真宗大谷派 浄円寺
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浄円寺コラム<73> 2023,1,21重共聡
列車の旅
僕の学生時代、昭和四十年代の列車は背もたれが直角の木製で、向かい合せの四人掛けが当たり前だった。
そして、旅は道連(みちづ)れを地(じ)で行くように、そこで出会った乗客と会話をしながら列車内での時間を過ごすのが普通だった。
当時は国鉄の時代で、高岡駅から上野駅まで急行で八時間はかかった。ルートは現在の北陸新幹線と同じで、長野、軽井沢、横川を経由していた。
当時をふり返った時、目に浮かんでくる場面が三つある。
最初は大学一年の夏休み、帰省するため上野駅から鈍行(各駅停車)に乗った時だった。四人掛けの席には三人一家族が占めていた。上野駅を離れて二、三駅過ぎた時だった。
「ミカンどうですか?」
ご主人と思われる中年男性が話しかけてきた。
当時は駅の売店には冷凍ミカンが置いてあり、長距離に乗る乗客はそれを買い込むのが定番になっていた。
そして話のきっかけは、
「ミカンどうですか?」
が、常套句(じょうとうく)だった。
もちろん僕はミカンを受け取った。受け取ったということは、コミュニケーションしてOKですという暗黙(あんもく)の了解なのだ。
どんな話をしたかは思い出せないが、その一家が直江津あたりで下車するまで会話を楽しんでいた。
大学二、三年になると特急白山をよく利用するようになった。白山は、高岡・上野間が6時間20分で、当時としては最速だった。
夏休みの帰省から東京へ戻る時だったと思う。下駄(げた)をはいて高岡駅から白山の自由席に乗り込んだ。特急は二人一組の座席で、すべて同じ向き、進行方向を向いていた。なぜ下駄ばきだったか思い出せないが、若かったので変わったことをして目立ちたい気持ちもあったのだろう。下駄はスニーカーと違い、通路を歩くとき列車が揺れるとバランスを取るのが一苦労(ひとくろう)だった。
黒部駅で乗車した女の子が僕の隣に座った。
平成、令和の時代だったら、間違いなくパソコンに向かっているか、本を読んでいるかで、とにかく隣の乗客とは一言も口を利(き)かないと思う。逆に、見知らぬ人に話しかけると、煙たがられるか警戒されるのが落ちだ。寂しいけれど、今はそういう時代なのだ。
ただ、昭和のしかも40年代は違っていた。その時はおそらく、
「どこまでですか?」
という質問で、口火を切ったと思う。
向こうは、ポン女(日本女子大)の学生だった。同じ東京の大学生ということもあり、話が盛り上がりアッという間の6時間だった。テンション上がりっぱなしで、よく体力が持ったなあと思う。
見るからに健康的で明るい子だった。彼女の下宿の連絡先を聞いて上野駅で別れたが、結局連絡することはなかった。
列車の中での出来事を書いているうち、何十年ぶりかである光景が浮かんできた。
やはり学生時代、汽車賃がもったいないので鈍行で帰省した時に、高崎を過ぎた辺りから四人掛けの向かいの席に僕より少し年上と思われる青年が乗り込んできた。
彼は、駅弁オタクだった。お昼にはまだ二時間はあったと思うのだが、横川駅で
釜飯を買いこんだのを皮切りに、停車するたびにその駅の駅弁を買い求めていた。
そこまでは、普通のマニアだなで終わるのだが、僕の驚いたのはそこではなかった。
駅弁を仕入れるたびに、次の駅までにその駅弁を平らげてしまうのだ。当時の鈍行は停車時間が長かったので、ホームへ下りて売店で駅弁を求めるゆとりは十分にあった。駅に停まるたびに席を立ち、しばらくして戻ってきた時には、その駅の名物弁当を一個手にしていた。そして、次に停車するまで黙々と割りばしを動かしていた。その姿は、とても生き生きしていた。当然会話する暇はなかった。
いくつの駅で何個の駅弁を買ったかは覚えていないが、彼の尽きることのない食欲にあっけにとられていたことだけは、あれから五十年近くたった今でも記憶の底に鮮明に残っている。
箱根駅弁
駅伝のニュースに触れ始めた頃なので、高校生か大学生の頃だろう。
最初に「駅伝」を「駅弁」と取り違えてインプットしたため、その後、数年間は箱根駅弁だと思っていた。
