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            浄円寺コラム<72>      2023,1,7重共聡

浄円寺ホームページ

昨年末、浄円寺のホームページを公開しました。

素人が作成したため公開がうまくいかず一年間足踏みしていましたが、ITインストラクターの井口真光寺副住職の助けをかりてようやくページ上に表示することができました。これからさらに充実させていこうと思っています。

<スマホ、パソコンでの検索のやりかた> 

  • 「浄円寺南砺市」で検索

  • 写真(杉林)のページにある「ウェブサイト」をクリック

 

はじめに

 埼玉県川口市で学習塾をやっていた三十代の頃、都内にある下高井戸シネマで龍村仁監督の作品「地球交響曲第二番」第一話「森のイスキア」を見て、心を動かされました。

 いつの日かこういうこころみをやってみたいなあと、その時思いました。

その後紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、現在富山県南砺市の真宗寺院の住職を引き継いでいますが、仕事にも慣れてフッと落ち着いた時に、あの映画のシーンが瞼(まぶた)に浮かんできました。

 そして、せっかくこのお寺というステージを与えられたので、自分の人生の集大成として「癒(いや)しの森 浄円寺道場」を併設(へいせつ)し、訪れた人が自(みずか)らを静かに振り返る空間を目指してみようと思いました。

 

コンセプトは「本来の自分に出遇う」。仏教の教えにふれたり、太極拳などで体を動かしたり、本堂や境内の掃除をしたりすることによって、訪れる人それぞれの中に何か新しい気づきが生まれたらいいかなと思います。

 寺といってもまったく目立たない小さな建物ですが、この南砺市の片隅(かたすみ)で、ささやかな活動が出来ればと願っています。

お茶を飲むだけでも、覗(のぞ)いてくださる方がいれば歓迎します。

                           (浄円寺ホームページより)

 

 

 仮面の告白(その二)

 自分は「長(ちょう)」という字にトラウマがある。長年ずっと引きずっていた。それは、小学生の時のある出来事が原因となっている。

 現在までずっと、この苦い記憶を心の奥底に封印(ふういん)してきた。どう受け取られるか不安もあるが告白することにした。

 

僕の選挙運動 1964

昭和38年、僕の通っていた蓑谷小学校が全焼したため、翌年4月に4km離れた町の城端小学校に併合された。

現在の行政センターの場所にあった城端小学校の木造校舎をそのまま使い、僕たちは町の子供たちと机を共にすることになった。

僕ら6年生は、蓑谷小一(ひと)クラスと城端小二(ふた)クラスが三クラスに編成された。

僕は6年2組になった。町の同い年の子供たちと教室で顔を合わせてみて、

「町の女の子はお人形さんみたいで違うなあ。」

と感動していた。

 今から考えると、蓑谷の同級生たちは保育所の頃から一緒なので、兄妹みたいに育ち、異性の感覚が全くなかったからなのだが…。

 そして、思ったよりすぐにみんなと打ち解けられた。大きな理由は僕の父が城端小学校に勤めていたことがあり、その教え子が同じクラスに何人もいたからだ。

 そして、まず学級委員の選挙があり、僕が級長に選ばれた。今でいうとクラス委員長になる。

 ただ、その頃の僕はおとなしく、学級会などの場で発言するなんてことは全くなかった。だから、級長のような役割に向いているとは、正直心の底から思っていなかったのだが、先生だった僕の父の威光(いこう)が働いたなと直感した。

 

そして、次に6年の三クラスの級長による児童会会長選挙が行われた。

 6年の1組2組3組の級長三人が講堂で全校児童を前に選挙演説をするのだが、僕は原稿を作ることも、大勢の前で話すことも経験がなかったし、そういうのは大の苦手だった。

 ただ、蓑谷小学校から城端小学校へ一緒に移ってきた教諭で「教育ママ」だった母がすべてお膳(ぜん)立(だ)てしてくれた。

 原稿を母が作り、帰宅したら毎日のように母の前で予行演習した。

本番はかなり緊張したが、練習の成果は十分に発揮できた。

ただ、内心は立派に演説している自分と中身のギャップに割り切れないものを感じていた。

 三人の候補者のうち、一組のミノル君がリンカーンの「人民の人民による人民のための政治」の言葉を引用していたのが強く印象に残った。

そして、彼の将来なりたい職業というのが、国連の事務総長だということを後から知った。彼こそ児童会長にふさわしいと思った。ちなみに、その頃は国連事務総長という言葉自体自分は知らなかった。

