共さんと他の連中との間に太極拳の力量の差があるので、皆おとなしく従っているが、創成期から成熟期に移行する過程でお互いの力が接近してくると、不満や自己主張を言い出すようになる。
一つの集団の中では、むしろそれが当たり前で、今まで六年間何も起きなかったことの方が不思議なくらいだ。」
原口さんのアドバイスのおかげで、トラブルは収拾(しゅうしゅう)でき、最終的に人間関係も元の状態に戻った。
リーダーの三つのタイプに関する話も耳に残っている。
「歴史上の人物を当てはめると、創成期のリーダーは織田信長、あるいは豊臣秀吉。成熟期(安定期)のリーダーは徳川家康。そして衰退期のリーダーは徳川慶喜になる。」
この例えは即座に頷けた。
さしずめ僕は、創成期のリーダーということになるのかなと思った。
太極拳の会を立ち上げる時は、気持ちがワクワクしてそのことに没頭するのだが、ある程度軌道にのってくると、だんだん熱が冷めてくるのだ。事実、三十三歳で首都圏に出てくる際には、それまで三、四年間やっていた富山市、高岡市、金沢市の会を放り出してきた前科がある。
ちなみに、金沢市の会はその後二十年続いた。そして驚くべきことに、高岡市の会は、四十年近く経った現在でも同じ高岡武道館で毎週練習している。
僕に代わって引き継いでくれた二人の代表は、まさに安定期のリーダーとして適任だったといえる。
三十三歳で上京し、お寺を継ぐため五十四歳で富山に戻るまでの二十一年間、原口さんとのつき合いは続いた。
後半の十年間は、日曜の同じ時間帯に北区滝野川の区民センターで自分の会を立ち上げて活動するようになった関係で、原口さんとの稽古はあまり出来なくなっていた。
たまに会うのは、原口さんが仕事のプランを練るのに使っている川口銀座通りにあるスタバ(スターバックス)か駅前ビルの居酒屋だった。
原口さんはヘビースモーカーで、席を立つ頃には、いつも灰皿に吸い殻の山が出来ていた。
ただある時、先端(せんたん)しか吸ってないことに気がついた。体にいい吸い方をしていたんだなと、変なところに感心したのを覚えている。当時は嫌煙権が今ほどうるさくなかった頃で、僕自身、目の前でタバコを吸われていてもまったく気にならなかった。
富山へ戻ることを決めた時、原口さんから、
「地元へ戻り、お寺の住職としていろんな人たちとうまくやっていくために、この診断は役に立つよ。」
と言われて、数回に分けてレクチャーを受けたプログラムがある。
それは、人間を五つのタイプに分類し、その見分け方と、各タイプの人間への具体的な対応の仕方で、資料を見せながら丁寧に説明してもらった。
僕のような人づき合いが苦手で誤解を受けやすい人間にとって、これがあれば鬼に金棒だなと、原口さんの心遣いに感謝した。
ただ、生まれ故郷の富山県西明地区へUターンして十七年経つが、このプログラムの出番はまだない。
故郷へ戻った翌年、上京して久しぶりに原口さんに会った。そこでビッグニュースが待っていた。
「今度、プレジデントに載ることになったよ。」
プレジデントとは、月二回発行のビジネスマン向け情報誌のことで、以前から知っていたが、自分にはハードルが高すぎるイメージがあって手が出せないでいた。
原口さんってやっぱりすごい人だったんだと、自分のことのように嬉しかった。
発売されると早速書店へ足を運び五冊買い込んだ。
今、手もとには一冊残っている。
原口さん(中央) 筆者(右) 太極拳の練習中(川口市青木公園)
[連載企画]太極の世界に足を踏み入れて<青春編>
一年ほどこういう稽古を続けた後、宮本さんのいとこがやっているという富山市にあるN服飾学院の一室を借りてやることになった。今度は奥さんも一緒で、家族三人の和気あいあいとした雰囲気の中で練習した。
そんなある日、N服飾学院の生徒によるファッションショーのチケットをもらった。
つき合ってくれる相手はいなかったが、暇だったので一人で見に行くことにした。
会場の県民会館大ホールは、生徒の家族や友人たちで予想外に盛況(せいきょう)だった。自分で製作した作品を生徒自身が身に着けてステージに上がっていた。僕は暗がりの客席から、ステージ上を闊歩(かっぽ)する即席のモデル嬢たちに見とれていた。
数年後、同じ舞台で自分が太極拳をやるはめになろうとは、その時は知る由(よし)もなかった。 (つづく)[次号 7月8日]



