top of page

8

              浄円寺コラム<8>    2020,7,25 重共聡

血のつながり1969春

 しゃべるのが苦手で書くのが嫌い、小中学生の頃は、生徒会とかホームルームの時間になると決まってお地蔵様のようになっていた。

 『作文』という言葉を聞くと途端に身構えてしまい、原稿用紙とにらめっこしたまま時間が来てしまう事がしょっちゅうだった。

 話すことに対する苦手意識はその後も健在で、会社勤めをしていた頃もよく恥をかいた。

 幹部研修で、アルミの家庭用品の皮膜工程について説明していた時のこと。持ち時間は三十分。話の内容はレポート用紙にまとめておいたので楽な気でいたのだが、発表し始めて間もなく、後方に座っていた、気の強いので有名な資材課の女性から、

「聞こえませーん!」

と言われてしまった。

 慌てて大きな声を出そうと力んだ途端、調子はずれの高い声が頭のてっぺんから出てしまった。

 元に戻そうと焦ればあせるほど音程は直らない。そのうち次長から、

「重共、もっと落ち着いて喋(しゃべ)れま!」

と言われる始末。

 ここで放棄(ほうき)してしまったら立ち直れなくなると思い、何とか最後まで話し終えはしたが、握り締(し)めた手のひらは汗でべとべとになっていた。

 

 その後、上京して学習塾を始めることになるのだが、下準備(したじゅんび)として十カ月間他の塾に勤めていた。

 春日部(かすかべ)学習塾といい、この名前には苦労させられた。

 塾(じゅく)へかかってくる電話を受けた際に、塾名がスムーズに出てこないのだ。

「ルルル…」

「ハイ!春日部」

まではいいのだが、そのあと続けようとすると、『学習塾です。』と言う所を、

「あううーずくです。」

と口ごもってしまうのだ。

 これはまずいと思い、自宅で十分に練習をつんで万全(ばんぜん)の態勢で臨(のぞ)んでみたが、受話器を取るとやはり、

「あうう…」となってしまう。

 これには困ってしまった。

結局、

「ハイッ、モシモシ。」

で最後まで通した。

 そんなこともあって、自分で始めた時は『明智(あけち)ゼミナール』と語呂(ごろ)のいい名前にした。

 これは全く問題がなかった。

 

 そんな自分でも本を読むのは割(わり)と好きで、そのきっかけとなったのは、高校生の頃、学校の図書室で見つけた宮本武蔵だった。放課後よく図書室へ足を運び吉川英治の世界に浸(ひた)っていた。

 六(ろっ)興(こう)出版全六巻を読み終えた後もちょくちょく通っていた。

 実は、もう一つ理由があったのだ。

 貸出(かしだ)し受付に座っていた学校職員の女の子の存在が、いつの間にか気になり始めていた。

 なぜなのかは解(わか)らないが、たまに姿が見えない時など、妙(みょう)に心が空虚(くうきょ)になるのを覚えた。恋なのかなとも思ってみたが、それもはっきりしない不思議な気持ちだった。

 もともと奥手(おくて)なのも手伝って、声をかけることもなく卒業してしまった。

 

 数年してそのことをすっかり忘れていた頃、何かの折(おり)に高校の卒業アルバムを見ていた母が、教職員の名簿の中に彼女の名前があるのを見つけて言った。

「これは、お前のおばあちゃんの子供だよ。」

「えっ?!」

 一瞬、頭の中が混乱してしまった。

 まだ会ったことのない僕の祖母は、母を産(う)んだのち祖父と別れて再婚したことは聞いていたが…。

 おばあちゃんの子供ということは、母の妹で僕のおばさんに当たるわけか。

 当時を思い出しているうちにハッとした。どうして今まで気がつかなかったのだろう。色白の顔といい目のあたりといい、実に母によく似ているのだ。

 

よみがえった声 1992

「出来ましたよ。」

 プロダクションをやっているOさんが、カバンから二本のテープを取り出した。

 一本はカセットテープ、もう一本はリールに巻かれた旧式の録音テープだった。

「えっ、よく出来ましたねえ!有難うございます。」

 

 高校時代、菓子箱に入れたままで忘れていた録音テープが、二十数年ぶりに出て来たので、専門家のOさんにカセットテープへの移(うつ)し替(か)えを頼んでおいたのだ。

ただ、昔使われていたリール式テープを回す装置が現在は姿を消しているのと、肝心のテープ自体にカビが生えていて保存状態が悪く、なかば諦(あきら)めていたので、突然二本のテープを渡された時は、Oさんの厚意に対して感謝の気持ちを表すのに適当な言葉が見当たらなかった。