「駅弁とマラソンとどんな関係があるのだろう?」
と疑問を感じながら…。
それと同じ取り違えは人生に何度かある。
最初は、小学六年のときだった。
「舞台的…??」
舞台的ってどういう意味なんだろう。いくら考えても解らない。今から思うと、誰かに聞けばすぐに解決したと思うのだが、当時はみんな知っていて自分だけが知らないことがバレて恥をかきたくないという思いが強く、言い出せなかった。
誰にも打ち明けられない悩みを抱えたまま小学校を卒業した。悩みが解消されたのは中学へ入ってからだ。
「ブタイテキ」じゃなく「グタイテキ」、つまり「具体的」だったのだ。それまで、一人で悩んでいたのが噓のように跡形(あとかた)もなく消えていった。
話を駅伝に戻そう。
新宿区オレンジコート・ショッピングセンター内の接骨院で仕事をしている時だった。
院長が耳打ちした。
「重共先生、彼は箱根駅伝のランナーだったそうですよ。」
彼とは、その頃入社したばかりの三十代の男性だ。筑波大出身の脱サラ組という触れ込みだった。本人は、箱根ではブレーキになったと謙遜(けんそん)していた。
たしかにスリムな体つきだった。そして、さすが箱根を走っただけのことはあるなと感心したところがある。
朝9時から夜8時までの営業時間の間、立ちっぱなしで一度も腰を下ろすことがなかったのだ。自分たちは、患者さんがいない時や、自分の仕事がないときは、空いたベッドに腰かけて一息ついていたのに、彼が腰かけている姿は一度も見たことがなかった。
僕の文章の師
僕が文章を書き始めたのは塾をやっていた30代からだが、文体に影響を与えた人物、つまり僕にとっての師は二人いる。
まず、高校時代から愛読している「宮本武蔵」の作者である吉川英治、そしてもう一人は、
広美(ひろみ) 1975夏(その一)
大学三年の夏休み、僕は兵庫県赤穂市への一人旅を計画した。
それは、中学・高校を通じて文通していたペンフレンドに、初めて会うために。
中学二年になった時、兵庫県赤穂市へ引っ越して二年たつ幼馴染(おさななじ)みのアキモリから一通の手紙が届いた。封を切ると、彼のクラスの女の子三人それぞれの自己紹介文が入っていた。
文通希望とのことで、どんな基準で選んだかはわからないが、彼女たち三人にそれぞれ僕と僕の小学校の同級生が指名してあり、他の二人には僕から自己紹介の書いてある便箋を渡してほしいとのことだった。
僕の文通相手は広美。自己紹介の字のきれいな子だ。
早速OKの返事を出した。それから、二か月くらいの間隔で富山県と兵庫県赤穂市間の文通がスタートした。
こちらが出すと、折り返し彼女から返事がくる。ただ、手紙が届いても僕が筆不精(ふでぶしょう)でなかなか返事を書かないため、どうしても間隔が空(あ)いてしまう。
僕が手紙の形式にのっとって時候の挨拶(あいさつ)からはじまり、四(し)角張(かくば)った文調で書くのに対し、彼女はごく自然な話し言葉でズバリ本題に切り込んでくる。
それがすごく小気味(こぎみ)がいいというか、一語一語から息遣(いきづか)いが伝わってくるのだ。
学校から帰宅して、分厚い封筒が届いていた時などは、胸を躍(おど)らせながら自分の部屋へ持っていきこっそり封を切った。
中三になると高校受験の話題が中心になり、お互いに励ましあった。
そして、二人とも無事高校に合格した。ところが、中学卒業が間近(まぢか)にせまったある日突然、広美から文通をやめたいという手紙が届いた。
実は私、ウソをついていました。公立高校に受かったというのは嘘で、本当は私立なんです。
(中略)
こんな私を、重共さんは許さないでしょう。
最後にお別れをいいます。二年間有難うございました。本当に楽しかったです。
もう文通できないのは寂しいですが、しかたないです。どうかお元気で。
当時、私立は公立よりも一段低くみられる傾向にあったのだ。
当然僕はそんなことは気にしないし、文通をやめる気もなかったので、その気持ちを手紙にした。
すると彼女も、泣いていた子が一瞬のうちにケロッとしているように、明るい返事がきて文通は再開された。
そして三年後、広美は就職し、僕は東京の大学に進学した。
(つづく)
[次号 2月4日]