真宗大谷派 浄円寺
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浄円寺コラム<47> 2022,1,22重共聡
お寺を継ぐために実家のある富山に戻り、気がついたらもう十五年経っていた。
見渡せば百パーセント大自然の中で、ゆったりとした時間の流れに身を任せている自分にとって、その日誰に会うかということが最大の関心事になってきている。
月忌(がっき)参り先でのいつもの会話や、道端で出会った人とのちょっとした立ち話も、自分の中での大きなニュースになっている。
そんなささやかな日々の中にも、新しい出遇いが向こうの方からやってくることがある。
人生は出遇い(その二)
正岡さん 2019春
五月のゴールデンウィーク明け、見ず知らずの人から一本の電話がかかってきた。
男性の声で、
「自分は正岡(まさおか)と言って現在埼玉県で暮らしています。
祖先は代々細野(ほその)地区(隣村)に住んでいたのですが、明治の頃、開拓団で北海道に移住しました。ルーツを調べているのだけれども、細野のお寺に電話したら門徒ではないことがわかり、隣にある浄(じょう)円寺(えんじ)さんに電話をしました。」
ということだった。
当然うちの門徒でもなかったけれど、細野は半数近くが北野(きたの)長楽寺(ちょうらくじ)地区の願(がん)立(りゅう)寺門(じもん)徒(と)だということを思い出し、願立寺の電話番号を伝えて受話器を置いた。
いつもは、そこで終わっていたところだ。
そこで終わらなかったのは、おそらく前年の秋に母の介護に集中していた生活に突然終止符を打たれて、ポッカリと穴の空(あ)いた心が、何か目標のようなものを求めていたからかも知れない。
受話器を置いてからしばらくの間、妙に電話のことが心に引っかかっていた。
何が気になったかと言うと、電話をかけて来た男性は、見ず知らずの家に電話するのに相当な勇気がいったんじゃないかということだ。
何かしてあげられないかと思った時、以前八谷(はつたに)(久夫)さんの家に月忌参りに行った際、明治時代の細野村の地図と北海道開拓団の名簿を見せてもらったことを思い出した。
そこで、その翌月の六月にお参りに行った時に、訳(わけ)を話してその地図と開拓団の名簿をもう一度見せてもらった。
案の定、そこには埼玉の電話の主である正岡さんの祖先と思われる『正岡次郎八(じろうはち)』という名が載(の)っていた。
そこで、八谷さんに地図と開拓団の名簿等関係資料を一式コピーしてもらい、埼玉へ郵送すると、折り返しお礼の手紙と家系図が送られてきた。
やはり正岡次郎八という人物は祖先だとのことで、正岡家の載(の)っている当時の地図と北海道開拓団の名簿が存在していた事にとても驚かれ、手紙には、
「昨今(さっこん)の都会では考えられないようなご厚意(こうい)を感じました。」
とあった。
送られてきた正岡家の家系図を眺(なが)めているうち、見覚えのある名前がいくつか目に入った。
「月岡(つきおか)」「大田」そして家系図の伝達者の中に「中田正成」「北川キク」という名前があった。
「中田正成さんは僕の同級生の父親で、息子は東大教授になっています。」
と早速メールすると、それらの名前の人物については全く知らなかったとのことで、びっくりされた。
それから中田さんの奥さん、次女、北川キクさんの甥(おい)、大田さんの末裔(まつえい)とコンタクトを取り、最終的に細野区長まで巻き込んだ結果、予想以上の情報を入手(にゅうしゅ)することが出来た。
お手(て)次(つぎ)の寺も当初の予想が当たっていた。願立寺の過去帳に正岡次郎八の名が載っていて、その箇所を住職がコピーして埼玉へ送ってくれたとのことだった。
正岡さんは、これらの情報を持って七月に北海道の実家の法事に行った際、親戚一同の前で報告したら、皆から感謝、賞賛(しょうさん)の嵐が起こり、特に過去帳と明治八年当時の細野村地図を見て、
「よくこんな古いものまで入手出来たな。」
と感心されたとのメールが届いた。
正岡さんは僕より十才年下で一流企業大日本印刷の研究員をしている。
ためしに手元にある本を確認してみると、三冊中二冊の印刷所が大日本印刷となっていて驚いた。
