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             浄円寺コラム<65>      2022,10,1重共聡

 稲盛和夫氏のこと 2022夏

 何かに驚いた時に思わず、

「えっ!?」

と声が出てしまうことがたまにある。

 昭和64年1月7日のことだった。

 その日の朝、僕は都内の山手線に乗っていた。

 その時、急に天井から車内アナウンスが流れてきた。

「ただ今、天皇陛下が崩御(ほうぎょ)されました。」

「えっ!」

 まさに青天の霹靂(へきれき)だった。そして、思わず声が出てしまった。周りをみると乗客はいつもと変わらず静かだった。

「驚いたのは俺だけなのか?」

 ちょっと恥ずかしかったが、自分だけなのが意外だった。

 

 今年の8月30日。テレビに向かって「えっ!」を発している自分がいた。

 画面上部に、京セラの創業者稲盛和夫氏が亡くなったことを知らせるテロップが流れていた。

 翌日の読売には稲盛氏についての記事が載っていた。

「稲盛さんは、車座(くるまざ)になって、従業員と酒を酌(く)み交(か)わす『コンパ』を通じて、企業哲学を自らの言葉で浸透(しんとう)させていった。」

 その文を読んだ時、35年ぶりに胸のつかえが取れた思いがした。

 

 埼玉に住み始めた30代半ばの頃、僕は武道&健康法オタクだった。

「これは!」という教室や道場があれば居ても立ってもいられなくなり、手あたり次第に覗(のぞ)いていた。

 その中に、新体(しんたい)道(どう)という武道があった。

 なぜ魅(ひ)かれたのかというと、つくば科学博で「遠当(とおあ)て」を演じたのが話題になっていたからだ。

 遠当てとは、相手に触れずに倒す究極の武術のことだ。どんな稽古をやっているのか、この身で試してみたいという思いが募(つの)ってきたので、当時の練習場になっていた、千駄ヶ谷(せんだがや)駅を下りたところにある国立競技場サブトラック近くの体育施設へ見学に行った。

 10~20代の若者が中心で、外人さんも混じっていて予想していた通り斬新(ざんしん)な稽古風景だった。そしてその場で入門を決意した。

 入門してまもなく、道場が地下鉄丸ノ内線茗荷(みょうが)谷(だに)駅から徒歩5、6分にあるビルの二階に移転することになった。

 僕たち門下生は、道場開きの準備をしたり茗荷谷の駅前で道場案内のチラシを配ったりしていた。

 そして、道場開きの日が訪れた。

 古武術研究家甲野(こうの)善(よし)紀(のり)氏による招待演武、古参(こさん)門下生による組(くみ)太刀(たち)、そして新体道創始者青木先生による遠当てが行われ、裏方をやっていた自分たちは固唾(かたず)をのんで見つめていた。

 そしてすべてが終了し、道場で打ち上げが行われた。

 そこへ顔を出したのが、名誉顧問の稲盛和夫氏だったのだ。

 当時京セラは全国的に知られ始めた頃だったと思う。セラミックという言葉も新鮮な響きで僕の頭にインプットされていた。

 稲盛氏が国際新体道連盟(当時)の名誉顧問になっていることは知っていたが、まさか当(とう)の本人が顔を出されるとは思ってもみなかった。

 さらに驚いたのは、スーツのまま道場の板張りに腰を下ろしてあぐらの恰好になったことだ。

 青木先生も白の袴(はかま)姿で隣にあぐらをかいて座り、自分たちも輪に加わって宴会が始まった。

 右隣りの青木先生と杯を酌み交わしながら盛り上がっている稲盛氏を見て、僕はあっけにとられていた。ざっくばらんで、くだけた人だなあという印象で、今まで持っていた会社のトップの人物像がくずれていった。

 あれから35年経ち、「車座で酒を酌み交わす」というのは稲盛氏のポリシーで、青木先生はそのことをちゃんと心得ていたんだなと、ようやく腑(ふ)に落ちた。

 

 

 生きた話<その三>

 その坊さんも(同じように)廊下へ座って「おはよう」と言うてくれたらワシは助かるんよ。

 それが(現実は)、ワシがこれほど頭下げとるのに素通りしていきよる。そのことでワシがその坊さんを怒ったり憎んだりする心が起ってくる。

 

