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             浄円寺コラム<81>     2023,5,13重共聡

 小さな感動 2006秋

 会社の先輩、溝口さん宅

「これ、重共さんが中国へ行った時のお土産(みやげ)だよ。」

「えっ?!」 

 窓際のソファーに腰掛けた僕は、目の前の小さなテーブルにさり気なく置かれた物体を凝視(ぎょうし)していた。

 

お寺を継ぐため、二十一年間住み慣れた埼玉県から生まれ故郷の富山県南砺市に移ったのは、平成十八年の秋だった。

 少し落ち着いたころ、最初に就職した会社の先輩宅を訪れた。

 溝口さん(※)と言い、出遇いは東京の学校を卒業して故郷へUターンし、地元のアルミ会社へ入った頃にさかのぼる。

 同じ課で、溝口さんは排水(はいすい)処理(しょり)、僕は薬液(やくえき)管理(かんり)の仕事をしていた。

 お互い作業場が孤立していたので、僕は暇なときはよく排水処理の仕事場へ顔を出していた。年齢は親子ほど離れているのだが、気さくで博学(はくがく)な溝口さんとは馬が合い、話を聞くのが楽しみだった。

 二十九歳の時に二週間休みをとって、北京へ太極拳の研修に行った。

三十三歳で会社を辞め埼玉県に移り住んでからは、年賀状のやり取りが中心になった。

 

 その溝口さんを南砺市梅原(うめはら)の自宅に訪ねていき、二十一年ぶりに再会した。奥さんも一緒に迎えていただいた。

テーブルの上に置かれていたのは、ハガキ二枚分の大きさのアクリル製カード立てのようなもので、透明なアクリル板の間に切り絵が丁寧(ていねい)に挟(はさ)んであった。

 中国のお土産だと言われても、四半世紀前のことなので全く思い出せなかった。機械で大量生産されたような切り絵で、どう見ても高価なものとは思われない。

おそらく自分としては、太極拳の仲間達に配るため、安くて中国らしいものにしたかっただけだと思うのだが…。

 

ただ、テーブル上にある丁寧に保存された切り絵を見た瞬間、今まで味わったことのない感情が湧いてきた。

「あんな安いお土産がこんなに大切にされていたなんて…。」

溝口さんの真心(まごころ)が直(じか)に伝わってきて、静かな感動が体内に広がっていった。

 

                           ※溝口さん…浄円寺コラム<5>に掲載。

黄門式プログラム<3> 真宗の視点

「死んだらどうなるのか?」

身近な人が亡くなった時、悲しみの中で、自分もいつかは死んでいく『いのち』、誰

にも代わることのできない『いのち』を生きているということを否応なく知らされます。

そして、

「亡くなったあの人はどこへ行ったのか?」

と問わしめていると思います。それはそのまま、

「私はどこへ行くのか?」

という自分自身への問いかけになるのではないでしょうか?

 そしてその問いは、今は亡くなられた方が命を懸けて、残されたご家族の中に誕生せしめたこころだと思います。

 

 僕は、若い頃は、老い先のことなど全く考えもせずに、人生は永遠に続くものだと思っていました。

ところが、50歳を過ぎたあたりから漠然と人生の終着点が浮かんできて、年々そこに向かってスピードが加速していくように感じています。

 

 人生も先が見えるようになってくると、

「死んだらどうなるのか?」

ということが気がかりになってきます。

 そして、いよいよ死の壁に突き当たると、

「行き先が暗い。」

と嘆かねばなりません。

 誰にとっても「死」は不安で恐ろしい事実であることに違いないと思います。

 

 でも、行き先が暗いのは、決してこれから先に起ころうとすることが暗いのではなくて、ただ今この時が闇(くら)いのではないでしょうか?

「今の生がどこに立っているのか?」

「どんないのちを生き、どこに向かっているのか?」

 つまり、生の全体がはっきりしない。

それが、ただ今の生の闇さとなり、これから先の不安となって脅(おびや)かしてくるのではないでしょうか?

