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             浄円寺コラム<29>      2021,5,15重共聡

 一隻(いっせき)の屏風(びょうぶ)

うちの本堂に隣接する客間に縦横170センチの二曲(にきょく)一隻(いっせき)(※)の屏風(びょうぶ)がある。

 左隻には『力田而食』、右隻には『布衣〇尊』の大きな字の拓本(たくほん)が貼(は)られている。意味はわからない。

 平成十九年に僕が整骨院を開業するまでは、今の整骨院の施術室にあった。

 以前は、そこを客間(きゃくま)として使っていた。

 ここからは、母から聞いた話を再現したい。

 

 選挙か何かで村の主な顔ぶれが集まった時のこと。

 当時、県議会議員だった大鋸屋(おおがや)の山田伊作(いさく)さんが屏風を一目(ひとめ)見るなり僕の父に言った。

「この拓本(たくほん)どうしたの?」

 父は質問に答えずに口をつぐんでいた。それでもなお、

「どこで手に入れたの?」

と、畳(たた)みかけて聞いて来た。

 困った顔をしている父をみかねて、その場にいた権次郎さんが口を開いた。

「私が持って来たものですよ。戦後、中国から引き上げる時にもらってきたものです。」

といった。

「それでわかった!」

それを聞いた伊作さんはようやく納得した様子だった。

 

 権次郎さんというのは、知る人ぞ知る自身が開発した小麦農林十号が緑の革命を起こし、コシヒカリ、ササニシキの原種の開発にも携(たずさ)わっている稲塚権次郎翁(おう)のことだ。

 農林省の仕事の関係で戦時中中国へ渡った権次郎さんが、戦争が終わって帰国するにあたり、中国の高官から贈られたものだという。

 それを父が屏風に表具していた。

「今までいろんな人の目に触れてきたのに、この拓本について聞かれたのは、山田伊作さんが初めてや。」 

母がしきりに感心していた。

僕はというと、今だにあの拓本のどこがいいのかさっぱりわからない。       

 

※二曲一隻…二曲とは折りたたむ面が二面であること。隻とは屏風を数える    

単位。したがって二曲一隻とは二枚折りで一本の屏風を指す。

 

 

 権次郎さんの回心(えしん)

 僕の記憶の中の権次郎さんは、夕方「おばんです。」と言ってうちへ来て、父と明け方近くまで碁を打っていたのと、リュックを背にスーパーカブに乗っている姿だ。

また高校二年の夏休み、一日だったか二日だったか何時間だったかも忘れたが、公民館で友達と二、三人して何かの資料作成のバイトを頼まれ千五百円貰(もら)ったことを覚えている。なぜかこの金額はしっかりと覚えている。日本通運の引越しのバイトが一日二千円の時代だった。

 物静かで温厚なイメージで、偉業を成(な)し遂(と)げた人だとは思いもしなかった。

 その権次郎さんが念仏者だったことはさらに知らなかった。

 城端別院そばのお寺の老僧が言っていた。

「権次郎さんは、法座によく顔を出して広辞(こうじ)苑(えん)を前に置き、熱心に耳を傾けていた。彼ほど的確(てきかく)な質問をした人はいない。」

 そんな権次郎さんが自分の領解(りょうげ)について述べている。

 

『正信偈に聞く』       稲塚権次郎

 わが城端町には城端別院善徳寺(ぜんとくじ)があります。

そこで毎月十日に正信会が催(もよお)され、正信偈のとなえ方やその解釈、味わい方などの指導を受けています。

また佐竹昭治さんのお世話で瑞(ずい)泉寺(せんじ)(杉谷(すぎたに))さんと傳(でん)栄寺(ねいじ)さんの御指導をいただけるなど恵まれた環境にあります。

 馬(ば)川(がわ)さん、梅原さんなど優れた説教も聞くことが出来ます。

 

 昭和六十三年三月、佐竹さんから何か書くように望まれ、私の持論である、

『太陽あって私が存在する

阿弥陀如来あって私の心が存在する

この大親(おおおや)様(さま)の大慈悲によって

生死(しょうじ)を超えた大安心(だいあんじん)に恵まれる。 他力の念仏

               90才 稲塚権次郎 』

と書いて、昵懇(じっこん)の方々にお分(わ)かちしました。

 昨年六月、荷物自動車が予想しない所にバックしてきたため、バイクに乗っていた私は避けようとして転倒し、お尻の骨の骨折と左膝の負傷でお盆までの三カ月間、城端厚生病院に入院しました。

 加療中にお念仏を申していましたところ、一夜他力の念仏を頂きました。

自宅に帰ってから心から念仏(有難さ余って)を申して他力の念仏にあずかり、

「うれしさを むかしは袖(そで)に包みけり 今宵(こよい)は身にも余りぬるかな」

の喜びにあずかって、嬉しさのあまり一晩中眠られず、また次の夜も仏(ぶっ)恩(とん)報謝(ほうしゃ)の念仏で眠れない喜びに感激しました。

 如来様のお導きで、この世から大安心に恵まれ、万事(ばんじ)万端(ばんたん)如来のお導きで生死を超えた大安心に恵まれ、踊(おど)り上(あ)がる喜びに感激しています。