そして、九月十四日の麦屋(むぎや)祭りの日に埼玉から西明へ車で見えた。
初対面だったが、メールのやり取りを通して旧知(きゅうち)の間柄(あいだがら)のようになっていたので、一気に打ち解けられた。
午後一時に会って、正岡さんの運転でまず北野の願立寺へ行って過去帳を見せてもらい、それから今回の調査で特にお世話になった八谷さんと細野の中田さん宅に挨拶に行った。
それから最大の目的である正岡家跡を探(さが)すことにした。
地図では中田さん宅の隣りにある今は空き家の月岡家の辺(あた)りになっていた。
驚いたことに、まさにその場所が正岡家のあった場所で、土間(どま)は正岡治郎八当時そのままになっているということが、その後北海道の月岡さんからの情報で解った。
それから細野墓地を回り、城端別院で麦屋踊りを堪能(たんのう)した後、寿司(すし)恵(え)で祝杯(しゅくはい)をあげた。
なぜ寿司恵にしたのかというと、正岡さんがゴールデンウィークにルーツを求めて細野を訪れた時、何の手掛かりも得られず、帰り際にたまたま入った寿司恵で途方に暮れていると、事情を知った寿司恵の御主人が、
「それは、地元のお寺に問い合わせるといいですよ。過去帳があるのでいちばん確実です。」
と、細野の西光寺(さいこうじ)と西明(さいみょう)浄円寺の電話番号を教えてくれたという経緯(いきさつ)があったからだ。
やはり、見ず知らずの家へ電話するのは勇気がいったと打ち明けてくれた。
ところで、この話にはもう一つのドラマが隠(かく)れていた。
寿司恵の御主人がこの話に絡(から)んでくる。
桜井さんといって北野から(城端(じょうはな))町へ出た人という認識を持っていたのだが、さらに聞くと、事情があって桜井姓(せい)を継(つ)いだけれど、先祖のルーツは細野(ほその)にあり、明治に開拓団で北海道へ移住したとのことだった。
つまり、正岡さんの祖先と、たまたま入った寿司屋の御主人のルーツが同じ細野村で、ひょっとしたら同じ開拓団で一緒に北海道へ渡っていたかも知れないということだ。
そう考えると、この偶然の一致は小説家でもなかなか思いつかないんじゃないかと思った。
別に寿司恵でなくても、「幸(こう)ずし」でも「かねしま(割烹(かっぽう)料理)」でもよかった訳(わけ)だが、寿司恵に足を踏み入れたというところに、人知(じんち)を超えた不思議な縁を感じた。
午後一時から六時過ぎまで半日のつき合いだったが、こんな楽しい時間もあるのだなと思った。
そして、他人のルーツを調べるのが自分のルーツと同じくらいワクワクして夢中になれるものなんだということが、今回実際動いてみてよく解った。
正岡さんから頼まれたことがある。
「北海道の実家の母が高齢なので、この先もしもの時は、ぜひ重共御住職に北海道まで来てお経を読んでいただきたい。父が亡くなった時に来てもらった住職の態度が横柄(おうへい)で、みんな嫌な思いをしたので、重共御住職だったらみんな喜ぶと思います。」
北海道は遠いなあという思いとともに、その気持ちが素直に有難(ありがた)いと思った。
原稿⑭ 安心問答
【問い】
死んだ後の魂はあるのでしょうか?
【答え】
はい、魂はあります。ナムアミダブツという魂があります。
この答えの他に魂があるとかないとか、何万年議論しても答えは出ないでしょう。
魂があると思う人は、そのあると思う魂に振り回されて限りなく迷っていくでしょう。
魂がないと思う人は、「何もない」という恐ろしい虚無(きょむ)の暗黒(あんこく)の中に孤立するでしょう。魂があれば、そのある魂をアミダに帰依(きえ)し、なければ、そのない身を弥陀に任(まか)せてナムアミダブツ。
私にとって結局、あればナムアミダ仏となり、なければナムアミダ仏になるのです。私の魂はナムアミダ仏となって有るのです。
これがアミダ信仰に生きる者の明解(めいかい)な答えです。
【問い】
では、浄土は本当にあるのですか?
【答え】
はい、浄土は必ずあります。
でもいくら浄土があっても、ナムアミダ仏がなければ、浄土に参ることは出来ません。ナムアミダ仏の本願力(※)をいただかなければ、浄土に生まれることは出来ません。
行けなければ、無いのと同じです。
【問い】
では、どうしたら浄土に生まれることが出来るのですか?