 

 つまり、死ぬことが暗いのではなく、生きているそのことが真っ暗闇(くらやみ)の中にいるということではないか、そう思います。

 そして、そういう自覚が全くないので、ただ漠然と死を恐れているのではないでしょうか?

 

そして「死んだらどうなるのか?」という不安。これに対して親鸞聖人は次のように言っておられます。

「いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんと心細くおぼゆることも、煩悩の所為なり。」

「ちょっと病気でもすると、死ぬのではないかと心細くなるのも、煩悩の仕業(しわざ)です。」

「自分はいつかこの地上から消えしまう。」という誰もが一度は持つ不安や恐怖は、実は煩悩の喘(あえ)ぎだったということです。

死後の世界があるかないか、それが問題ではなくて、そのことを不安に思っている自分そのものに問題があったということです。

 

 私達は、いつも自分を立てて、他人を批判したり、その時その時の出来事に一喜一憂したりして日々を送っています。

 そして、仏教の教えよりも自分の思いの方を大事にし、何事も自分の思いの枠(わく)の中で都合よく解釈しています。

でも、そうではなくて、そういう自分そのものに目を向け、自分を問題にする自分にさせていただくのだと目が開いた時、そこにはすでに、如来の智慧の光明が射(さ)し込んでいるのだと思います。

 

 

太極の世界に足を踏み入れて<青春編>

「おじさん、何やってんの?」

 またか、と思って無視して続けていると、

「おじさん、おじさん。」

としつこい。

 せっかく気分が乗ってきたところに水を差されたのと、おじさんと言われたカチンときたのとで思わず口から出た言葉が、

「ニイハオ!」

だった。続けて、

「チーシー。ズオヨウ、イエマーフェンゾン。」

と、太極拳の形の名称を言いながら近づいていくと、彼女たちは何も言わず、蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げて行った。

 

そうこうするうちにセミの声を聞くようになり、七月に入ったある日、協会から一通の封書が届いた。

 全国講習会の案内と、懐かしい事務の長谷川園子さんの手紙が入っていた。

 その月の下旬、代々木にあるオリンピック記念青少年総合センターで、全国から約百五十人が集まり二泊三日の太極拳講習が行われた。

 僕は二十四式太極拳の形をまだよく覚えていなかったので、有給休暇をとって参加することにした。久しぶりに再会した長谷川さんは、

「まぁ、よく来たわねー。感激だわ!」

と母親のように喜んでくれた。

 昼は二十四式、八十八式、少林拳、推手(トェシォウ)に分かれて練習し、夜は各地の支部紹介があった。三浦先生から、

「富山県代表の重共君です。」

と紹介され、いつの間にか富山県代表にされていた。

「ずっと一人で練習しています。」

と、冷や汗をかきながら言い訳していたのを思い出す。

 現在、太極拳は商業的になっているが、当時は普及活動の意味合いが強く、日本武道館で学んだ学生たちがUターンして各地で仲間を集め、学習会という形で広まりつつあった。

 合宿終了後、三浦先生に、

「有難うございました。」

とあいさつに行くと、

「頑張ってください。」

と言って、頭を膝の辺りまで下げられた。

 親子ほど年齢が違い、政・財界に知人、友人の多い三浦先生が、まだ二十歳そこそこの若造に対してとられた態度に、頭が下がった。

 

 一人、田舎でやっている自分にとって、年一回の全国講習会は唯一学べる機会だった。だから、人見知りする質(たち)で気の進まない時もあったが、開き直って参加していた。

 参加のたびに事務の長谷川さんが、

「まぁー、よく来たわね!」

と喜んでくれたのも励みになっていた。

 一人参加は三年ほど続いた。そんなある日、実家へ一本の電話がかかってきた。

                                   (つづく)

                              [次号 5月27日]

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