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             浄円寺コラム<51>     2022,3,19重共聡            

人生は出遇い<その三>

 同期入社のT君 2022冬

 一月中旬、浄円寺宛に一通の封書が届いた。

 南砺消防署からで消火器点検の通知だった。

 署長名で消火器の耐用年数や点検、報告に関する注意事項が記載してあった。この手の案内文は、大抵(たいてい)斜め読みするかタイトルだけ見て封筒に戻して処分するかなのだが、その日はある文字に目が留(と)まった。

 一番下にあった担当者名「予防係T」だ。

 通知が届いて数日後、南砺消防署から電話があった。

若い女性の声で、

「予防係のTです。消火器の点検に今月24日にお伺いしたいと思いますが。」

という内容で、OKの返事をして電話を切った。

 点検当日まで一週間ほどあったが、ある期待が胸の中で膨(ふく)らんでいた。

「Tさん本人が来るといいんだけど…」

 消火器の点検を、これほど心待ちにしたことはなかった。

 

 そして当日朝、九時半頃にチャイムが鳴った。

「南砺消防署のTです。」

玄関先で先日の電話の声がした。隣に同僚と思われる男性職員が立っていた。

本堂へ案内し消火器の使用期限などの点検後、ストーブの前に座布団を敷(し)いて座ってもらい、用意していた質問を切り出した。

「もう定年を過ぎていると思うんですが、Tという人、消防署にいませんでしたか?」

 すると、彼女が答えた。

「だいぶ前にいました。」

「Tさんは消防署に入る前に、新卒でKアルミに入った時僕も同じ課に入り、昼休みにはよくキャッチボールをしていました。」

と僕。

続いて彼女の口から出たのは、内心期待していた言葉だった。

T「それは私の父です。」

僕「Kアルミへ入社して半年も経っていなかったと思うのですが、消防署への転職のことで悩んでいて、僕もよく相談にのっていました。」

 予防係のTさんはじっと耳を傾けていた。

僕「消防署は定年で辞めたんですか?」

T「いえ、イオックス・アローザが出来た時、そこへ行きました。」

 隣の福光町の医(い)王山(おうぜん)の中腹にスキー場を中心とした観光施設イオックス・アローザがオープンした時、僕は三十代後半で、何度か東京の友達を連れて行ったことがある。

 てっきり定年まで消防署に勤めていたと思っていたので、記憶を上書きするのにちょっと手間取った。

 あれから僕自身上京して転職を繰り返し、後ろを振り向くゆとりがなかったので、

「T君はどうしているかな。」

と思ったのは、南砺市へUターンして住職の仕事にも慣れてきたつい最近のことだ。

 Tさんは、

「父に話します。」

と言って立ち上がった。

 僕は境内(けいだい)へ出て見送った。

 参道を上がりきって振り返った彼女が、僕がまだ立っているのに気づいて軽く会釈して車に乗り込んだ。

 

消防署からアローザに転職していたのは予想外だったが、ちゃんとした人生を歩んでいたであろうことは、何よりも彼の娘である予防係のTさんの存在が物語っていた。

「入社したての会社を辞(や)めて消防署に行くという選択は間違っていなかったな。」

 彼女より若い、当時23才の同期のT君を思い浮かべていた。

 

 

<連載企画>

 医療・介護の世界に足を踏み入れて

 医療日誌 番外編 

ストーリーズ 事件の涙 NHK 2022,1,22放映

2011年1月16日、整形外科時代同僚だった武井視(み)良(よし)さんがJR山手線目白駅のホームから転落し、入ってきた電車にはねられて亡くなった。

あの武井先生が駅のホームから落ちるなんて…今でも信じられない。

そして、亡くなって11年経(た)った今でも我々に影響を与え続けているのは、さすが武井先生、すごいなあと思う。

 

[ナレーション]

一本の電車が二人の運命を変えました。

夫婦はともに目が不自由で、視力が全くありませんでした。

夫の背に妻が手を添(そ)えて歩くのが、いつものスタイルでした。

十一年前、夫はこのホームから線路へと転落して亡くなりました。それは、妻が手を離した直後のことでした。

妻の悦子さん「生きているのも結構つらいです。

彼が生きていたら、私以上にもっと頑張っているんじゃないかなって。私がいなくなった方(ほう)がよかったなって、ずーっとずーっと思ってました。」

 