【答え】
はい、浄土へは『ナムアミダ仏一つ』にて生まれるのです。
アミダにナムして(※)、ナムアミダ仏を信じて、ナムアミダ仏を称えて、浄土に参らせていただくのです。
その他に、浄土に生まれる道はありません。
※本願力…十八願の救い。「汝(なんじ)ただ一心に我を頼み、我が名をナムアミダ仏と称えておくれ。必ず地獄、餓鬼、畜生の業(ごう)苦(く)を超えて我が安楽国に生まれしめん。これ我が誓願なり。」(十八願の意)
何遍(なんべん)いただいても、何遍聞いても、私にはただこの弥陀の仰(おお)せ一つであります。私はただ、この弥陀のおおせ一つを信じて頼み、ナムアミダ仏と申すばかりであります。この他に仏教も修行も悟りもありません。
※アミダにナムして…ナムになる。罪の深いことだと知りながら、どうにもならないのが私の業(ごう)。
思う!言う!やってしまう!の業はどうにもならない。その業が念仏になって下さる。次々と作る罪がみなナムアミダ仏になってくださる。そうなってくださる。弥陀大悲の用(はた)らきに涙する。ナムアミダ仏。
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
第二部 医療日誌
激ツボ療法(その2) 1998春
施術室の壁際(かべぎわ)に出された椅子に腰掛けて治療を見学させてもらうことにした。
河村先生は、時々僕を手招きして実際に手技を体験させてくれた。説明は殆んどなく、この目で見て、自分の体で体験してつかむというやり方だった。
その治療はとにかく「痛い」の一言(ひとこと)で、翌日指で押した跡(あと)がアザになっていることがしょっちゅうだった。
僕は患者さんからは研修生と呼ばれていた。
「思いきり『痛い!』というから、どこが悪いかよくわかるでしょ。」
と解説してくれる患者さんもいた。
壁に一枚の写真額(がく)が掛(か)けられていた。
一目見て、元横綱大乃国(現、芝田山親方)の断髪式(だんぱつしき)のものだと解った。スーツにネクタイ姿の河村先生が髷(まげ)にハサミを入れているところだった。
「最初にハサミを入れたのよ。」
奥さんが言った。
こういうことだった。
河村先生と大乃国は北海道帯広出身の同郷で、先生は大乃国の父親と親しかったのだという。
横綱昇進のかかった場所の前日の稽古中に足首を捻挫してしまった。そこで急遽(きゅうきょ)東京へ飛んでいき治療してもらった。治療の後、大乃国は足をトントンと踏みしめて問題ないことを確認して場所に戻り、好成績を上げて横綱に昇進した。
義理堅い横綱は、その後お中元とお歳暮は欠かさないという。
僕も場所のたびに、番付表のお裾分(すそわ)けに預(あず)かっていた。
独特の治療だが、なぜそうやるのかは解らないまま、先生のやる通りに職場へ戻って患者さんに試していた。
すると予期しないことが起った。
「軽くなりました!」
を連発する患者さんが次第に増え始めたのだ。
そんな患者さんの反応に接するうち、この手技の素晴らしさを確信するようになった。
河村先生は八十才過ぎまで現役で治療にあたっていた。
平成十九年、富山へ戻って整骨院を開業した際に、正面入口の写真をプリントしたハガキを送ったら、奥さんにとても喜ばれた。
先生が亡くなった知らせを電話でもらった時、
「まず弟子から連絡しなくちゃと思って。」
と言われた。この時初めて、この治療法を伝承(でんしょう)していく責任を感じた。
先生が取った弟子は、聞いている範囲では僕を入れてわずか二人だった。
葬儀には、佐渡(さど)で活躍していると聞く、まだ会ったことのない兄弟子からの生花が飾られていた。肩書には、本人が名付けたであろう立派な療法の名前が付いていた。
ところで、先生の所へ通い始めてしばらく経った頃、遠い記憶のかなたから浮かんできた光景がある。
そこは薄暗く静かなマンションの一室で、治療を受けている自分がいた。
すっかり忘れていたのだが、実は、自分自身腰痛に悩んでいた学生時代の一時期、食堂のお兄さんの紹介で河村先生にお世話になっていたことがあったのだ。
昭和五十年当時は一回千円でやっていた。
ただ、その時痛かったという記憶はまったくない。
(つづく)
[次号 2月5日]