次に、「相手はもうどうでもいいんじゃ。ワレさえ頭下げりゃええのじゃ。」という智慧が出てくる。

 今度はひとつ相手はどうでもええ、こう思うて、それからまたその通りにやるんじゃ。そうしよると、今度その通りやってもまた向こうがウンともスンとも言わずに通り過ぎていくと腹が立ってくる。

 ということは、ワシが頭下げてと考えたくらいなことで頭が下がるもんじゃないぞ。

 ワシが考えた智慧ぐらいなことは、そりゃ、自分じゃそう思うとるが(思ってもなかなか)、それが実際に行(おこな)えるもんじゃあない。こういうことを知ったのは二遍(にへん)も三遍(さんべん)もじゃない(二、三回考えたくらいじゃ解らない)。朝から晩までそういうことを考えておるワシじゃけん。

 それを実行しようと思うて実行すりゃ、向こうがその通りに出りゃ(こちらの思った通りに挨拶を返してくれたら)「うん」ちゅうけど(納得するけれど)、反対に出たら「こんちくしょう!」と思う。

 これがいよいよ本性(ほんしょう)じゃの。本性はこれじゃの。

 頭を下げたら、そこが楽なけん、己(おのれ)の心が楽になろうと思うて下げるんじゃけん。

 ところが、向こうが低うしてこんにゃ(低姿勢でこなければ)「これ!」と思う。ハアーこれがいよいよ本性じゃ。

 

ここを親鸞さんが、

「悪性(あくしょう)さらにやめ難し、こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり(悪い本性はなかなか変えられるものではなく、蛇やサソリの持つ毒のようなものである)。」

と言われる。

 そりゃ、一遍や二遍、一年や二年でそうなった(そのことに頷(うなず)いた)んじゃないよ。いよいよまこと、本性(ほんしょう)は本性なんじゃ。

 その悪性じゃけん、人が下げんにゃ「コレチャ(コラ)!」言うてまう(言ってしまう)。

 ワシャ一代(一生の間)、こがいなところで(こんなところで)迷うんじゃのうということを知らされるのやね。

                                  (つづく)

 

 

 第三部 リハビリ日誌

 幸福論 2005

 僕は現在一人暮らしだが、仕事で疲れきった体を引きずりながら、暗くなった川口の住宅街をアパートに向かって自転車のペダルをこいでいると、時折(ときおり)どこかの家の食卓から懐(なつか)しいオムレツの匂いが漂(ただよ)ってくることがある。

 そんな時、反射的にいつもは忘れていた感情が顔を出す。

「やっぱり、家族と一緒のほうがよかったかな。」

「自分の人生はこれでよかったのか?」

と振り返っては、

「もっと堅実(けんじつ)な人生を歩んでいれば、人並(ひとなみ)の幸福が得られたかもしれない。」

と考えたりもする。

 でも、デイに六年間いる間に考え方が百八十度転換した。

 それは、年を取って家族と一緒に暮らすことが必ずしも幸せじゃないんだという認識を、利用者の人達と接しているうちに持つようになったからだ。

 

 ある時、八十代半ばの岩井さん(仮名、男性)が言った。

「あんな家出ていってやる!」

 それを聞いて、なんだか空(むな)しくなってきた。出ていっても行くところがないし、それ以前に足が弱っていて外を出歩くこと自体(じたい)が難しいのだ。

 また、お嫁さんにきついことを言われたのだろうと想像した。

 岩井さんが特別ではないことが、デイに長くいると解ってくる。

 息子さんは優(やさ)しいんだけれど、お嫁さんが強くて気を遣(つか)っているケースが結構あるようだ。

 

 逆に浦里さん(仮名、女性)の場合は違った。

 浦里さんは九十歳を越しているが、独(ひと)り身の息子さんと二人で暮らしている。

 その息子さんが、母親のために毎日食事を用意してくれるのだという。

「それは感心ですね。とても真似(まね)できないな。」

と言うと、浦里さんは息子さんのグチをこぼすのが常だが、親子関係がうまくいっているのは、言葉の端々(はしばし)から十分に伝わってくる。

 

 一人でいることが必ずしも孤独だとは限らない。

 逆に、家族との折(お)り合(あ)いが悪く、肩身(かたみ)の狭い思いで本来くつろぐべき家にいる方がつらい場合もあるのだ。

 老後のことで抱えていた今までの不安は、いつの間にか消えていた。

                               (第三部 おわり)

                             [次号 10月15日]

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