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             浄円寺コラム<63>     2022,9,3重共聡

 人生は出遇い<その七> 

 ニシムラ君 2019

 その日のお昼頃、ドラッグストアー「アオキ」へ立ち寄った時のことだった。

 自動ドアを入って2、3歩進んだ時、レジに立っている買物客の男性と目が合った。

 その顔には見覚えがあった。50年近く会っていないのに、ある同級生が脳裏に浮かんだ。間違いないと確信し声をかけた。

「ニシムラ?」

彼はそれに応じるように頷(うなず)いた。

こういうことってあるんだなと思った。

 

その前年、中学の同窓会があり参加する予定にしていたのだが、母の病状が悪化したため、急遽(きゅうきょ)キャンセルしたいきさつがあった。

その時、会うのを楽しみにしていたのがニシムラ君だったのだ。

 

ニシムラ(西村)君との出遇いは、小学校4、5年頃までさかのぼる。

 教室でみんなとワイワイやっていると、そこへ先生がやってきて、

「重共君、大鋸屋(おおがや)小学校から電話がかかっているよ。」

と、職員室へ来るように言われた。

 何だろうと思って受話器を取ると、向こうからちょっと緊張気味の声が話しかけてきた。

「大鋸屋小学校のニシムラです。うちと野球の試合をしませんか?」

 それが同学年ニシムラ君との出遇いだった。

 大鋸屋は僕の住む蓑(みの)谷(たに)の隣村だ。早速、蓑谷小学校のクラスでチームを編成し、大鋸屋小学校へ自転車で遠征した。

 野球じゃなくソフトボールだったかもしれないし、勝ったか負けたかも全然覚えていないが、なぜか受話器の向こうのニシムラ君のやや緊張した話しぶりが耳の底に残っている。

 試合は一試合だけだったと思う。彼ともそれっきりで、再会するのは城端(じょうはな)中学校へ入学してからになる。

 

 僕は一年六組。同じクラスにニシムラ君はいた。他に林食品のハヤシ君、城端町役場に勤めることになるヤマグロ君がいた。

 一学期の級長(クラス委員長)はニシムラ君だった。授業前後の挨拶の号令は級長がかけることになっていた。彼の、

「キリイツ(起立)!」

という「リ」から「イ」にかけて下げる特徴のある発声は今でも覚えている。

 二学期の級長はヤマグロ君になった。ちなみに彼の号令も独特で、

「ケレツ!」

だった。

 ニシムラ君は野球部に入り、僕は帰宅部に所属した。

 彼からもらった年賀状は、

「テカ君」

から始まっていた。

 僕が中学一年の時につけられたニックネームは、「ピッカイチ(※)」「青い山脈」「ベープ(※)」「フマキラー(※)」などで、これは丸刈りの頭に由来していた。

 当時、中学男子は坊主頭が義務化されていたのだが、自宅には五厘刈りのバリカンしかなく、仕上がりが青々としていたのでみんなから冷やかされてそうなったのだ。

 テカ君もその流れだった。

 野球部の対外試合の翌日は決まってニシムラ君の声は枯(か)れていた。

     ※「ピッカイチ」「ベープ」「フマキラー」…当時流行(はや)っていたフマキラー蚊取り線香のCM「ベープ、煙が出ないで蚊が落ちる電気蚊取りのピッカイチ」からきている。

 

翌年も、ニシムラ君と同じクラス(二年三組)になった。

クラスには他に、現在砺波でお好み焼き店「よっちゃん」をやっているナカタ二君がいた。ナカタ二君の人当たりの良さはその頃からで、「よっちゃん」はまさに天職だと思った。

 一学期は僕が級長になった。

 ある日のこと、ジャンプが得意だった僕が木製の机を両足を揃(そろ)えて飛び越えたのを、たまたま見ていたニシムラ君が言った。

「ケツ(お尻)にバネが詰まっとるんだな。」

 

