真宗大谷派 浄円寺
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浄円寺コラム<14> 2020,10,17 重共聡
赤飯 1975春
近年、高齢者ドライバーのブレーキとアクセルの踏み間違いによる事故が社会問題化している。
実は自分も同じことが、過去に一度あった。
当時二十二才の僕は、大学の春休みを利用して実家に帰省していた。
中野区野方(のがた)の間借(まが)りから程(ほど)近(ちか)い練馬自動車教習所で運転免許を取り、半年経(た)った頃だった。
その日は、僕の運転でとなり町の福光(ふくみつ)へ行くことになった。助手席に父、後部座席には親戚で同い年のマーちゃんが同乗していた。
あとで振り返ると、直前に兆候(ちょうこう)があったような気がする。
広い直線道路に入る際、他の車の影がなかったので一旦停止の標識を無視して左折した。その時、父が何か注意したようだ。
そして、直線道路に入った。その時まで眼鏡(めがね)をダッシュボードに載(の)せていたため、運転姿勢のまま右手で眼鏡を探(さぐ)った。が、手に触れないので、視線を落として眼鏡をたぐり寄せ、畳(たた)まれたフレームを開こうとした。
その間二、三秒だったと思う。運転していることを忘れていた。
「ガガガガガ!」
突然、大きな音をたてて車体が揺れ始めた。
気が動転するとはこういう時のことを言うのだろう。
何が起ったのか解らず、無我夢中でハンドルを握り締め、アクセルはそのままさらに踏み込んでいた。
「ドーン!」
「パーーーーー!」
何かにぶつかって車が停止したところで、我に返った。
助手席にいた父は足元にうずくまったまま、微動だにしない。
マーちゃんは額(ひたい)を切ったのか出血している。
二~三分して父の体がゆっくり動き出した時は、救われた思いがした。
車外へ出ると、車の前部は大破(たいは)してボンネットが持ち上がり、後部座席は前に飛び出していた。
そこで、ようやく事態が呑(の)み込めた。
眼鏡に注意を奪(うば)われているわずかの間に、車が徐々に左にそれて道から外(はず)れ、六十~七十センチ下がったところに広がる田んぼへ侵入(しんにゅう)し、そのまま七~八メートル暴走(ぼうそう)したあげく、境界に設置されたコンクリート塀(べい)に激突してようやく止まったのだ。
当時は今ほどやかましくない時代だったので、三人ともシートベルトをしていなかった。
自動車修理店をやっている親戚の伸(しん)ちゃんに連絡を取って後(あと)を任せ、鳴りっぱなしのクラクションを耳にしながら、僕たちは帰路についた。
家へ到着して間もなく、落ち込んでいる僕に父が言った。
「赤飯(せきはん)炊(た)かんなん。(赤飯を炊いてお祝いしないといけない。)」
「えっ?!」
「免許取ったばかりだから、これ位(くらい)ですんでよかった。これで事故の怖(こわ)さが分かって運転が慎重(しんちょう)になる。いつか必ず起こすんだから、早いうちでよかった。大分(だいぶ)たって慣れてからだと大事故になる。」
思いがけない言葉に、みるみる心が軽くなっていった。
結局、父のスバルは廃車(はいしゃ)。僕はハンドルにぶつけた鼻が倍に膨(ふく)れて、半年間は会う人ごとに顔が変わったと言われた。
「赤飯炊かんなん。」
あの時は、沈んでいる自分を励ますための、半分ジョークかなと思ったが、そうではなかった。
あれから自分の運転に自信がもてなくなり、その分慎重になって、この三十五年間はゴールド免許(無事故、無違反)が続いている。
父には先見(せんけん)の明(めい)があったなと思う。
よみがえった声 1992 ⑤
Q「地獄は苦しいってことは別にして…。人間は苦しみを経験して初めて、何がよかったとか、なにが悪かったとか解るのであって、だから若い時は現実主義だから、(苦しみは)現代まあ資本主義社会に生まれた者の宿命(しゅくめい)だと思うんです。」
