真宗大谷派 浄円寺
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浄円寺コラム<9> 2020,8,8重共聡
浄円寺の歴史2
明治13年頃の記録には「教導職三浦靜(じょう)全(ぜん)」とあり。その後明治の中期、三浦□助時代には生活にも窮(きゅう)するに至り、大正初期三浦靜(じょう)照(しょう)は寺に見切りをつけ大阪において医業を開いたため、一時廃寺となった。
この後を如何(いか)にすべきかにつき、部落内に種々意見があったが、結局重共清松氏を迎
えることになった。
大正8年12月31日、29歳で入寺されたが、依然(いぜん)生活にも窮(きゅう)し、かつ廃寺(はいじ)となって
いたため、建物は腐朽(ふきゅう)(腐(くさ)って役に立たなくなる)し雨漏(あまも)りの所もあった。そこで、新住
職を迎えたのを機に翌年再建することとなった。
全部解体(かいたい)し、本堂及び台所だけそのまま建て、その他庫裏(くり)全部を新築した。材料は共
有林を伐採し、他村々の懇(こん)志(し)を仰(あお)いだ。
寺院としては誠に粗末で狭隘(きょうあい)(面積などが狭くゆとりがないこと)ではあるが、従前(じゅうぜん)
(以前から今まで)のものに比べ雲泥(うんでい)の差である。その後、重共氏自費をもって台所、流
し場を改善し、便所、風呂場を増築して漸(ようや)く寺らしくなった。
昭和32年に親鸞聖人七百回忌を営んだ。
これを機会に本堂上段を拡張し、堂門(どうもん)を設け、背後に廊下を造り、御開山(親鸞)聖人
御厨子(ずし)を新調し、併(あわ)せて八畳に六畳に廊下を廻した離れ座敷を新築した。
材料は悪いが、之によって大いに便利となった。
重共氏晩年(ばんねん)の楽しみで庭園を造られた。規模は大きくないが、巨岩を集められたもの
で、今後出来難いものである。
前庭には靜照の祖父かが、平村(たいらむら)大島(おおしま)の寺の坊主にお経を教えたお礼とかいう石碑があ
る。
以前、浄円寺は村の集会場であり、踊りなどは境内(けいだい)で行われたものであるが、今は公
民館や神社境内があるので利用されない。
前田宅次郎氏著『西明誌』より
<終戦特集>
ぬいちゃん 1945夏
僕は戦後生まれで戦争の経験はないので、ここで母から聞いた話を紹介したいと思います。
すでに亡くなっていますが、幸作(こうさく)のおばあちゃんはよくうちのお寺に出入りされていて、僕は小さい頃大変お世話になりました。
悪いことをして、僕が祖父に叱(しか)られて蔵の入口の土間(どま)に半日閉(と)じ込められたことがありました。その時、あの厳(きび)しい祖父を説得して解放してくれたのが、幸作のおばあちゃんでした。
夕方近く、重く頑丈(がんじょう)な戸を開けて、射し込む外の光とともに現れた幸作のおばあちゃんの姿が、今でも記憶の彼方(かなた)からよみがえってきます。
そのおばあちゃんに、ぬいちゃんという娘さんがいました。
ぬいちゃんは20才で結婚して、当時、政府が奨励(しょうれい)していた満蒙(まんもう)開拓団にご主人とともに加わりました。そして、満州へ渡り、同じ地方出身の人達で村を作って開拓に励(はげ)んでいました。
ところが、終戦直前の昭和20年8月、ソ連が国境を破って侵攻(しんこう)してきました。
開拓団では、頼りになる若い男達は現地召集(しょうしゅう)で兵隊にとられていませんでした。ぬいちゃんの夫もその中に含まれていました。
やむなく村長が先頭になって、逃避行(とうひこう)が始まりました。
でも、お年寄りや小さな子供はどうしても足手(あしで)まといになる。かといってソ連軍に追いつかれると、どんなひどいことをされるかわかりません。
それを思って、体力のなくなった老人達は途中で、
「もうこれ以上ついていけない。ここで殺していってくれ。」
と申し出ました。
当時は、戦争という緊迫(きんぱく)した異常な状況下にあったので、涙をのんで同胞(どうほう)の手で、所々で歩けなくなった人達を葬(ほおむ)りながら逃げたそうです。
とうとうぬいちゃんは、自分は逃げられても、まだ幼い3人の子供たちは逃げ切れないと思い、覚悟を決めて、
「この子達と一緒にここに残るので、殺していってください。」
と頼みました。
そして、子供をなだめすかしながら、銃を持った仲間に続いて近くの空家(あきや)へ入っていきました。
間もなく数発の銃声が響きわたり、なきがらとなって運び出された彼女と子供達は、畑に穴を掘って埋められたといいます。