 持ち帰ってカセットデッキにかけるまでは、うまく入っているかちょっと不安だった。

 リモコンの再生ボタンを押し、テープが回るのをじっと見つめている僕の耳に入ってきたのは、まぎれもなく記憶の中にある祖父の声だった。

 

 祖父は、真宗大谷派の布教使(ふきょうし)をしていた。

 しょっちゅうあちこちのお寺に説教に呼ばれ、年の半分は家にいなかった。

 保護司(ほごし)もやっていて、刑期を終えて出所した人達を家へ連れ帰って食事をさせ、着るものと幾ばくかのお金を与えて、

「かたいもん(いい人間)になるがやぞ。」

と言って送り出していた。

 中には、祖父に感化(かんか)されて僧侶になった人がいるかと思えば、再び手錠をはめられた人もいたそうだ。

 人情に厚い反面非常に厳(きび)しいところがあり、当時小学生だった僕は、

「でか(大きく)なったら、えらい坊さんになれや。」

と言われ、しかたなしにうなずいていたのを覚えている。

 その祖父は昭和三十九年の冬に亡くなるのだが、その2~3週間前に下新川郡(しもにいかわぐん)の正覚寺(しょうかくじ)というお寺に招かれた。

 宗教に対して特に関心があるとは思われない若者達相手に、質疑(しつぎ)応答(おうとう)の形で座談会が行われた。

 その時録音(ろくおん)されたのがこのテープだ。そして、これが祖父の声を録(と)った唯一(ゆいいつ)のテープとなった。

 行く前から体調がよくなかったのだが、一旦(いったん)言い出したら後へ引かない祖父らしく、

「たとえ、死んでも構わん。」

と言って、周りの止めるのも聞かずに家を出た。

 

「74才のもん(者)と、10代20代のあんた方と、話は合わんかも知れんけれども、宗教の話はほんま言うたさいな(本当言うと)、若い人が聞いても、年寄りが聞いても、女が聞いても、男が聞いても分かるというのが宗教の話ですさかいに(ですから)、そのつもりでどうか何でも問(と)うてください。

 問うてくれって、そりゃお互いに、わしが語るというがでなけりゃ、あんた方が問うちゅうがでもない。お互いにあんた方に教えてもろうこともあるし、わしがお話さしてもろうということもあるというのが、座談会の本質であるかも知れん。

 どうか、そこら辺(へん)よろしくお願いします。」

 

Q「何(なに)問(と)うてもいいがですか(何を聞いてもいいんですか)?」

 

A「何問うてもいいですよ。そんかわり(そのかわり)、おら(私が)知っとること(は)言う

けど、知らんこと(は)分(わ)からん。(笑)」」

 

Q「南無阿弥陀仏とはどういうことですか?」

 

A「南無阿弥陀仏というのは、これはインドの言葉をもじったもんで、南無阿弥陀仏ち

ゅうことは、阿弥陀仏に南無するちゅうこってす(ということです)。

阿弥陀仏というは、『助けるぞー』というのが阿弥陀仏。南無というは、それを頼む

ちゅうこってす。

  じゃさからいで(ですから)、助けるゆうおまんのことを(お前のことを助ける)、そ

れを頼むというのが南無阿弥陀仏ちゅうこってす。

 

…(しばらく沈黙)…

Q「ちょっと何と質問していいがやら…。」

 

A「さ、そういうもんじゃ。オラおらんちゅうと(私がいないと)うまいこと言わっしゃ

るけど、オラおるちゅうと…(笑)

そじゃけど、オラに出て来い言わっしゃるで、出て来たもんじゃ。」

 

Q「まあ、普通宗教っていいましてもねえ、殆(ほと)んど接(せっ)することがなく、今日が初めてで

すワ。

初めてというか、今日が一辺(いっぺん)くらいのもんですわね。我々若いもんが寺へ出入りし

てこういうようにお経聞いたりなんたりするってことはネ。

さほど若いもんは宗教について関心がないと、それについて、先ほど誰か言ったように、宗教ってもんは、お前らは入(はい)れ入(はい)れって言って強制(きょうせい)して入(い)れるもんでもないし、また、強制されて入(はい)っても意味がないじゃないかと。

 それで、我々常日頃(つねひごろ)、何かふとしたことから、仏教じゃなくてもいろいろ宗教があ

りますけれども、そういう(強制する)宗教に入るってことは、本当の宗教じゃないん

じゃないかと、そういうふうに思とるがですが、それについて…。」

 