僕が初めて武井先生に出会ったのは1995年5月だった。

埼玉県戸田市の整形外科に柔道整復師の資格で入った時、武井先生はそこでマッサージ師として働いていた。

当時僕は43才、武井先生は27才で独身だった。

病院スタッフは系列を入れて30名はいたと思うが、武井先生は誰よりも明るくハキハキしていた。

仕事にも人間関係にも慣れていない自分に積極的に話しかけてきたのも彼だった。

たまに仕事帰りに2、3人の同僚を入れて飲み屋に立ち寄ったり、缶ビールとつまみを用意して公園で飲んだりしていた。

僕が視覚障害者用のしゃべる腕時計に興味を示すと、その場で自分の腕から外してプレゼントしてくれたこともあった。

職場では、週の初めの朝礼の時スタッフが順番にスピーチすることになっていた。

その日は自分の番で、埼京線の戸田公園駅ホームで偶然出会った患者の女子高生とのやり取り(コラム<38>に掲載)について話したら、武井先生が、

「今日の話よかったですよ。」

と言葉をかけてくれ、共感してくれる人がいたんだとホッとしたのを思い出す。

そんな武井先生が、白(はく)杖(じょう)なしで病院内を我が家のように縦横無尽(じゅうおうむじん)に歩き回っているのを見ると、目が見えないなんてとても思えなかった。

 

ある日のことだった。

その日は午後出勤の日で、埼京線戸田公園駅を下(お)りて歩いて整形まで行き、いつものように白サンダルに履(は)き替(か)えて更衣室のある二階リハビリルームへの階段を上(のぼ)った。

二階へたどり着くか着かないうちに、

「重共先生、お早うございます!」

という声が上から降って来た。

 武井先生だった。

 なぜ解ったんだろう?一日300人は来る患者さんやスタッフの中から、どうして僕の足音を聞き分けられたんだろうと驚いた。

 でも、次の言葉で納得した。

「駅のホームを歩いている時、杖の先でコンコンと叩くと、近くに人がいる場合、音が跳ね返ってくるので解るんですよ。」

 それで、テレビが目白駅のホームから転落したと報じているのを聞いた時、あの武井先生が何で方向を誤ったのだろうと信じられない思いだった。

 

[ナレーション]

道半ばでついえた夢、多くの人がその死を惜(お)しみました。

(妻の)悦子さん、ずっと抱えてきた思いがありました。

「私、ホントになーんで自分がこの世に生きてるんだろうって。いつも思ってたんですよ。

自分じゃなくて彼だったらどんなに世の中違ったんじゃないかなって。今でも思ってますよ。彼が生きていたら、私以上にもっと頑張るんじゃないかなって。」

 

転機(てんき)が訪れたのは視(み)良(よし)さん(武井先生)の七回忌(2017年1月)の時でした。

目白駅のホームで追悼式(ついとうしき)が行われることになりました。

鉄道会社が遺族側の要望に応じるのは異例(いれい)のことでした。

事故後、悦子さんは初めて現場を訪れました。

ホームドアが設置(せっち)されていました。献花(けんか)台も用意されていました。

追悼式には、事故当時、現場に居合(いあ)わせた駅員も出席していました。その時かけられた言葉が今でも忘れられません。

「この度は本当に申し訳ありませんでした。ご自身を責めず、お体に気をつけてください。」

 

この日の出来事は悦子さんの背中を押しました。

「みんなにこれだけ見守られているのに、しっかりしなさいよって思った。」

「運転手さんだってつらい。遺体を運ぶ人だとか、係の人もつらい。そういう人を二度と出して欲しくないから、あなたの事故をみんなの教訓として、このような事故がなくなるように頑張っていきたい。」

「ハーッてため息ついているよりは少し胸を張って、あの世へ行った時、ちょっとさ私頑張ったでしょって言えるように頑張ろうってその時思ったんです。」

悦子さんはその後、ある活動を始めました。

 事故が起こるたび現場に駆けつけ、当事者の立場で原因を探すようになったのです。

 三年前の視覚障害者の女性が転落死した現場では、悦子さんの指摘(してき)を受けて、この駅の点字(てんじ)ブロックが全て改修されました。

 

僕が最後に武井先生に会ったのは、整形外科を辞めて数年後、赤羽駅ホームの階段だった。

電車を乗り換えるため下(お)りていると、下(した)から上(あ)がって来たのが武井先生だった。二言(ふたこと)三言(みこと)言葉を交(か)わして別れたが、その時隣(となり)にいた女性が、後に奥さんとなる悦子さんだったんだなと思った。

そんな武井先生がブラインド(視覚障害者)テニスの考案者だったとはまったく知らなかった。

 

[ナレーション]

視良さんは、ブラインドテニスの生みの親として知られていました。

空中のボールを打つことは不可能とされていましたが、試行錯誤を重ね、六年かけて完成させました。視覚障害者の可能性を広げていったのです。

武井先生「だめだな。止(や)めちゃおうかな。と言うんじゃなくて、だめかもしれないけど、ちょっと努力してみ

ようかな。努力したことで不可能と言われたことが可能になることがあると思うんですよ。

     私は、それを信じてこのテニスをやってきています。」

 

 人生の一時期、彼と一緒に仕事ができたことは、自分にとって大きかったなあとつくづく思う。

 今でも、心の奥から武井先生のあの周りを明るくさせる声が響いてくる。

「そやね!」(僕の方言の口まね)

                               [次号 4月2日]

武井先生⇒右から4人目, 筆者⇒その後ろ     (職場の懇親会で)

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