この話は、引き揚(あ)げ船で帰って来た開拓団の生き残りの人が、ぬいちゃんの遺髪(いはつ)を持って生家(せいか)を訪れた時に語られたそうです。
ぬいちゃんの母親である幸作のおばあちゃんは、それ以来、ぐちや小言(こごと)ひとつ言わず、あけても暮(く)れても念仏一筋に八十年の生涯を送られました。
この話には、後日談(ごじつだん)があります。
その幸作のおばあちゃんは80才を過ぎて長男を亡くされるんですが、その時僕の母にしみじみと言われたそうです。
「テレビもない時代で、学校出たらお寺参りだけが楽しみで、80年間一筋にお参りさせてもろて、
『念仏のことはよく解(わか)ったつもりでいた。』
『どんなことにも、驚かん。』
思とった。
『十分聞かせてもろたさかい、これで安心して浄土へ参らせてもらえる。もったいないことや。』
と思とったら、今度父ちゃん(息子さんのこと)が亡くなってみたら、聞かせてもろたことが、みんなとんで行ってしもた。ひどて苦して何が何やらわからん。
何を聞かせてもろとったもんやら、ちょっとも聞いとらなんだ。
おら(私)みたいなもん、ほんま(本当)にどうもならんもんや。」
そう言われたそうです。
それを聞いた時、うちの母は、
「これこそ本当の念仏者だと思った。」
と言っていました。
情けない話ですが、母から出たこの言葉の真意(しんい)が僕にはさっぱりわかりません。
「念仏のお陰で、長男の死も穏(おだ)やかな心境(しんきょう)で受け入れることが出来た。」
というのなら解ります。でも、
「息子の死を前にした時、今まで称(とな)えてきた念仏が吹っ飛んでしまい、全く間に合わなかった。」
それがなぜ本当の念仏者なのか?
母にはとうとう聞かずじまいになりました。
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
第一部 大東医専物語
柔(やわら)
この学校へ入る前に柔術系の武術をやっていて、受身(うけみ)の中で一つ出来ない技があった。柔道の後方(こうほう)受身に近い技で、ピョンと空中へ飛び上がってからとる受身だ。
どうしても恐怖心が先にたち、中途半端に飛び上がっては畳に腰をしたたかに打ちつけてしまう。五年間練習したにもかかわらず、結局ものに出来ずにいた。
それが大東へ入り、授業を受けている最中にうまくいったのだ。
授業といっても柔道じゃなくて、その前の授業中にふと受身のことが頭に浮かび、想像の中の自分がきれいにジャンプして受身をとっていた。
「トン、バン、タン。」
というリズムが頭の中に残った。
そして二限目の柔道の時間に、さっそく試(ため)してみることにした。
するとどうだ。今までまったく出来なかったあの受身が面白いように決まるではないか!
準備運動、受身といつもの順で進んだところで、担当の大輪(おおわ)先生がストップをかけて何かしゃべり始めた。
黒帯に対して一言(ひとこと)注意を与え、
「白帯にも学ぶべきものがある。」
と言われた時、体格のいい連中の背中に隠(かく)れるようにしていた自分の脳裏(のうり)に、ひょっとしたらという予感が走った。
「重共、出て来い!さっきやっていた受身をみんなに見せてやれ。」
と言われた時は、さすがに大輪先生はよく見ているなと思ったが、それよりも、うまく出来るかどうかの方が心配だった。
一回目は失敗。二回目もタイミングが合わず失敗。三回目は体を宙に浮かせて落ちる瞬間、手で受身をとるのと腰が畳に着くのがほぼ同時で、お世辞(せじ)にもうまくいったとは言えなかった。
気落ちしている自分に、大輪接骨院に勤めている小林(康)君が、
「重共さん、カッコよかったですよ。」
と声を掛けてくれた。それが、せめてものなぐさめだった。
柔道は結局受身しか出来ず、投げ技はからきしダメだった。年一回行われる校内柔道大会もパッとしなかった。みんな注視(ちゅうし)の中で開始線に立ち、対戦相手と向き合った時のあの緊張感は、何度味わってもイヤなものだ。
また、三十才以上は『壮年(そうねん)の部』となっていて、そこに名を連(つら)ねている自分としては、何か釈然(しゃくぜん)としないものを感じていた。
ところが、三年秋の柔道大会の昼休みに、斬新(ざんしん)な発想で柔(じゅう)整界(せいかい)に旋風(せんぷう)を巻き起こしている志(し)保井(ぼい)先生が、僕の肩をたたいて言った。
「壮年の部なんて一種のセクハラだよ!」
この言葉はまさに的(まと)を得(え)ているなと思った。
(つづく)
[次号8月22日]