A「娑婆(しゃば)でこれだけ苦しんどりゃ、地獄へ行ったって日(ひ)経(た)つわい(大丈夫だ)というような腹づもりになっとるがやろ。
六道(ろくどう)と、こう言う。「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天上界」。世界が六つある。
そん中で、人間世界はこっで(これで)一番いいところじゃ。ほんじゃさからいで、この娑婆でこんな苦しみみたいなら(この程度の苦しみなら)、ずっと娑婆におりゃいい。(何か)欲しけりゃ買うてこれるし、餅は食べ(られ)るし、すねたにゃ(すねると)暴れるし、こんな生活が地獄なら、こりゃ、まことに楽な地獄です。
そっで(それで)、娑婆でこっだけ苦しんだかって、ほんまにアンタ、苦しい娑婆ということが解るかいね。
ほれで、娑婆というところはまことにいい世界で、どんな人にも幸福(こうふく)があるもんじゃ。
あんたらちゃ(あなた方が)こうやって火にあたって暖かくして、そしていろんなご
馳走(ちそう)を食べて、そしてまことに楽な生活をしておる。
その生活の内容においては、そりゃその人その人の差はあっても、まことに幸せな、というのは、この寒さに宮(神社)の縁(えん)の下(した)に(寒さで)震(ふる)えておる人もあれば、公園のベンチの下に寝る人もあるし、それから、今日食べ物ない言うて飢えに苦しむ人もある。
それからみたさいな(そういう人達からみると)、この(皆さんの)顔みたさいな、宮の縁の下に寝とるような顔は一人もおらん。それから、今日、食べ物がなかったりして、食わんと来た言うような顔も一つもない。まことにその人その人で、幸福な生活をしておる。
ところが、自分の幸福を忘れて、他人(ひと)の幸福をうらやむさからいで(羨(うらや)ましく思うから)苦労が出るんだ。
自分の幸福を見つけて日暮(ひぐ)らし(生活)すりゃ、それでいいが(それでいいんだ)。お互いに幸福があるが(あるんだ)、その幸福を見つけて、自分の幸福だけで満足して日暮らしをする。
その意味において、乞食(こじき)にも幸福があるらしい。ワシャ京都へ参りに行った時、山門(さんもん)の脇(わき)に寒いがに(寒いのに)ムシロ一枚かぶって寝とるもん(者)がいた。可哀(かわい)想(そう)になったさかい、毎朝パンこうてきて(買ってきて)持ってってやると、かぶりもん(かむっているものを)ちょっとめくってニコニコッと笑って受けとった。(そこに)ニコニコッと笑うだけの幸福がある。
お互い、ひとの幸福をうらやまんが。他人(ひと)の幸福をきなるがらんが(羨(うらや)ましいと思わない)。おのれおのれの幸福を見つけて、その幸福を喜んで、その幸福に生きて、自分自分の働きをしてもらいたいと、わしゃこんな(ふう)に思うわけです。」
これが最期の説法になった。
いや僕が最後に聞いたのは、亡くなる数日前、小学校のスキー大会の前夜だった。病床についている祖父が襖(ふすま)ごしに言った。
「人と競争するがでない。自分と競争するがや。自分に勝てればそれでいいが(いいんだ)。」
これは、小五の自分にとって最初の人生(じんせい)訓(くん)だった。
「お祖父ちゃんが言っていたよ。」
と、母が何度か聞かせてくれた、祖父が自身の信仰について漏(も)らした言葉がある。
「念仏ひとつありゃそれでいいが(あればそれでいい)。あと、なーんもいらん(他には何もいらない)。」
重共正念(しょうねん)(清(せい)松(まつ)) 評伝
[生年月日]明治24年11月2日生
[出生地] 福光町高畠(たかばたけ)
[得度] 明治43年6月14日
[特殊旌賞]昭和39年2月25日
高畠(たかばたけ)に生まれたが、幼時から大窪の加藤(母の実家)で育った。餓鬼(がき)大将で、よく悪戯(いたずら)を働いた。