 この喜びを皆様にお伝えして仏恩報謝の一端(いったん)にもと、これまで集めた仏教書などを参考にして私が原案をつくり、西明(さいみょう)部落浄円寺の重共(正念)師に見て頂いて注意された箇所を修正し、さらに仏典に精通(せいつう)した瑞泉寺(杉谷)さんに吟味(ぎんみ)していただいて完成したいと念願しています。

 別に、城端町役場の歸山(かえりやま)助役にコピーをお願いして、お説教を聞けない特殊な方々にお配りしたいと思っています。                

 (冒頭の文より)

 

以上が序文にあたり、そこからは正信偈の内容に入るため一気に難しくなっている。

 

 ところで、権次郎さんのトレードマークであるリュックの中味について、たまたま細野地区のKさんからこんな証言を得た。

「リュックの中には、NHKラジオ英語講座のテキストが入っていました。目の前で中を開けて見せてくれたので、よく覚えています。」

 九十才を過ぎても、毎日ラジオで勉強しておられたとのことだった。

 幾(いく)つになっても衰えることを知らない向学心に、さすが権次郎さんだなと思った。

 

 

<連載企画>

医療・介護の世界に足を踏み入れて

第二部 医療日誌

 一才半の時に両眼の網膜(もうまく)を除去して以来、完全に光を失ってしまったのだと聞いていた。

 普通、記憶をさかのぼって行くと、せいぜい三才位がやっと覚えているかどうかだろう。当然一才半の頃の映像は残っていないんじゃないかという疑問が湧(わ)いたので、そこのところを尋ねてみた。

 すると、やはり映像をイメージ出来ないという。

「立体に側面図と正面図があるというのが解らないし、遠くのものが小さく見えて近くのものが大きく見えるというのもよくわからない。」

という答え。

 でも患者さんとの会話で、

「昨日の曙(あけぼの)のつっぱりは威力(いりょく)があったね。若乃花はもう少し横に回り込めばよかったのに。」とか、

「やっぱりウィンブルドンテニスの男子のサーブは、女子に較(くら)べると格段に速いね。」

と言っているのを聞いたり、病院内を杖なしで自在に動き回っているのを見たりしていると、目が見えないなんてとても思えない。

 それ以上に、一緒にいるとこちらがとても爽(さわ)やかな気分になるのは、彼の持つ人間味のせいなのだろうか。

 

 なぜ僕が仕事中に眠くなったのかを尋ねてみた。すると、

「いつも患者さんとしゃべっているのに、急に声がしなくなったからですよ。」

という返事が返ってきた。

 でもそれだけではないような気がしていたが、それからしばらくして耳打ちしてくれた話は、自分にとって意外だった。

「駅のプラットホームを歩くとき、杖の先でコンコンと通路を叩くと、近くに人がいる場合、音がはね返ってくる(※)ので解るんですよ。」

 

 ヘレン・ケラーと家庭教師のサリバン先生の交流を描いた『奇跡の人』という映画を学生時代に観たことがある。

 目・耳・口が不自由で手のつけられない子供時代のヘレン・ケラーを、サリバン先生が絶望的になりながらも愛と厳(きび)しさでしつけていたある日、水の出ている蛇口(じゃぐち)に手を持っていったヘレンに目の見えていた時の記憶が突然蘇(よみがえ)って、

「ウ…ウ…、ウォーラー、ウォーター!」

と発音する感動的なラストシーンがあった。

 今日も、患者さんから差入(さしい)れのアイスクリームをほおばって、

「口の中が北極だー。」

とか、

「あんまり食べ過ぎると、内臓によくないぞー。」

と、明るくジョークをとばす武井先生を見ていると、彼もまた奇跡の人に思えてくる。

   

 ※エコーロケーション…自ら出す音を使って跳(は)ね返ってきた音を聞き分け、物の大きさ・形・

位置・距離などを知る能力のこと。イルカやコウモリにみられる。 

 

 十五年後の平成二十三年一月十六日。

 富山の実家へ戻って整骨院を開業していた僕は、つけっぱなしのテレビが報じる夜七時のNHKニュースに思わず画面を見つめ、そこに映し出されている映像に一瞬目を疑った。

「目白駅ホームから四十二才全盲の男性が転落し、電車に轢(ひ)かれて死亡。」とあり顔写真が映っていた。それは、まぎれもなく武井先生だった。

「あの武井先生がどうして?」

 久しぶりに会うのが、こんな形になるとは…。懐かしさと信じられない気持ちが交錯(こうさく)していた。

同じくらい驚いたのは、彼が視覚障害者のスポーツ『ブラインドテニス』の考案者として紹介されていたことだった。

 職場にいた時は、そんなことは一言も聞いたことがなかったし、そぶりも見せなかった。

 そんなすごい人物だとは全然知らなかった。

僕の知っている武井先生は、飲み屋で義眼を外(はず)してコップに入れ、

「目玉のビール漬(づ)け!」

などと言って、自分たちをアッと思わせる茶目っ気たっぷりの若者だ。

 

整形を辞めて数年後、赤羽駅の駅の階段を下りていると、奥さんと一緒に上がって来る武井先生を見かけて思わず声をかけた。

それが最後になってしまった。

 

 

 

 

 

          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左端→武井先生 隣り→筆者(仕事帰り近くの公園で;埼玉県戸田市)

                                   

                                   (つづく)                       

                              [次号 5月29日]

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