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             浄円寺コラム<23>     2021,2,20重共聡

シャガール 1987春

マルク・シャガールのリトグラフ(石版画)を買ったことがある。

 買わされたといった方が当たっているかもしれない。

 学習塾を始めて間もないある日、問題集を物色(ぶっしょく)しようと新宿の紀伊國屋(きのくにや)書店に立ち寄ったら、エスカレーターを上った二階の一角(いっかく)で絵画の展示即売会をやっていた。

 前を通り過ぎようとすると店員に声をかけられた。買うつもりはないがそれでもよかったらと断ったうえで説明を聞くことにした。

 

何枚か掛けられている中で、淡(あわ)いブルーを背景にしてパリの街並(まちなみ)とその上(じょう)空(くう)に羊や人間が浮かんでいるシャガールの作品が目に留(と)まった。

「瞑想的(めいそうてき)でいいですね。」

と言うと、そのスタッフも同調してくれ、

「最近、個人で本物の絵を持つのがブームになっていて、月々のローンで簡単に手に入れることが出来ますよ。」

と、親身(しんみ)になって勧(すす)めてくれた。

 聞きながら、

「これを塾の目玉(めだま)にできるかもしれない。」

という思いが脳裏をよぎった。

「シャガールを教室に掛けておくと、絵の効果で成績が上がり、生徒が増えるかもしれない…。」

 気がついた時には、契約書に判(はん)を押していた。

 

 新築ビルのフロアーを仕切ったパーテーション(間仕切(まじき)り)のアイボリー(象牙(ぞうげ)色)に、額付(がくつ)きの絵はマッチした。

 眺(なが)めていると絵の中の世界に引き込まれていくようで、気持ちが落ち着いてくるのが

解(わか)った。

 塾をやっていた五年間、その絵は壁から子供達を見つめ続けていた。

 他の教室は、サンフランシスコの夜景のポスターなどを次々と貼(は)り替えていた。新しくしても時間が経つうち見飽(みあ)きてくるからだ。

 

ところが、シャガールは三年経(た)っても五年たっても、初めて見た時と同じ印象を持ってその世界に導(みちび)いてくれた。伝わってくるものがまったく色褪(いろあ)せることがなかった。

 これが本物の持つパワーなのかなと、自分なりに納得していた。

 

オンライン法話 2021冬

 ニューヨークから、オンラインで法話をやるとのメールが届いた。

そして日曜日、用事をすませた朝の十時過ぎ、整骨院受付けに腰を落ち着けパソコンを開いた。

メールに表示してあったリンクをクリックしてあれこれ操作いると、急に画面いっぱいにニューヨークで布教活動をしている名倉(なくら)さんが間(かん)衣(え)姿で現われた。

 新しく借りたアパートの自室で法話の最中だった。リモートでの参加者は四十名を越えていた。

 じっと画面を見つめているうち、初めて出遇(であ)った時のことを思い出していた。

 

 平成十八年九月、僕は実家の寺を継(つ)ぐために、二十年間住み慣れた埼玉県川口市から富山の実家へ戻ってきた。

翌月から見習いとして、母について約五十軒の月忌(がっき)参りをスタートさせた。

十二月に入って間もなく、住職の資格をとるために二泊三日の予定で東本願寺内にある研修道場へ入った。

 当日は住職候補生約二十名と、同数の付き添いの計四十名が全国から集まった。

 約十名ごとに住職組二班、付(つ)き添(そ)い組二班の計四班に分かれて研修が始まった。

 朝六時に起床して部屋やトイレなどを清掃した後、御影堂(ごえいどう)で早朝勤行。それから朝食、講義、班ごとに各部屋でテーマを決めて座談(ざだん)、昼食、講義、座談、夕事(ゆうじ)勤行、夕食といったスケジュールだったと思う。

 その頃、僕は実家のお寺へ戻って三カ月経(た)っていたが、まだ定職(ていしょく)についておらず今後のことで頭がいっぱいだった。整骨院を開業しようか、勤めに出た方がいいのか、勤めに出た場合は医療系にしようか、他の職種にしようか迷っていた。

 それで、座談の時間、みんなに胸の内を話して相談にのってもらった。すると、中の一人が寺で接骨院をやっている住職がいるよと教えてくれた。

 この一言(ひとこと)は、整骨院を開業する方向に強く背中を押してくれた。

  

夕時勤行の際に感話の時間があった。

数人ずつみんなの前で五分前後話をする場が持たれた。住職候補生たちはさすがに慣れた様子で話していた。

 ところがその中で、周りの空気を一変させる話をした人物がいた。生きた一言(ひとこと)一言がこちらの心に語(かた)りかけてきた。

驚いたことには、彼は住職ではなく大阪のお寺の住職候補生の付き添いで参加していたのだ。

並みいる住職候補生を前に臆(おく)することなく熱弁(ねつべん)を振(ふ)るっていた。

それが、現在北米開教使として奮闘(ふんとう)している名倉さんだった。

 

翌朝、彼と洗面所でバッタリ顔を合わせた。

 そこで、二言(ふたこと)三言(みこと)言葉を交(か)わした。たしか感話の感想だったと思う。

 そして二泊三日の住職修習を終えての帰り際(ぎわ)、再び玄関で鉢合(はちあ)わせした。この時名刺を交換した。

 もし、帰るタイミングがわずかでもずれて、玄関で顔を合わせていなかったら、その後の展開はなかっただろう。 

 

三年してそのことを忘れかけたころ、一通の封書が家(うち)へ届いた。海外郵便でハワイからだった。名倉さんは住職修習の後、教師の資格をとって開教使としてハワイ別院で活動しているとあった。