説教は宝性(ほうしょう)氏と共に当時説教者として名高かった三(さん)清(きよ)の武部(たけべ)老師に師事し、二人共に
有名な説教者となった。
大正8年12月31日、29才で西明浄円寺に入った。
長女雪美が生まれて間もなく離婚した。幾度か再婚を勧められたが、今の母娘3人の
生活が最も楽である。継母(ままはは)に会えば子供に可愛そうであり、我が身も心遣いが苦しいと言って独身で通した。
俗人より僧となり、僧位も上座に進んだが決して高ぶらず、常に黒衣を纏(まと)い、お勤め
の際には外陣(げじん)に座り上段(内陣(ないじん))には上らなかった。
第三組(城端、福光、五箇山)の寺院に法要などの儀式があれば常に総指揮役を勤め、
儀式も極めて厳格であった。
城端別院の勤行(ごんぎょう)(読経(どきょう))は日本一と新門(しんもん)様(門首後継者)に折紙(おりがみ)をつけられたが、これは
氏が若い僧侶方を督励(とくれい)し指導した賜物(たまもの)である。
毎月参る各戸の勤行(月忌参り)は家格(家柄(いえがら))、人の在不在に関わらず丁重(ていちょう)に行った。
強(し)いて氏の欠点をあげれば、説教に歩いた後に時間はあっても月経(月忌参り)に参ら
ない事があったことであろう。それは説教に疲れるのと、あの丁重な月経の疲れで多く
勤めることが出来なかったためらしい。
青少年の教育に熱心で熱意と愛と厳格を以(もっ)て指導に当たり、良寛風に子供と共に遊び
私費を以てブランコ、角力(すもう)場、野球用具などを寄附した。
弱きを助け強きをくじく義侠(ぎきょう)心に富み、戦時中、成出発電工事の朝鮮人人夫が年末、
親方に人夫賃を取られ、帰る旅費もなく城端駅で迷っているのを見て同情し、持ってい
た物を全部恵んでやったと言われている。
僧侶間の選挙にも常に弱者に味方して敗けた。
母をよく使ったが、亡くなった時は涙を流し徳を称(たた)えた。
碁、将棋は素人の域を脱し、庭園に趣味をもって之を築き、歌、踊りも上手であった。
常に感謝して念仏していた。
亡くなる前日附で法主から賜った特殊旌賞は、第三組ではこれまで笠原研寿師(恵林
寺)一人という高位のものである。
昭和39年2月26日入寂。
法名 西明院(さいみょういん)釋正念(しょうねん)。
前田宅次郎氏著『西明誌』より
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
-
大東医専物語
各先生のこと
解剖学の小島先生
小島先生はいかにも解剖の先生といった風貌(ふうぼう)で、講義に入るとすぐ自分の世界に没入(ぼつにゅう)してしまわれる。
目線は、生徒たちの頭上を越えてはるかかなたへ向けられ、そのかもし出される雰囲気に浸(ひた)っていると、解剖学の何(なん)たるかが漠然(ばくぜん)と解った気になってくる。
錘体(すいたい)交差(こうさ)のところで、どうして脳と体が左右逆なのか、つまり、左脳は右半身、右脳は左半身を司(つかさど)っているのか、質問しようとしたところ、
「なぜ?という自然科学はありません。どのようにしてなったかは、ありますが。」
と先手を打たれてしまった。
「手相(てそう)なんていうのは、解剖学的にはまったく無意味です。」
といった余談も興味深かった。
三年になって授業がなくなってからも、時々階段やトイレで会ったりすると、
「元気ですか?」
と声をかけて下さり、有難いと思っている。
先日、上野公園内にある博物館で催(もよお)されたプラスティネーションと銘(めい)打った人体標本の展示会に足を運んだ。
すると、そこに解剖学会の名札をつけた係の人がいたので、試(ため)しに、
「日大の小島と言う先生、知っておられますか?」
と聞いてみた。すると、
「よく知っています。今度会ったら伝えておきます。」
という返事が返ってきた。小島先生の顔の広さにあらためて驚いた。
(つづく)
[次号10月31日]