 選挙結果は、僕が当選してしまった。

 その時、

「親が先生のせいだな。」

と確信した。

 児童会議会の場には出席したが、一言も発言しなかった。

いや、出来なかった。もともと、議会とかホームルームという独特の空気の中では、黙りこくっているのが自分にとって当たり前だったし、そのことを何とも感じなかった。

 つまり、児童会長である僕はお雛(ひな)さまみたいなお飾(かざ)りに過ぎなかった。

 

 そして、一学期が終わり二学期に入った。

 最初にクラスの学級委員の選挙が行われることになった。

 今度は自分も対策をたてていた。自分に投票しそうな友達に一人一人近づいて、

「オラに入れんといてや。(俺に入れないでくれよ)」

と、頼んで歩いた。

 しかし、結果は今回も6年2組の級長になってしまった。

 帰りのスクールバスに乗ろうとしていると、先生として見送りに来ていた母が僕を見て言った。

「お前、青い顔しとるぞ。どうしたが?」

 

 二学期もまた、全校児童の前で選挙演説をするはめになり、再び母に原稿を作ってもらい予行演習した。

結局、二学期の児童会長は学年一の秀才タニグチ君になった。

 

そして、三学期に入って学級委員選挙があり、その時も事前に一人ひとり自分に投票しないように説得して歩いた。にもかかわらず、また級長になってしまった。

三学期も再び、全校児童の前で母から教わった通り演説し、また、児童会長になってしまった。ますます、親が先生だからだという思いとともに、被害者意識も強くなっていた。

そして、児童会議会では変わらずお雛さまのようになっていた。もともと無口なので、そのことを特に苦に感じることはなかった。

 

そして、城端中学校に入学した。

 一年次は、幸いなことに一学期二学期とも他の人が級長に選ばれた。

 そして2年3組になった一学期、再び級長に選ばれてしまった。一学期は特に問題なく過ぎて、夏休みが終わった。

 

二学期に入り学級委員選挙の時だった。

 投票前に担任である中年の女の先生が言った。

「何か言いたい人は、前に出て言ってください。」

 僕は手を挙げてみんなの前に立った。そして、正直に言った。

「おまんら、自分がなりたないさかいに、おらにいれるがやろ。おらに入れんといてや。(お前ら、自分が級長になりたくないから、俺に票を入れるがやろ。俺に投票しないでくれ)」

みんな黙って聞いていた。

この2年3組のクラスには、のちに協立アルミ社長になるニシムラ君、お好み焼き屋「よっちゃん」をやっているナカタニ君、現・城端別院輪番代行のカワイ君らがいた。

 発言の効果はてき面で、僕は初めて無役(むやく)になった。

ただ、予想していた解放感よりも何かみんなに悪いことしたなという思いとともに、なんとなくわびしい気持ちが残った。

 そして、結果が出た後、担任の女の先生からこってり油を絞(しぼ)られた。 

それを機に担任との関係が悪化した。

それまで「重共くん、」と呼ばれていたのが、三学期の終わりまで「シゲトモ!」になってしまった。

 

 それから30年ほどして40代になった僕は、埼玉県のJR川口駅前ビルにある居酒屋で、太極拳仲間で幹部社員研修のプロである原口氏と向き合っていた。

 この一件を話すと、じっと耳を傾けていた原口氏が言った。

「重共さん、それは違うよ。もしそうだったら、先生の子供はみんな級長に選ばれているよ。」

 それを聞いた瞬間、それまで背負っていた重荷がスーッと消えていくのを感じた。

 30年経って思いもかけず、当時の自分を受け入れ始めている自分がいた。

                              

[次号 1月21日]

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