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            浄円寺コラム<60>     2022,7,23重共聡

 御製(天皇の詠んだ歌) 2022春

 区長宅へ月忌参りに行った時のこと。

 お勤めを終えたところへ、区長の御母堂に、

「これ何と書いてあるのか、見てもらえますか?」

と言われ一枚の短冊(たんざく)を手渡された。

 一目見るなり、

「うーん…」

となってしまった。まったく歯が立たないのだ。

万葉仮名(まんようがな)でこうあった。

「波天茂奈起 砺波能〇乃 杉無良耳 登里可古万流ゝ 家ゝ能見遊」

 以前、昭和天皇が植樹祭に富山県を訪れた時に詠(よ)まれた歌だということだった。

 渓(けい)水(すい)とあるのは、地元西明部落の念仏者稲塚一雄さんが書かれたものだろう。

 

 昭和44年5月26日、砺波市頼(らん)成(じょう)の森で全国植樹祭が行われた。昭和天皇が見えると言うので、高校の授業が半ドン(午前で終了)になった。当時高校2年生だった自分は天皇を一目見ようと、縄ケ池へ行くために通過する予定になっている、野村鉄工所前の交差点の道路沿いに立って今か今かと待っていた。

 お年寄りたちはゴザに正座して手を合わせていた。

 そこへ、井波方面から乗用車が列をなして走ってきた。県知事の乗った車などが次々と目の前を横切って行った。どれがお目当ての車か解らないままやり過ごしているうち、一瞬だが見覚えのある昭和天皇の姿が後部座席に見えた、と思ったのも数十分の一秒の出来事で、その車はサーッと通り過ぎていった。

 僕は、その残像を記憶の中に留(とど)めようと何度も反芻(はんすう)(※)していた。

 ゴザで正座して手を合わせていたお年寄りは、車窓の位置が目より高く天皇陛下を見られなかったなあと思ったが、当時の年配者は天皇を直接見ることは恐れ多くてできなかったのだと聞いて、あれで満足されていたんだなと思い直した。

 

 植物学者の昭和天皇は、標高の低い縄ヶ池に高山植物の水芭蕉が群生(ぐんせい)していることに興味を持たれ、訪問が実現したのだが、たった一回の天皇訪問のために山肌を削って道路を引いたのは納得いかなかった。

 外から見ても、削った後が茶色く残り痛々しかった。

 縄ヶ池は小中学校時代の野外活動で何度か徒歩で険しい道を登って行ったことがあった。辿り着いた時の感動は、車で楽(らく)していったんじゃ味わえないと思っていた。

 あれから五十年の歳月が経過して、成長した木々により山肌はすっかり隠(かく)れてしまった。

 

 短冊を預(あず)かってあっという間に一カ月近く経ち、区長宅のお参りの日が迫(せま)ってきた。

 そこで、幼馴染(おさななじみ)でかな書道の専門家の中屋美恵子さんに連絡を取り、蓑谷の自宅を訪れた。

 彼女はさすが専門家だけあって、あっという間に難解に思われた漢字の羅列(られつ)を読み解いていった。

 そして、あと一文字のところまで来た。が、そこで頓挫(とんざ)してしまった。その文字(〇の箇所)は「閤(こう)」に見えるし「閣(かく)」にも見える。僕は、

「ここまで解れば上等!ありがとう。」

と言って中屋家を後にした。

 帰宅して間もなく、チャイムが鳴った。さっきまで会っていた美恵子さんだった。

 解(わか)らなかった最後の一文字が解(と)けたという。

「谷」ではないかということだった。谷だと前後がつながってスッキリする。

 さすが、かな書道の専門家だけあるなと脱帽(だつぼう)した。

 

御製(天皇の歌)

波天茂奈起(はてもなき) 砺波能谷乃(となみのたにの) 杉(すぎ)無良(むら)耳(に) 

登里可(とりか)古万流(こまる)ゝ(る) 家(いえ)ゝ(いえ)能見遊(のみゆ)

 

果てもなき 砺波の谷の 杉村に

とり囲まるる 家々の見ゆ

 

 国道304号線沿いの展望台から見(み)下(お)ろした、砺波平野に点在する散居村が目に浮かんできた。                               

 

                   ※反芻…繰り返し考え、味わうこと。

 

 

 念仏の灯をたやすことなく(その二)

 念仏の道

 念仏は、それをいただくと、いただいた人は変わります。

 念仏には、それに触れた人を廻転(かいてん)させる仕掛(しか)けがあります。

 ちょうど、火に触れると火傷(やけど)するようなものです。

 しかし火の話をしても火傷はしません。念仏も話を聞いている限りでは変わりませんが、本当に念仏申す時には、その人は廻転せしめられます。

「六字のいわれ」というのも、一つはこうした法則を説かれるものでありましょう。

 例えば「南無の機(き)」といわれます。

 南無というのは「いっこうにご恩知らずであった」と頭の下がったことであります。

 それが機となるというのは、「はずみ」跳躍版(ちょうやくばん)のようになって、下がったところから飛び上がる。

 恩知らずだったと下がったところから、このご恩に報いましょうと立ち上がっていく力が出てきます。跳躍版は下がらねばなりません。下がればそれが必ず上がる力になります。下がった力が法の力ゆえ、その上がっていく方向がまた阿弥陀仏の法の世界であります。

「速やかに無量(むりょう)光明土(こうみょうど)にいたりて、普(ふ)賢(げん)の徳にしたがう(※)」と宗祖聖人のお言葉も、こうした道理を語られるのだと思います。

    ※速やかに無量光明土にいたりて、普賢の徳にしたがう…速やかに浄土に往生して、普賢菩薩のように慈悲行を行う。

 

<連載企画>

 医療・介護の世界に足を踏み入れて

 第三部 リハビリ日誌

 陶芸の加藤先生

「この間、マッサージしている時に話していた、あの質問よかったね。盗賊(とうぞく)と馬賊(ばぞく)の違いは何ですか?というやつ。あの答えは俺も聞いてみたいなあ。」

 その質問をしたことすら忘れていたが、おそらく茂田野さんから満州の話を聞いていた時に、話の流れからそんな質問になったのだろう。

 僕がNデイに入る前から月に二、三回のペースで陶芸の指導に来ていた加藤先生とは、同学年だったことがわかって以来急接近した。

 最初に飲みに行ったのは、加藤先生主催の陶芸展の最終日、会場だった練馬美術館近くの居酒屋だった。

「ナショナルキッドに会ったよ。」

 二人で時代をさかのぼって、こんなこともあった、あんなこともあったと同年代ならではの確認作業をしている時、加藤先生が言った。

 月光仮面や七色(なないろ)仮面と並んでナショナルキッドは、テレビが普及し始めた昭和三十年代の我々子供たちのヒーローだった。

「(原作者に)今度会わせてあげるよ。」

と言われた時には、緊張して息苦しくなったほどだ。

 いつも周りに何人かいてその中心にいる加藤先生に対し、人付き合いが苦手で孤独を好む自分とはある意味対照的なのに、なぜウマが合うのだろう?

 いや、彼が合わせてくれているのかも知れない。

 いずれにしても、デイに六年間いて出来た唯一の友達であることには間違いない。

 

 

  加藤先生→手前後ろ向き 筆者→その向かい (デイの食堂)

 

 

                              

                                                                                          

 

                                                                                                  (つづく)

                               [次号 8月6日]

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