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          浄円寺コラム<59>     2022,7,9重共聡

 五十年目のホームルーム(その二) 2014春

 ポストへ投函して三日後から見舞金が続々と振り込まれてきた。直接マモルに手渡したり、僕の家に持参してくる同級生も数人いた。最終的に、住所が解らず連絡が取れなかった三名を除いて、ほぼ全員(97%)の同級生からお見舞金が届けられた。

 ケイコが通帳に記帳してくれたのをコピーして、振込んでくれた全員に受け取った旨を電話で連絡した。30年ぶりに話す同級生が7人、そのうち中学卒業以来初めて話す同級生が5人はいた。

 名古屋在住のナリコは定年退職して、パートの仕事をしていると話していた。小学校の教員一筋だったナリコにとって、他の職種は新鮮味があるんだろうなと思った。

 富山市のシゲルと話し始めて間もなく、あんまり歓迎されていないなと感じた。声のトーンがあの明るかった彼にしては、やけに低く感情のない声だったからだ。電話を切ってからハッとした。人工声帯だったとしたらつじつまが合う。シゲルも大変な人生を歩んできたんだなと思った。

 名古屋でラーメン店を経営しているミツハルと話すのも中学以来だ。お店につながったようで、仕事中の息子が取り次いでくれた。還暦を祝って同級会で伊勢神社へ行った帰りに、みんなが寄ってくれたと嬉しそうに話していた。

 マモルの家の火事はつらい出来事だったけれど、このことを縁にして蓑谷小学校で兄妹のように過ごした幼馴染(おさななじ)みたちと久しぶりに言葉を交わすことが出来た。

 もともと電話が苦手な自分だったが、この時はマモルにお見舞いを送ってくれたお礼の気持ちと、久しぶりに声が聞けるというワクワク感の方が勝(まさ)っていた。

 

 5月30日(金曜)午後7時。みんなから届いた見舞金をマモルに渡す日が来た。

 マモルの仮住まい近くの旧農協前にヨシアキ、ケイコ、トクエイ、そして僕の四人が集合した。アマチュアカメラマンのトクエイの手には愛用のカメラが、僕は全員のお見舞金と明細一覧を入れた封筒を抱えていた。渡す役は結局こちらにお鉢(はち)が回って来た。しつこく拒否するのもわざとらしいので、この時もすんなり引き受けたと思う。

 前もって連絡しておいたので、チャイムを鳴らすとすぐにマモルが現れた。玄関前で「これは、みんなからの気持ちです。」というようなことを言ったと思う。マモルはちょっと戸惑った様子だったが、しっかりと受け取ってくれた。その瞬間をトクエイがカメラに収めていた。

 数日後、今回協力してくれた同級生のみんなに結果報告の便りを写真入りで送付した。

 今度は、ヒロシのチェックはいらないので気楽に作文出来た。ただ、書面に挿入してもらったトクエイ会心(かいしん)の一枚を見た瞬間、唖然(あぜん)となった。そこには、マモルとは同い年に見えない、背中を丸くして年寄りじみた自分がいた。

 

その後、いかがお過ごしでしょうか?     

 

この度は、突然のお願いにもかかわらず、杉本衛門君に心のこもったご援助をいただき、本当に有難うございました。

お陰様で、蓑谷小学校同級生二十八名の皆様からお見舞金が届きました。

 

一括して、五月三十日に仮住まいの杉本宅を訪れ、衛門君に手渡しました。

彼は、ちょっと戸惑いながらも快く受け取ってくれました。

みんなの厚意に対して、

「どうお返ししたらいいのか…」

と恐縮していました。

 

焼け跡はすっかり整理されて、今は更地になっています。

衛門君は、電器店の仕事を再開しました。

どん底から、何とか一歩を踏み出したようです。

 

今回、お見舞金のお世話をさせていただいて、小学校時代の同級生のつながりの深さを改めて感じました。

入金連絡の際、受話器を通して何十年ぶりかで再会しても、二言三言ことばを交わしただけで一気に子供時代の関係に戻れるというのは、蓑谷の同級生なればこそだと思いました。                                 <撮影 トクエイ>

                                          