 ニシムラ君とは高校から別々になった。

城端線でたまに見かける彼は一気に身長が伸び、僕は越されてしまった。大学以降は全く顔を合わせることがなくなった。

 大学卒業後、ニシムラ君は三協アルミ福光工場、僕は東京からUターンして三協グループの協立アルミに就職した。

 結局、協立アルミは9年近く勤めて辞め、上京することになった。

 東京、埼玉でいろんな仕事を経験し、再び故郷へ戻って来るのは実(じつ)に21年後の平成18年の秋になる。

 実家のお寺を継ぎ、整骨院をやりながらの生活に慣れてきた頃、ある噂(うわさ)が耳に飛び込んできた。

 ニシムラ君が、三協アルミ福野工場長から、僕のいた協立アルミの社長になったというのだ。

 それを聞いた時、さすがだなという驚嘆(きょうたん)と同時に、

「ああ、協立を辞めていてよかった。」

という思いが心の奥から湧(わ)いてきた。

 自分が従業員として働いている会社に、中学時代好敵手的(こうてきしゅてき)な存在だった同級生が社長として入ってくる…差をつけられすぎてどう考えても立場がないなと思った。

 歯に衣(きぬ)着せぬ発言で上から煙たがられていたという情報も耳にしたが、中学の頃から曲がったことの嫌いなニシムラ君ならあり得るかもしれない。

 

 アオキで15分くらい立ち話をして別れた。

別れ際(ぎわ)、

「(顔を見た瞬間)すぐに(ニシムラ君だと)わかったよ。」

と言うと彼も、

「俺もすぐにわかった。」

と返ってきたので意外に思っていると、

「映画(NORINTEN稲塚権次郎物語)を観(み)たので。」

と言われた。

その一言で納得した。

 

 

生きた話 2022夏

それまでは、NHKラジオ深夜便から藤(とう)解(げ)先生に対して、相手を容赦(ようしゃ)なくやり込める

人だなという印象を持っていた。

 

翌日の昼近く、早速ミツグさんに録音カセット10本を持ってきてもらった。

すぐにラジカセで再生してみた。最初は人を食ったような笑い声や広島弁にちょっと

戸惑ったが、二本三本と聞いていくうち、次第に藤解ワールドに引き込まれていく自分がいた。

 生きた話とはこのことを言うんだなと思った。

 

 仏さんを信じるいうことは、我欲(がよく)で信じたんじゃ何(なん)にもならせん。

 我欲で信じたんじゃ、信じられるもんにゃなぁ(ものじゃない)。

 信じるということは、教えに従わねば信じたんじゃない。

 教えの通りにやりゃよかろうのうと、我欲を持って聞いとったって、そりゃ聞こえるもんじゃ絶対にないがな。

だから、教えの始めに自力という悪い心を捨てて如来に帰命せよいう、たったこれだけにならんにゃ、仏様の大功徳を身に受けるゆうことにならん。助からんのじゃけん。

 自力をもって聞いたんじゃ、いつまで聞いたって、五十年聞いても六十年聞いても同じことよ。

 

自力という心はのう。

人間の感情的にいうたら、「ワシが」「お前が」という心を自力というのであろうとワシは思うけん。

この自力が廃(すた)るもんじゃろうかの。その自力を捨てよいうんじゃけん、どうやって捨てるんじゃろうか。長い間の疑問じゃった。なかなか自力いうのはすたらんけんの。

 自力を捨てゆうことを仏様がおっしゃっとるから、またひとえに自力を捨てることに苦労したんじゃ。苦労も苦労、命がけで苦労した。

 

「ワシが」「お前が」いうようなその考えの時に、自力を捨てるのには頭を下げるより他(ほか)にありゃせん。

 考えるとそこへ行く。

 頭下げるより他に自力のすたる道ありゃせん。

 まず、人に頭(を)下げることからやらにゃいけん。

 ところが、人に頭下げとうなぁ(さげたくない)下げとうなぁ言うんの。人に下げさしてもワシは下げる心はない性根(しょうね)が自分に解ってくる。

 そうすると、その、相手に頭を下げるいうことは死ぬより難しいんだ。死ぬより難しいけど、死なんにゃ、ワシらが死なんにゃ頭は下がりゃせん!

 煎(せん)じ詰(つ)めたらそこへ行っちゃう。

 そうすると、まず、相手に頭を下げるちゅうことにならんにゃ、難しいぞこりゃ。

 話しゃあ(話せば)一口(ひとくち)じゃが、あんたらの中に下(さ)ぎゅう(さげる)いうもんな、おりゃすまいが。

 おのれが伸びあがっとって、人を下げさせるいうことばかり考えるんじゃけん。ワシもそうだった。

 そりゃ心じゃけん。ほんま(本当)言いよるんで。それで、下がらんにゃ自力がすたらんのじゃけん。一生懸命にならんにゃ頭下がるもんじゃなあ(ない)。

                                  (つづく)

                              [次号 9月17日]

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