 その後、ハワイ別院での任期を終えて一旦(いったん)帰国した時に富山へ立ち寄ってくれ、再会が実現した。

 近年は、夏にアメリカから帰国する度(たび)に一泊二日で南砺市へ足を延ばし、旧交を温めるのが恒例(こうれい)になっている。

 

 

 オンライン法話の終わりに質疑応答の時間があった。

誰かが「因縁」について質問した。

 それに対し名倉さんは、

「私という存在そのものが因縁ですよ。」

と言った。

その瞬間、『自分そのものが因縁なんだ。』という思いとともに、今まで何度も読んだり聞いたりして解ったつもりになっていた因縁の概念(がいねん)が、一気に僕の体全体に広がってきた。縁が今まさに、自分に息づいていると感じた。

 同時に、両肩にのしかかっていた『自分』という重みがスーッと抜(ぬ)けて、体が軽くなっていくのが解(わか)った。

 師匠の櫟(いちい)先生がよく言われた、

「仏教は、知的理解ではない。この身で頷(うなず)くことが大事です。」

とは、このことかなと思った。

 

 

<連載企画>

医療・介護の世界に足を踏み入れて

  • 大東医専物語

 最後の授業

 三月八日(水曜)の登校日は、ロッカーのカギを学校に返して卒業式の説明を受けた後、解散した。

 帰り際、内履(うちば)き用の白いサンダルを捨てるビニール袋が下足箱(げそくばこ)に設置されているのが目に入った。

 一旦捨てようとして、思い直した。

 三年間苦労を共にしてくれたこのサンダルを、晩年になった時取り出して感慨(かんがい)に耽(ふけ)るのも悪くないなと思ったからだ。

 

 その日、ちょっと気にかかったことがある。

 三年間担任だった藤平(ふじひら)先生が教壇に立ち、

「君たちが授業として学校へ来るのは、今日が最後になります。」

と言われた時、あの大きな目が赤く充血(じゅうけつ)していたのだ。

 翌日、花田学園OBのKさんに会った際そのことを話したら、

「うーん。」

と驚いた表情を見せて、しばらく沈思(ちんし)してから言った。

「それは、生徒に対する思い入れが深いからだよ。」

 

 卒業式

 卒業式は、来賓(らいひん)も学校職員も例年とほぼ同じ顔ぶれで同じように進行していった。そして滞(とどこお)りなく終わった。

 記念撮影のために式場を出てとなりの柔道場で待機(たいき)していると、弦(つる)弓(ゆみ)さんが目を真っ赤に腫(は)らして入って来た。

「大丈夫ですか?」

と聞くと、

「先生に声をかけられたら、ホロリときちゃった。」

と打ち明けてくれた。

 やっぱりかと思った。といいうのは、昨年の卒業式の終了後、

「来年、自分たちの時は、先生の顔見たら泣くかもしれないな。」

と、情(じょう)にもろい弦弓さんが僕に言っていたのを思い出したからだ。

 撮影が終わって、正面玄関を出たところに横付けされたバスに乗り、謝恩会の会場になっている池袋のホテルへ向かった。

 僕は車窓を流れていく街並(まちなみ)に目をやりながら、最後にすることになっている先生方への謝辞(しゃじ)を頭の中で繰り返していた。

 

謝恩会は、三年の間に教えを受けた先生方二十人余りを招き、立食パーティ―形式で行われた。

 まず、クラス委員長の弦弓さんが挨拶に立った。

 弦弓さんは、C市役所で土木関係の課に所属し、公園や道路を造(つく)ったり、橋を架(か)けたりと仕事をバリバリこなすやり手だったのだが、四十代半(なか)ばで将来を保証された地位を惜(お)しげもなく捨てて専門学校に入った変わり種(だね)だ。

 彼の包容力(ほうようりょく)とリーダーシップは、年齢層に幅があり、したたかな連中も何人かいるこのクラスにはうってつけで、みんなから慕(した)われていた。

 挨拶(あいさつ)の締(し)めくくりに、

「そしてクラスの皆さん、本当に…」

有難うございました、と言おうとしたのだろう。でも詰(つ)まって、後は言葉にならなかった。じっと見守っていた僕は、思わず下を向いてしまった。

 

 その後から先生方一人ひとりのスピーチが続いた。

 生理学の森先生の姿が目に入ったので、近づいていき、

「国家試験、難しかったですよー。」

と言ったら、

「あの問題もこの問題も、授業でやったプリントと関連した問題だったじゃない!」

と反撃されてしまった。

 副校長の増淵(ますぶち)先生の所へビールを注(つ)ぎに行くと、

「彼は大学の後輩で、科も同じなんだよ。」

と、隣(となり)にいた歌人で第一期卒業生の大坂先生に、眼鏡(めがね)の奥の目を細めながら話された。

 物理学の岩崎先生が、一人黙々(もくもく)とビールを口にしておられたので、

「あの日は本当に感動しましたよ。」

と、お母さんが亡くなられたにもかかわらず授業に出られた日のことを話したら、

「そんなこと教育者として当然!生徒たちが待っているのだから。」

と、こともなげに言われた。

 若い岡田君と小林(康)君が、

「重共さん、お世話になりました。頑張ってください!」

と言ってくれたのは嬉(うれ)しかった。

 北村整形外科の黒川(くろかわ)先生が、

「また手術見に来いよ。」

と言われた時は、思わず、

「いいんですか?」

と聞き返したほど、有難いと思った。

                                  (つづく)

                               [次号 3月6日]

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