還暦を過ぎ、いよいよこれから人生の集大成

に入っていきますが、どうか体に気をつけて

お過ごしください。

そして、いつかまたお会い出来るのを楽しみ

にしています。

                                    

  平成二十六年六月一日     

                      重共聡

 

念仏の灯をたやすことなく(その一) 2022夏

 自坊での法事が無事に終了し、音(おん)木(ぎ)と大判の三部経典を仕舞(しま)おうと祖師前(そしぜん)(※)の横に積んである経(きょう)本類(ほんるい)を整理していたら、ある小冊子が目に入った。昭和四十一年発行とあった。

 何気(なにげ)なくぺージをめくっているうち、だんだん引き込まれて行った。縦に並んだ活字の一個一個が時を超えて素直に自分に語りかけてきた。

                               ※祖師前…親鸞聖人の絵像の軸の前。

 

 恩を知る

『観無量寿経』をいただきますと、釈尊は韋提(いだい)希(け)夫人(ぶにん)にこう仰(おお)せられています。

「人間は誰でも皆幸福を求めて生活をしているが、いったい何が幸福だろうか?また、幸福を得るにはいただく心がないと得ることが出来ない。人間には人間の幸福がある。人間の幸福を得るには人間の心にならねばならない。」

と。

 そして人間の心とは何かというと、

「恩を感ずることの出来る心が人間の心である。この恩を感ずる人間の心にこそ人間の幸福、いま人間に生まれてきてよかったといえる本当の幸福を得ることができるのである。」

と仰せられています。

 そしてこの恩をさらに二つに分けて、「孝養(きょうよう)父母(ぶも)」親の恩と、「奉事師(ぶじし)長(ちょう)」師の恩と教えられています。

 今日ほど私どもは恩を忘れた時もないのではないかと思います。

 つまり、人間の心を失っています。人間の心を失った者ばかりの家庭や社会が、親和であるはずがありません。そして、ただ幸福ばかりを追い求めて一生を空しく過ごしてしまうのではないでしょうか。

 

そして恩を感ずるということは、私どもの生活面にどんな姿で現れるでしょうか。

「私は恩を感じています。」

と公言する人があったとしたら、それは本当でしょうか?

 むしろ、

「いっこうに恩知らずだった。申し訳なかった。」

と頭の下がった姿こそ、本当に恩を知った現れではないでしょうか?
 そしてまた、頭の下がったそこから、

「この恩に報いましょう。」

と立ち上がっていくことこそ、恩を感じた姿であります。

 この頭の下がったところが出発点となって、そこから立ち上がっていく、この道理を示したのが念仏であり、それが「六字(ろくじ)(※)のいわれ」と教えられるのであります。

                       ※六字…南無阿弥陀仏のこと。

 

 

 <連載企画>

 医療・介護の世界に足を踏み入れて

 第三部 リハビリ日誌

 笠井さんという、とても七十代には見えない若々しい女性の膝のリハビリをしていたのだが、手指がへバーデン結節といって、指先に近い方の関節がㇰの字に曲がっていた。

 若い頃やっていたバレーボールが原因だと聞いていたが、ある日、

「ダイマツ先生に教わったのよ。」

と言われた。

「えっ?」

その言葉に一瞬耳を疑った。

「ダイマツって、あの大松監督のことですか?」

「そうよ。」

笠井さんは特に誇張(こちょう)するでもなく、いつもの調子で答えた。

 びっくりしたのはこっちの方だ。

 大松博文(ひろふみ)というと、昭和三十九年の東京オリンピックで金メダルを獲得した女子バレーボールの日本代表監督としてあまりにも有名だ。鬼の大松と言われ、練習の厳しさには定評(ていひょう)があり、著書「俺についてこい!」は今でも実家の本棚の一角(いっかく)を飾っている。

 笠井さんはニチボー貝塚(かいづか)の前身であるニチボー足利(あしかが)のバレーボールチームにいたのだと聞いて納得した。

 当時僕は小学生で、バレー女子の決勝戦、日本ソ連戦は自宅でテレビ観戦していた。ソビエト選手のオーバーネットで試合終了した時のシーンは、今でも鮮明に覚えている。

 歴史の証人(しょうにん)と話しているようで、静かな感動が心を満たしていた。

                                  (つづく)

                              [次号 7月23日]

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