A「それは、この、ワシどもは宗教のそば(方(ほう))を向くということはなかなか出来んです。

 ワラちゃ(私ども僧侶)の言葉で言うたさいな(言うと)、凡夫やとか悪人じゃとかと、

今、そんなこと言うたさいな、やめかれるさからいで(叱られるので)こっそりという

がなれども(言うんだけれど)、ほんで、凡夫や悪人じゃという、このワシの側(がわ)から(僧

侶の側から)言うたら、宗教というもののそばへはなかなか向くことが出来ん(宗教に

関心が向かない)。

  じゃさからいで(それだから)、よいことは勧めてよい。強制ちゅうことはちょっと

強(つよ)あたるかしらねども、どうあれ、よいことは勧めてよい。悪いことは戒(いまし)めてやらん

なん(やらないといけない)。

この頃の若い人達は、

『宗教なんてそんなこと、人に勧(すす)められんかって、オラ今(そのうち)分(わ)かるようにな

ったさいな(分かるようになったら)、仏様のそば(方を)向くわいね。』

いうような言葉はよく聞くが、分かるようになったさからいで仏様のそば向く。いいこってす(いいことです)。いいこっちゃが、それがどうして分かるようになるちゅうこっちゃ。

  花ちゅうもん知らん間は、花見んない(花を見ていない)ちゅうて。花のそば(方向)

向いて花を見たら、花やと知れる。

  今の宗教は、分かるわからんなともかく(分かる分からないはともかく)、仏様のそ

ば(方を)向く、宗教のそば向く。そうして宗教というものを知ってほしい(と)いうの

がワシの願いです。

 

そいで(それで)、もう一回言いますちゅうと、何がほんまもん(本物)か?何がほんま

もんか。

あんたらちゃ(あなた方は)寝っしゃろう(眠るでしょう)?これから帰って寝っしゃ

る。マージャンでもすりゃ、ちょっこ(少し)遅なるけど。(笑)

  じゃが、寝る時に寝てから目つぶるか、目つぶいてから(目を閉じてから)寝るか、

どっちゃ先や?

  寝てから目つぶるものはおるまいに。こんな目開けてグーグー。(笑)

  目つぶいてから寝るがです。

  目つぶいとる間、まだ眠るまねしとるがじゃ。

  まねが、だんだんとほんまもん(本物)になってくるがです。

  いつ寝込んだか分からんが、やっぱ寝とる。

 

じゃさからいで(だから)よいことは、まねでもせんなん(まねでもいいからした方がいい)。

  悪いことは、まねでもすることならん(まねでもしてはいけない)。

  よいことは、まねでもする。悪いことは、まねでもすることはならん。」

                         (つづく)[→コラム<11>]

 

<連載企画>

医療・介護の世界に足を踏み入れて

  • 大東医専物語

備前長船

 弦弓さん宅を訪れた時、先祖伝来の備前(びぜん)長船(おさふね)という銘(めい)の入った刀を見せてもらった。

 真剣って違うなと、その時はただそれだけの話だった。が、このことから、自分自身に新たな世界が開けて来ようとは知る由(よし)もなかった。

 

 それから一週間位して、仕事で浦和方面へ行った時のこと。

 その日の点検は三階建てアパートの浄化槽が最後だった。

 一階に刀剣の看板があがっているのが目に留(と)まったので、弦弓さんから頼まれていたこともあり、家伝の日本刀について尋ねてみようと店の扉を開けた。人影が見当たらないので、

「こんにちはー!」

と声をかけると、

「はーい。」

と返事が返ってきた。奥から出て来たのは、五十才位の眼鏡をかけた一見普通のおじさんふうの男性だった。

 ところが、この人物は埼玉県の居合道界では知る人ぞ知るH氏だったのだ。

「備前長船というのは、備前の国の長船という人が打った刀なのだが、その下に例えば『祐(すけ)定(さだ)』というふうにさらに続いていないと名刀じゃない。それは悪いけど、昔の戦(いくさ)で雑兵(ぞうひょう)が使っていた刀ですよ。」

と言われた。

 そして奥の部屋へ案内され、刀(かたな)箪笥(だんす)のなかから五、六振りの名刀を出して持たせてくれた。初めてのお客さんには普通見せないと言われたので、初対面でも何か通じるものがあったのだろう。

 僕は以前から、日本刀に対する憧(あこが)れみたいなものを持っていたので、H先生の通っている道場の場所と稽古日を聞いて刀剣店を後にした。

 その年の秋に入門することになるのだが、北浦和にある木造の道場が戦後の日本居合道発祥の地だと知った時には驚いた。しかも紹介者がいてもなかなか入れてもらえないらしいとも聞いた。

 弦弓さんがとりもつ縁で、居合の世界へ足を踏み入れ、その魅力の一端を知るきっかけとなった。

「どこにどんな出遇いが待ち受けているかわからないなぁ。」

と、しみじみ思った。                       

                            (つづく)[次号8月8日]

bottom of page